シャニマスへのラブレター

シャニマス、それは私の光………

これはシャニマス信者による自分語り記事です。
私自身の考えや生き方や人生の話や、妄言やうわ言があります。
一般的な布教記事は浅瀬編で書いているので、よければそちらを見てもらえればと思います。(2年目浅瀬編も書く予定です)
これは深淵編の予定でしたが、深淵と呼ぶには踏み込みが浅くなったので、ラブレターとして置いておこうと思います。

シャイニーカラーズのすべてがすきだ。
盲目的になっている。いや手のひらを返して「こんなの私の好きなシャニマスじゃない!」って言う準備はできてるんだけど、シャニマスはものすごく上手に繊細に「シャニマス」を拡張し続けるものだから、私はそれを受け入れてしまう。
シャニマスは二年経って、始まりとは全然違う場所にいる。それでも通ってきた全部がシャニマスになっている。
高山Pが「挑戦の年」と言ったのは確かにそのとおりだったのだと思う。シャニマスの挑戦は傍から見るととっても地味で、けれどうまくやらないとファンからそっぽを向かれるような大変なことだった。

シャニマスのこの1年での変化は、「優しい世界」から、「つらいことも優しくない人も不条理なこともある世の中で、それでも優しい目線を持つ世界」への変化だと思う。
1年目のシャニマスは優しかった。お互いを尊重しあって、誰がどんなことをしても、「その子らしい」で終わらせる。それを揶揄したり変だと言う人は登場しなかった。
でも、2年目に差し掛かる時期から、それは少しづつ変化していく。
イルミネの感謝祭ではアイドルに対する価値観の違うディレクターが現れ、【は~と♡に火をつけて】で恋鐘は嫌な(現実に多くいるような)大人をパーティで相手にする。【さかさま世界】の絵は変なふるまいをするあさひの背景で母親が「見ちゃいけません」と言うがごとく子供の目を隠そうとしている。そもそもあさひは共通コミュで「ずっとひとりぼっちだった」と語る。

この世界は理想郷ではない。
私は最初それが怖かった。優しいシャニマスが好きだったので、もしも芸能界や現実の厳しさ路線に行ってしまったら悲しいな、と思っていた。実際、その想像はあたっていた。アイドルたちは出来レースで負けたり、役を失ったり、オーディションに落ちたり、苦難に直面するようになった。
でもシャニマスはただ厳しいだけで終わらなかった。
この世界は理想郷ではない。それでも優しくあることはできる。
冬優子がふゆを破って冬優子を見せたのはあさひのためだ。プロデューサーは恋鐘に「ちょっと深呼吸しに行こう」と言う。真乃は「すごいからじゃなくて、めぐるちゃんだから」隣にいたいと思う。めぐるは光のなくなった世界で「誰かに触れたい気持ちになった時、手を伸ばしてね」「わたしはその手に触れるから」「絶対に握って離さないから」と言う。
シャニマスは変わらず優しかった。

厳しいこともある世界で、だからこそ優しくあろうとする283プロのみんながまぶしかった。それは優しい世界にいた頃よりも、尊く輝いているように見えた。
優しい世界は日々の疲れの癒やしになるけれど、優しくあろうとする目線は日々を生き抜く救いになる。私は何度もシャニマスに救われた。
癒やしと救いはどちらがすぐれているというものではない。両輪バランスがとれていないといけないし、人間は誰しも両方のコンテンツを無自覚的にバランスを取りながら摂取していると思う。
ただ、癒やしから救いへ変化させるのは、並大抵のハンドリングでは難しい。これは例えて言うならアイカツからプリパラへ、そしてキンプリへ変化させるようなもので、アイカツ世界に嫌なモブが出てきたら、それだけで拒否反応を起こす人もいると思う。
そのことの良い悪いはあまり大事ではない。好きだった頃と違う路線に行ったから離れた、という経験は誰しもあるだろうし、単にコンテンツの性質についているファンもいるという話だ。時として、私達はびっくりするほどコンテンツの変容に狭量だったりする。
シャニマスはゆっくりと、でも間違いなく舵をきった。それはそこそこ成功していると思う。もちろん重い空気が苦しくなって離れた人もいるだろうし、その人に対して変とかどうしてとか思うこともない。

シャニマスの2年目のテーマは【曇天】である。
空を冠するアイドルものの2年目に選ぶにしてはずいぶん尖ったそのテーマは、こうして振り返ってみると確かにそのとおり、曇り空だった。
1年目の終わりにストレイライトが追加された。
彼女たちは当初、彼女たちだけがこの世界で異質なのだと思われていた。ただの(しかし巨大な)一石でしかなく、その一投で終わるのだと思われていた。
ストレイライトはシャニマスという世界にさざなみを起こし、そのさざなみはやがて大きくなり、ゆっくりと世界を作り変えた。

新ユニットのノクチルは「海」という概念を引き連れてやってくる。
彼女たちはシャニマスの何を変えるのだろう。あるいは、何を変えないのだろう。その答えがわかるのはきっと一年後だ。一年後のシャニマスがどこにいるのか、楽しみで仕方ない。

というところで筆を置けば気持ちよくまとまりそうなものだけど、まだ全然好きなところを語れていないので、このラブレターはまだまだ続く。


シャイニーカラーズが好きだ。
いつからこんなに好きになったのか、もう全然覚えてない。
はじめのころはずば抜けた絵の良さだけ見ていた気がする。
最初に感心したのは果穂ちゃんのコミュで、小学生を高校生と間違えてスカウトしたときに、「お父さんとお母さんに名刺を見せて話をしてね」って言う工程を踏んだところだったと思う。もしかしてこのP、真面目でまともな人なのか?と値踏みをしていた。

さらに、あれ、と思ったのはアンティーカのイベントで、三峰がPに霧子のことを電話で頼んだ時だった。
あれ、ここで二人で魂をぶつけあって解決しないのか、珍しいな。
私はアイマスの大雑把なところが気に入っていたので、直接でなく間接的に問題の大きさを測る、という当たり前で現実的な手法に面食らった。
そして、大雑把なものを見るときのメンタルから、もう少し丁寧に心情を追うものを見るときのメンタルに調整した。

このメンタルの調整は、傷つかないための防御壁でもある。たとえばアイマスには恒例行事として胸を触るとそれに反応するコミュがあり、それを防御壁なしで見てしまうとセクハラを受けたときのトラウマが蘇ってしまって落ち込む。
だから私は、アイマスを始めとした二次元コンテンツを見るときには、私とコンテンツを切り離して特有の「鈍感」を身にまとう。
この「鈍感の防御壁」は調節が可能で、私は何重にもある壁をコンテンツに合わせて増やしたり減らしたりしながら、多くのコンテンツを楽しんでいる。でもそれは、コンテンツが私の感情に肉薄しないということだったりもする。なので、防御癖はできる限りで薄く、ただし傷つかないレベルに調整していく。これは作中のファンタジーのレベルに対して「ああそういう世界ね」と思うのに似ている。魔法を使う世界に対して「物理法則を無視できるわけない!」と怒っても仕方ない。最初から「そういう世界」として生まれているのだから。
同じように、二次元の男性向けコンテンツに現実のあれこれ重ねたってしょうがないじゃん。だって男性向けコンテンツを楽しむ女ってもともとマーケティングの対象じゃないだろうし。という態度で接してきた。自尊心の下がる振る舞いだけど、それをすることでコンテンツを楽しめるなら、私にとってはちょっとくらいの自尊心は投げ捨てる価値がある。可愛い女の子が大好きで、可愛い女の子は時に私自身より大事なのである。

私はめちゃめちゃ細かくて面倒で、比較的人権意識が強めだけどコンテンツの面白さとの兼ね合いを大切にしてもらいたいオタクだ。なので、どんなコンテンツだとしても、どこかもやもやする部分は生まれてしまう。
たとえば配慮してない作品を読むと防御壁がなければ即死だった………というダメージを受ける。だからといって、配慮しすぎて面白くなかったらそれは面白くないから読まないし、配慮してるから手放しに素晴らしいとも思わない。
めんどくさいな!そうだよ、めんどくさいんだよ。
配慮と面白さだったら、面白さが勝る。
問題があるけど面白いなら、防御壁を厚くして読めばいい。面白くない作品は読めない。

余談
誤解のないように述べておくと、私のしてほしい配慮は一般的なポリコレ的なものとは違う。どこなら許せてどこは許せないはたぶん各々基準があって、それを画一的に規定するのは無理だよな〜と思う。
だからといって、「誰も傷つけない表現はない」で思考停止するのは表現者としてどうなんだろうとも思っている。
「それが誰を傷つけるか分かっていても、私はこれを表現したい、その表現で描きたいものがある」と「誰も傷つけない表現はない」の間には越えがたい壁があるように思う。
そこで立ち止まって思考したかどうかは、作品全体やちょっとした言葉の端々ににじみ出るだろうから。
余談終わり

でも、ここのところ、私の面倒くささを越えて居心地の良い作品が増えてきているな〜という気配は感じていた。そんな中でシャニマスは、私の望むすべてを持っていた。

いま私のシャニマスに対する防御壁はほぼゼロだ。
(ほぼ、なのは時々高校生にスモッグ着せたりパイタッチ機能があるから)
ちょっとずつ、ちょっとずつ、シャニマスは絶妙な描写で、私の防御壁を壊していった。
あさひが天才と定義されないことが嬉しかった。
めぐるのアンニュイな面を、人間は明るいだけではない、という程度で表現しているのが嬉しかった。
霧子に当たり前に友だちがいるのが嬉しかった。
ただし凛世のときの鈍感耳遠振る舞いプロデューサー、あれはゆるしがたい。
あと摩美々の共通コミュの「一生懸命さが足りない」「謙虚さが欠けてる」「可愛げがない」の選択肢はどれも選びたくない。

ただ、だからといって、誰かにとってシャニマスが傷一つなく完璧に配慮されたものかというと、きっとそんなことはない。この文章は、私とシャニマスの相性がこのうえなく良かった、今のシャニマスが私の求めているものだった、というだけの話で、誰にとってもシャニマスが最高で文句のない存在であるという保証書ではない。


シャイニーカラーズが好きだ。
大好きだけれど、たまに悔しくてたまらなくなる。
シャニマスは私の理想の方向性のシナリオを、煮詰めて煮詰めて濃縮して、めちゃくちゃなクオリティで出してくる。そのうえ、価値観が近いからか、収集している先が近いのか、ネタが死ぬほどかぶる。公式と感性が近すぎて二次創作ができない、書きたいことを何百何千倍ものクオリティで公式が出してくる、そんな幸せで不幸なことある?
私はそこそこ長く二次創作で漫画や小説を書いているのだけれど、昔からずっと、概念をエピソードに落とし込むのがものすごく苦手だった。シャニマスはエピソード化やモチーフの選定がすごく上手で、私は常に最高~!!!と同時に、悔しくて悔しくて歯を食いしばる。

私にはこれが書けない、という絶望である。

二次創作とはいえ、私は自分の思う世界や価値観を表現したい、と思って書いている。でも、私はシャニマスにかなわない。大好きだけど、尊敬しているけど、ほんのちょっとはライバル視もしていて。流石にシャニマスという土俵に乗って公式に勝とうとは思わないんだけど、もし、万が一、漫画家やその他の形として作品が表に出るようなことがあったとして、私は誰にも負けたくない。でも、今の私ではシャニマスの二番煎じ以下で終わってしまうし、一生かかってもシャニマスを超えるようなものは書けない。
同じ土俵で勝負をしなければいいのだろうが、私のやりたいことはシャニマスで表現されているようなことで、人生でずっと、(シンデレラガールズの五十嵐響子ちゃんに狂って慣れないラブコメを書いていた6年位を除いて)10年は続けてきた表現を捨てるのは憚られた。私は10年、ずっとシャニマスを書きたかった。私の行き着きたかった、そのさらに先が示されてしまった。それは乗り越えるべき壁なのだが、困ったことに私はその壁を愛している。

どうにか表現を広げたくてもがいている。
もう本当に、シャニマスで二次創作をやるのは正直辛い。ほのぼの日常。ある。シリアス重めエピソード。ある。エモい百合。ある。エモい男女。ある。すこし不思議な話。ある。ファンタジーパロディ。夢オチや仕事の体を取りながらある。未来の話。夢オチながらある。モブ視点のコミュ。ある。そういうのは二次創作に任せておいてくれませんかね!?という隅から隅まで書いてくれる。しかもすごいクオリティで。
唯一の望みは明確に恋になった百合とR18である。これは公式にはなりえない。
私は主に百合を書いている。ただ、困ったことに、推しCPのふたりに恋に落ちてほしいわけではない。公式で絶対に見られないからという理由で恋の話を多く書いているが、本当のところは恋に限定せず、公式の書くような愛で満たされた二人の関係が書きたい。愛なら公式が理想を書いてくれる。好きだから書きたい。書く以外にあふれる好きを収めておく方法がわからない。その衝動に任せて物語を書いてみるけれど、公式にははるか遠く及ばない。悔しい。

せめて公式と殴り合えるようになりたい。いや殴り合ってると思ってるのは私だけのシャドーボクシングなんだけど、受け取った感情の解像度が10%以下の出力になるのはやっぱり悲しい。うまくなりたいなぁ。どうすればいいんだろう。

思い描く最高の推しCPを表現したい。妄想で泣くように、自分の漫画を読んで満足できるようになりたい。読んでくださる人にも満足してもらいたい。なんなら感情をぐちゃぐちゃにしたい。私が昂ぶったふたりの推しポイントで一緒に昂ぶってもらいたい。もしよければそのまま推しCPを好きになってもらいたい。
いまの私は、推しポイントを伝えることはできても、そこに至るまでの過程があまり効果的でないなと思っている。ほぼ「推し!ここが推し!!」ってセリフに出してるだけなので…カタルシスらしきものは作っているものの、そこにいたるまでの積み重ねが足りていないため、最大限にカタルシスを活かしきれていない。冷静に自作の弱点分析するのつらい
シャニマスは、テーマに対するモチーフの選び方と、テーマを伝えるための過不足のなさが高い水準で行われている。盛り上げ方も、カタルシスの作り方も最高に好み。ただじわじわ型なので、地味だと思う人はいるかもしれない。でも私はそれが大好きだ。


シャイニーカラーズが好きだ。
ということをnoteや長い文章で話す際に、意図的に触れないできたことがある。
霧子と恋鐘の百合についてだ。
どうして触れなかったのかと言うと、まあ作品として出力してるし…twitterで喚いてるし…というのは言い訳で、結局はうまく話す自信がなかったためだった。言葉にすると取りこぼすことが多くて、そうじゃないんだよな、となってしまう。私がすきな霧子と恋鐘は、細かいエピソードの積み重ねの、微妙なあわいにあるもので、これはこうです!と説明するのが難しい。この説明の難しさはシャニマスのキャラ全体的に言えることでもある。
でもまあ、シャニマス愛してるよの中で大きなウェイトを占めているふたりについて、がんばって書こうと思う。

ところで、これを読んでくださっている方の中で「愛」はどのような形をしているだろうか。
私は一時期それをずっと考えていて、私にとっての愛は無重力の中のあたたかい水のような、ゆるやかに満たされて、浮かび漂うものだなぁと思った。
その時期は友だちに「愛ってどんな形してると思う!?」と質問してまわり、みんな各々の思う愛について一緒に考えてくれた。茶化したり馬鹿にするひとはいなかった。良い友だちを持った。
ベイマックスのおなかみたいな感じ、手をつないだ時のあったかい感じ、相手を自分より優先したいと思うこと、遠くに離れてもずっと心にあること、辛くても一緒にどこまでも行けること、旅先から手紙を送り続ける感じ。
いろいろな答えがあった。

なぜこんなことを言い始めたのかというと、そもそもはきりこがねの同人誌の総集編の装丁を悩みすぎたためだ。すべてが台無しである。
霧子と恋鐘の間にある「愛」が好きで、その愛をどうにか一冊の本の装丁として閉じ込められないだろうか、と思ったのだ。
結局装丁はいまだに決まっていないけれど、愛について真剣に考えたことはその後の創作のプラスになっていると信じたい。

霧子と恋鐘の間には愛がある。
正確には、霧子が恋鐘を愛している。
恋鐘も霧子を愛している。ただし、それは他の子たちと同様に、平等なものに過ぎない。恋鐘の恋はプロデューサーのほうを向いている。
私はその非対称な愛が好きで好きで好きで、同人誌を何冊も出して、ただひたすらに、「霧子は恋鐘を愛しています」を繰り返し続けている。

霧子と恋鐘のサビをいくつか紹介したい。

「……恋鐘ちゃんは……
恋鐘ちゃんは……春に似てる……」
「うちが春に?」
「大きくって、あったかくって……
心を……明るくしてくれて」
「う、うちは……。……そげんこと霧子に言われると、
何て言っていいかわからんばい……!」
「わたし、春は……大好きだよ」
「な、なんねなんね…!」
「いつも…ありがとう
恋鐘ちゃん……」
/ 綿毛ノ想

これを愛と呼ばずして、何を愛と呼ぶのだ。
もうひとつ。

「うち、自分のことば~っかりでいっぱいいっぱいやけん
もっとがんばらんば、魚に嫌われる!」
「こ、恋鐘ちゃんを、嫌いな人なんて……
い……いないんじゃないかな……!」
「な、なんば良いよっと、霧子!
それに、魚は人じゃなかよ~」
「あ、そ、そうだね……」
「ふふ~霧子は優しかね~……ほら、金魚も寄ってきとるばい
うちももうちょっと霧子みたいに優しくなれたら……」
「ここの魚、迎えにくるけんね!」
「こ、恋鐘ちゃん……
恋鐘ちゃんこそ──」
「あ、霧子、なんか真っ赤になっとるね!
こん金魚にそっくりたい~!」
「こ、恋鐘ちゃん……──!」
「ふふ……わたし、金魚さんになったら……
恋鐘ちゃんのお家に行くね……」
「ほんとね~!?」
「うん……! そうなったら……
毎日……遊ぼうね……」
/ 娘・娘・金・魚

愛………………
さらにもうひとつ。これは恋鐘のお誕生日に霧子が寄せたコメント。

「誕生日ばい……
プロデューサーさん……
春が……生まれた日……」

あ、あ、あ、あ、あ、あ、愛だ~~~~~~~~~!!!!!!!!!!
こんなん突然ぶちこまれたら脳みそ大混乱パーティが巻き起こるのもやむない。

もうほんと、ここに書ききれないくらいの無数の絡みがある。
ところで私はマイナー基質の人間だった。マイナー、というよりは「一度の大きな接触」や「描かれていないけど確実に繋がってる」を糧にちまちま創作をしていたようなタイプだった。ひとくちで1年戦えます!みたいなタイプの私に、シャニマスは無限に推しCPを浴びせてきた。私は1つ刺激を受けると2〜3冊プロットが出来るタイプなので、推しCPの出したい本は、いま40を少し超えたところだ。とはいえ、もう時期的解釈的に出せないなというボツも多く含んではいる。一方出した本は1年で5冊。少ない。もっとがんばろう。
ちなみに強く殴られると本を出したくなるので、シャニマスの更新のたびに他のキャラでも書きたいことが増えて、筆が全く間に合わない状態が続いている。

話を戻そう。
私はもともと、CPの幸せが続くことを信じていなかった。推しCPに求めるのはいつだって「相互不理解」「感情の重さの差」「一時うまくいっても数年後に別れてそう感」「そもそも付き合わない感」「唯一救うことのできなかった相手」とかだった。
「私はきりこがねで愛を知ったんですよ!」とはたまに冗談で言うことなのだが、これは割と間違いではない。
私は推しCPの幸せを忌憚なく祈るのが初めてだ。
幸せを祈るのが正しい振る舞いだとは思っていない。各々の信仰や推しCPのキャラクター性に合わせて望む姿は変わっていくだろう。ただ、人間はバームクーヘンエンドマンからハピエンマンに生まれ変わることがある。あるんだ…自分がそうなるなんて…

推しCPよ健やかなれ…

ところで私は推しCPを太陽と月に当てはめがち人間だ。
属性で好きになるわけではないのだけれど、どうしても惹かれがちな傾向があり、これまで通ってきたほぼすべてを、太陽×月で表すことができる。(一部太陽×向日葵とかもある)宇宙やら世界やらの要素が関わるとさらに好きだなという感じ。本当に、お前は…そういうのが好きだな……と笑われるようなラインナップをしている。(2つ例をあげると、まどマギのまどほむとハルヒのみくつる)

1年目の終盤まで、霧子と恋鐘にその兆候はなかった。太陽的な明るい恋鐘と、月みたいにミステリアスな霧子〜!愛~!好き〜!という、ものすごく浅い理解をしていた。好きだな〜程度だった私が抜け出せない沼に落ちたのは、恋鐘の名字が「月岡」なことに気付いた瞬間である。
「あれっ、恋鐘は月なんじゃないか?」
「もしかしてシャニマスは、最初から恋鐘を太陽にする気がないんじゃないか?」
「ということは霧子が…太陽なんじゃないか…?」(ナチュラルシンメ思考)

そして、恐ろしいことに、その妄想が公式となってしまう。

2019年1月のお正月ガチャで登場した恋鐘。【月の浜辺で待っとって】。衣装は十二単、月のお姫様、つまりかぐや姫のお仕事だ。
月!!!!!!!!!!じゃん!!!!!!!
そして2019年5月。イベント報酬の霧子。【天・天・白・布】。その中でプロデューサーが言う。
「そうか…霧子がお日様なんだ……」
太陽!!!!!!!!!!!!じゃん!!!!!!!!

というわけで、月みたいな太陽と太陽みたいな月という、今までのCPにありそうでなかった部分に私はメロメロになってしまった。ものすごく妄想がはかどった。
追撃として、恋鐘が宇宙の話を、霧子が世界についての話をしてくるようになった。
なぜ?こんな好みの組み合わせが?好みの話を?なぜ?わからない…わたしの都合のいい妄想としか思えない……これが現実……推しCP…パーフェクト…

私は十数年前からずっとこの二人を書いていた。この二人を書くために今までがあったような気さえする。いままでの推しが今の推しを書くための力になる感じ、ほぼ最終回。

私はいずれ、霧子と恋鐘を書かなくなるだろう。かつてどんなに熱中したCPも、もうずっとこの子たちだけ書く!と思っていたあの頃も、いまとなっては遥か昔で、私は今きりこがねを書いている。いつか自分の中ですとんと納得して、情熱がふっと収まり、物語を書き終える日が来ることを私は知っている。
永遠なんてない。
でも、永遠を信じてしまうくらいの、いまこの瞬間の思いは嘘じゃない。


シャイニーカラーズが大好きだ。
高山Pとライターとイラストレーターとプログラマーとマーケターと、一体どんな役職の人がいてどんなふうに作ってるのか全くわからないけど、シャニマスに関わるすべての人が、健やかに不自由なく幸せに暮らせますように。できれば辛い思いから仕事を辞めませんように。そして優秀な人が入ってきてコンテンツがより良くなっていきますように。
シャニマスはこれからも変わっていくし、私も日々を生きる中で価値観が変わっていく。
ずっとずっと、このまま一緒に変わりながら、それでも大好きな存在で居続けてくれることを、今はただ願っている。

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