5-1_283プロのヒナ_幽谷霧子

少女は世界と対話する。幽谷霧子の見る景色

シャニマスが誇る、情緒フルスロットル大爆発のコミュを右ストレートでかましてくるキャラクターといえば。
そう、幽谷霧子さん杜野凛世さんです。(大主観)(最近はめぐるも)

この二人は割と独特な感性を持っていて、(私的に)書くのが大変です。私は割と二人の出てくる漫画を書いたり本を出したりしていますが、毎回ひーこらしています。
特に霧子のほうは何かしら霧子の見ている世界の法則や論理に従って動いているのが明らかで、ただのほんわか不思議ちゃんキャラではないのに、その世界の法則や論理はいくら考えてもわからない、という状況でした。ですが、【我・思・君・思】が来たことで、突然目の前がすーっと晴れて、その法則が見えたような気がしたので、まとめたいと思います。

※※※これはあくまでも「二次創作者」が「2019年7月現在」の状況から読み取ったものであって、これが正しいわけでもなく、あくまで、今のコミュと照らし合わせてこの読み方もできるよね、この読み方は矛盾がないよね、という提示の一つとして捉えてもらえればと思います。※※※

簡単にまとめてしまうと、
①霧子の世界においては人でないものにもクオリア(意識)があって、その意識と言葉に限らない手段で霧子は本当に対話しているのではないか。
②一方で世界の法則を乱すような不思議なこと(サンタの存在、花がメッセージを書く)はないとわかってるけれど、それは世界との対話と矛盾せず同居できるのではないか。
ということです。
あとはコミュを読み返していて思った「伝えること」というテーマと「さん」づけの境界について思ったことを余談で語ります。
詳しく説明していきます。
以下、霧子の最新含むいろんなカードのトゥルー含むいろんなコミュの画像が出てきます。ネタバレ嫌な方は注意してください。【伝・伝・心・音】のトゥルーだけ見られてないので考慮に入ってないです。

あなたの赤とわたしの赤

霧子の世界に踏み込む前に、先程出てきたクオリアについて説明させてください。私は哲学について詳しいわけではないので、ざっくりとした説明になります。どこかずれていたら教えてください。

クオリアとはつまり「感じ」のことです。

感覚的・主観的な経験にもとづく独特の質感。「秋空の青くすがすがしい感じ」「フルートの音色のような高く澄んだ感じ」など。感覚質。

デジタル大辞林によるとこのように説明されています。
赤い色を見て見える「赤の見え方」、空を思い浮かべたときの「青い感じ」、色に限らず、音色や味など、私達が受け取るあらゆるものにクオリアがあります。
ただ、これはあくまで主観的なものであり、他人が本当にクオリアを持っているのか、同じような感じを受け取っているのかを証明することは誰にもできません。クオリアを持っていたとしても、同じ感じを受け取っているとは限らないし、自分の見ている赤の感じをそのまま他人に伝えることもできません。同じ色で塗って見せたとしても、受け取る側は同じ電気信号から別の感じを受け取っているかもしれないからです。

このクオリアを持っていない人を「哲学的ゾンビ」と呼びます。
行動はすべて普通の人間と同じなのに、それを感じている主観はない。すべてが電気信号の反応のみ、物理法則のみで存在している人です。そんな人いるの!?と思うでしょうが、他人に自分のクオリアを見せて証明する手段がない以上、哲学的ゾンビの存在を否定することはできません。
もしかしたら、この世の中で赤を感じているのは自分だけかもしれない。
世界の底が抜けるような、そんな話です。

世界との対話

霧子の話に戻ります。
私は、霧子は人でないものに対してもクオリアを認めているのだと思っています。人でないものにも意識があるということです。

そんなのありえない、と思うかもしれません。でもこの感覚は私達にもあります。たとえばおやつを目の前にした犬の尻尾をふる態度や口を開けた様子を見て「喜んでる」「笑ってる」と言う人がいます。(私もその一人です)犬にクオリアがあるのかは謎で、でも私達はそれをあるように感じたりします。それを無機物にまで世界全てに適用したのが霧子なのではないかと思うのです。
たとえば、木々の揺れやざわめき、日の光に当たってきらめいた葉、水を受けて沈んでいたはなびらがぱっと伸びる。
そういう、世界のあらゆる事象から、ある存在が「嬉しそうにしている」「悲しそうにしている」を読み取って、対話をしている。それが霧子の見ている世界。という解釈です。

【夕・音・鳴・鳴】の第一コミュ「われたよ」でそれは顕著に描かれます。

プロデューサーがお礼をいうとぱっと世界がホワイトアウトします。それは陽の反射でカップの破片がきらめいたというだけのことですが、霧子はそれをお返事と受け取りました。
霧子のしていること、見ている世界はこういうことなのではないかと思っています。霧子は世界のすべてに語り掛ける。そうすると世界はさまざまな形でお返事をくれる。自分の行動に対し返答が来る、それは立派なコミュニケーションです。

これ見るとかなりしっかり声が聞こえてるっぽいですが。
でも、そもそも【霧・霧・奇・譚】のコミュのすべてが夢の中の話かもしれないので、すべてがこのレベルなのかの判断は保留したいところです。

この【霧・霧・奇・譚】に見られるような、夢と現実の境界のあいまいさについてはまた後で語ります。

霧子は常に「人でないものと言葉を介さない対話」をしています。

他者のクオリアをあらゆるものに認め肯定すること。
自分のクオリアが他人に見せられない、それならば他人にクオリアがないこともあるかもしれない。それと同じ理屈で、それならば「どんなものにもきっとクオリアがあるのだろう」と思うこともできます。霧子の態度はこの「どんなものにもクオリアがある」ではないでしょうか。
そして、他人のクオリアを確認できない以上、私達に無機物のクオリアを否定することはできません。

他者の世界と主観の世界

一方で霧子は、自然法則を覆す不思議なことは起こらないと知っています。

サンタの存在もそうですし、プロデューサーが花に添えたメモに対する態度もそうです。自己の主観でない世界における物理法則を霧子は無視しません。霧子は「ファンタジーな世界を夢想する空想少女」ではないです。
霧子の世界で空飛ぶスーパーマンはいませんし、水が踊りだすことはありませんし、花がペンを使いメッセージカードを書くこともありません。

(ただしものと会話はする)

主観でない世界が物理法則にのっとって動いていることを霧子は知っています。その代わり、霧子の主観における世界はどこまでも多様に変化します。霧子のコミュには夢の話や現実との境界があいまいな話が多く登場します。

【霧・霧・奇・譚】もそのひとつです。

絵アドがすごい。

最初のコミュ「霧」は、霧子が恋鐘にシュシュを届けようとしてそれがかなわず、一度事務所に戻ったところで眠りに落ち、恋鐘がうさぎさんになる不思議な夢を見ます。ところが、目覚めてみたら、そもそも最初のシュシュを届けようとしていた時点から夢だった、という内容です。
続くコミュ「綺」でも現実から地続きのように夢が展開されていきます。
「戯」と「帰」は現実の話のようですが、「戯」では「霧」で夢に入るときと同じホワイトアウトの演出が使われ、そこから霧子とぬいぐるみのうさぎさんの不可思議な会話が始まります。摩美々からは念じているだけに見えていたようですが、霧子の主観では小さくなってうさぎに手を伸ばしていました。私はこれが本当に現実での出来事かあやしいと疑っています。
ただ、「帰」ではその夢の中で手に入れたであろうぬいぐるみが事務所にあり、みんなもその出来事を共有しています。なので、普通に考えれば現実だったんだな、と思って終わるのですが、霧子の夢の中の出来事のはずのうさぎの旅に対応するようなことを恋鐘は言いますし、摩美々も同じようなことを言います。
つまりはすべてが夢?すべて現実?どこまでが本当にあったこと?となるのですが、これは、世界は変わっても人々は変わっていない、という霧子の世界の一端ではないかと思っています。【我・思・君・思】コミュで語られる、夢と現実の人々の連続性です。

【我・思・君・思】のコミュで霧子は言います。

普通は、夢の中に出てきた人物を、現実の人物と同じだと思いません。
でも、霧子の世界において、夢の中の存在は現実と連続性のある存在です。霧子は夢から覚める、あるいはこれから眠る、そんな次の世界へ向かう状態の中で、目の前の存在に対して「この咲耶さんにおはようするね」と言います。次の世界でも、咲耶さんは咲耶さんです。そして、その連続性はすでに【霧・霧・奇・譚】で証明されています。

また、【夕・音・鳴・鳴】のトゥルーコミュでも、霧子は同じようなことを語ります。

霧子は今自分がどこにいるかよりも目の前にいるのが誰か、を大切にしています。哲学には、世界が5分前にすべての記憶や歴史を持った形で突然生まれたのだとして、そのことを誰も否定できない、という世界5分前仮説というものがあります。これも哲学的ゾンビと同じく、世界の底が抜けるような怖い話です。夕音鳴鳴のコミュはそれと似たようなことを話しているのですが、霧子はたぶん、今この記憶があるならば、そしてこの記憶が続くならば、たとえここが5分前に生まれた世界だとしても、5分後に世界が変わるとしても構わないんですよね。
【我・思・君・思】の最後に登場する廃墟は、いま見ている夢のようでもあり、もしかしたらシャニマスの世界はすべて霧子の見ている夢で、あの世界こそが現実なのかもしれない、という世界のひっくり返しがあります。これは胡蝶の夢という荘子の考えに似ています。でも、その怖さを、荘子の悩みを霧子は気にしません。夢でも夢じゃなくても、そこにはいつもの咲耶がいるからです。

コミュで描かれる霧子の夢には、いつでも変わらぬアンティーカの面々が出てきます。メタ的に言えばキャラ以外を出すことはできないので当然なのですが、霧子が夢と現実があいまいになるのを怖がらないのは、夢にみんながいるからなのでしょう。
霧子がほぼ唯一夢の中で焦るのは、【霧・霧・奇・譚】の「綺」でみんながアリスの登場人物になってしまうところです。つまり、いつものみんながいつものみんなでなくなる時です。
もし、みんなのいない世界があるとしたら、霧子が一番恐れるのはその世界なのでしょう。

伝えるということ(余談)

霧子のコミュでは、世界のありかたの話と同時に、「伝える」がとても多く描かれています。

コミュの中でキーとして使われるアイテムも、なぞなぞの本、糸電話、メッセージカード、メールのやりとり、かくれんぼ、など他者を必要とするものが多いです。確かにプロデューサーとのやりとり、という性質からそうなりがちではあるのですが、めぐるのココアや図書館や魚や映画、凛世のぶらんこや人形や短歌などと比べると、そもそもが一人ではできないことが多いように感じます。

霧子はどこまでも主観の世界で生きていますが、だからこそ他者の存在を必要としているのかもしれません。とか、霧子は今は世界と接続していますが、他者によって自分と世界の線引きをし直して自我を獲得している最中なのかもしれません。とか結論づけたくなりますが、性急すぎる気がするのでもう少しきちんと考えたいです。

対話する相手としての「さん」(余談)

霧子はものにさんづけをしますが、中にはしないものもあります。私はこれを対話をしないもの(道具、役割)は呼び捨てで、対話をする相手はさんづけなんじゃなかろうか 、と想定して読みなおしていました。

違いました
違いましたが、悪くない線だとは思っているので、一応自分が何か新しいものを書く時には対話するしないを基準に置こうと思っています。もっといい基準見つけた方がいたら教えてください。

道具として使う場合は呼び捨て?

終わりに

まあこの話はいまのところほぼ矛盾なく通ります、というだけなので、今後出てくるコミュで突然の新情報とともに焼け野原になるのでしょう。そうしたらまた色々考えます。その時が楽しみです。
最後に霧子のモノクロームキャストのポエムを添えて終わりにしたいと思います。

小鳥よ小鳥、世界はきみの庭。

最初はお洒落〜って思ってただけですが、こんなにも霧子にぴったりな言葉はないなっていまは思います。
世界はきみの庭。いっぱい世界を楽しんでね。

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