ごちそうさま

 箸で運んだ肉を歯で噛みしめると、果実を絞ったように肉汁が中から溢れ出す。咀嚼すれば口内で繊維が蕩けて、角砂糖のようにほろほろと崩れた。ごくり。呑み込めば、微かな甘みとともにそれは喉を流れ、食道をずるずると進み、胃袋の中にたっぷり詰まった胃液のプールにぽちゃんと落ちる。舌先に残る濃密な味の余韻と胃袋が満たされた幸福感が胸を膨らませて、私の頬は自然と緩んで笑みを浮かべた。あまりのおいしさにほっぺたが落ちちゃいそう。私は自分の頬が落ちないように両手で押さえて、頭の中に染み渡る恍惚に酔いしれた。ああ、おいしいな、おいしいな。
 「ごちそうさまでした」
 手を合わせてお決まりの挨拶。そうして、初めて私は目の前の二つの優しい瞳がじっと私を見つめていることに気が付いた。まさか、ずっと見られていたの。大口を開けて肉にかぶりついたところも、だらしなく頬を緩めてしまっていたところも。私は途端に恥ずかしくなって、きっとリンゴのように赤くなっている顔を俯かせて髪の陰に隠した。ああ、もう。恥ずかしくて顔で目玉焼きが焼けちゃいそう。
 「ふふ、おそまつさまでした」
 おいしかった? 幼い子供を慈しむような彼の柔らかな微笑みに、私は赤い顔のままこくりと頷く。よかった、口に合ったみたいで。彼は嬉しそうに、けれどどこかにほっとしたような色を滲ませて笑った。やっぱり料理を他の人に食べさせるのは、おいしいかどうか心配になるんだろうな。料理を作るのが苦手な私には、きっとこれからもわからないのだろうけど。
 「みっちゃんはいつもとてもおいしそうに食べてくれるから嬉しいね」
 だって、本当においしいんだもん。彼と付き合い始めてから、体重が少し増えてしまった。お腹もこころなしかマシュマロみたいにぷにぷにしている気がする。そろそろダイエットでもしないとなあ。
 「前もやるって言って三日で諦めてなかったっけ」
 みっちゃん、運動とか苦手だもんねえ。呆れたように苦笑する彼に、私は反論の言葉をごくんと呑み込んだ。あれは、だって、その。言い訳が口から零れ落ちては力なく落ちて溶けていく。結局、へたれな私は彼の呆れの表情から逃げることしかできなかった。
 「あ、洗い物するね」
 「うん、よろしく」
 私が言った瞬間に浮かんだ彼の申し訳なさそうな表情に、思わず私は失敗したなと心の中で反省した。今さっきまで噛みしめていた幸福感がどこかに吹っ飛んでしまいそうなほど。
 彼は世話焼きだ。付き合った相手をお姫様に仕える執事みたいにでろでろに甘やかして、そしてそれが何よりも楽しいらしい。けれど、今の彼はもう、洗い物すらも一人ではできない身体になってしまった。そのことに後悔はしていないみたいだけれど、私に任せっきりになってしまうことがひどくもどかしいらしい。彼らしい、どこまでも優しい悩み。けれど、不謹慎とは思うが、私はほんの少し嬉しさを感じていた。人のために何かをすることがこんなに嬉しいなんて、きっと彼と付き合わなければずっと知らないままだったんだろうなあ。それとも、大好きな彼だからこそこんな気持ちになるのだろうか。まあ、私がこんなことを考えているなんて、彼はどうも気付いていないみたいだけれど。
 「ごめんね、全部押し付けちゃって」
 「気にしないで。このくらいは動いていないと、私、本当にナマケモノになっちゃうよ」
 謝る彼を元気づけようと、私はわざと冗談めかして言う。みっちゃんだったら、ナマケモノになってもきっと可愛いんだろうなあ。そうしたら、彼がそんなことをさらっと言うものだから、私はまた赤くなってしまった。うん、やっぱり好きだなあ、彼のこと。好き、好き、大好き。食べちゃいたいくらい。どうすれば、このフランベみたいに燃え上がっている私の想いを伝えられるのだろう。
 私は彼の顎に手を添えて、つまみ食いをするように唇にキスをした。これで、伝わるかなあ、私の想い。もっと食べたい思いを我慢して唇を放すと、いつも余裕たっぷりな彼が珍しく耳まで真っ赤に色づけされていた。恥ずかしさと嬉しさの入り混じった彼のその表情を見ていると、もうどうにも胸がたまらなくなって、彼の頭を思いきりぎゅっと抱き締める。彼の唇はイチゴのように甘くて酸っぱい恋の味がした。

 彼との出会いは高校二年生の時。じりじりとオーブンで焼かれるような暑い夏だった。すり鉢のようなスタジアムの席でじゅうじゅうトーストされながらの野球部の応援はひどく億劫で。けれど、私だけだらけるというのも、なんだかみんなにも野球部にも申し訳ないし。そんなことを考えて必死に我慢していたものだから、気が付いたら仰向けになっていて、おまけに話したことのない男子に顔をのぞき込まれていた時は何事かと思った。つまるところ、私はあまりの暑さに倒れてしまって、日陰に移動させられていたらしい。彼はそんな体調の悪い生徒の面倒を見る係だった。
 「はい、これ、飲みなよ」
 「……ありがとう」
 彼から差し出されたのはスポーツドリンク。私はまだぼんやりとする頭でそれを受け取った。ペットボトルの口にそっと唇を当てて傾けると、すっと透き通る爽やかな清涼感が喉に流れ込んで、熱く蕩けていた身体の芯をふぅふぅ冷ましていく。ほっと一息ついたら彼が穏やかな笑みを浮かべて私を見ていたことに気が付いて、今更ながら恥ずかしくなってしまった。ほら、せっかく冷ましたのに、もう熱い。
 「驚いたよ、突然倒れたから」
 だいじょうぶ? なんて。彼はそう言って私の額に手を当てる。白魚みたいにしなやかで、それなのに、女の私の手よりも大きくて力強い手。私がびっくりして餅のようにカチコチに固まったことに気が付いたのか、彼はごめんごめんと慌てて手を離した。私も恥ずかしさで俯いて、いや、その、気にしないで、と聞こえもしないような小さな声でもごもごと呟く。あの頃は青かったなあ、二人共。まるで成熟していない果実のようだった。
 彼は勉強もスポーツもできて、それでいて優しかったし、おまけにかっこよかったから女の子たちから人気があって。私も密かに憧れていた。いざこうして近くで見ると、彼は本当にかっこよくて。熱中症は治ったはずなのに、今にも鼻血が出そうなくらい顔が熱かった。とか思っていたら、彼は柔らかく笑っていた顔を少し厳しく引き締める。お、怒らせたかな。私が身を縮めて固くなっていると、彼は途端にふっと笑って私の額をぱちんとデコピンした。
 「ダメだよ。身体の具合が悪いならちゃんと言わなくちゃ」
 「だ、だって、まさか倒れるとは思わなくて」
 「言い訳しない」
 「は、はい……すみませんでした」
 よろしい。力なく肩を落とす私の頭を、彼はその大きな手でふわりと撫でる。まるで大切なものを扱うようなその優しい手のひらに、私の恥ずかしさは一気に沸点を超えてしまって、その後の記憶は残っていない。けれど、何だかひどくどもりながらお礼を言って、大慌てでみんなのところに戻っていった気がする。その後にみんなから、彼が倒れた私をお姫様抱っこして運んでいったと聞かされて、野球応援中ずっと顔の熱が引かなかったのは内緒の話。まあ、それから彼に告白されて恋人同士なるものになっちゃうわけなのだけれども。
 それにしても、あの日はみっちゃんみたいに具合が悪くなって倒れる女子が多かったなあ。思い出すような目でぼやいているけれど、それ、間違いなく彼のせいなのだろうな。
 「そういえばさ、みっちゃん、覚えてる? あの時のスポーツドリンク」
 「覚えてるよ」
 「あれ、実は僕のなんだ。間接キスだね」
 「……あまり話したこともない女の子に間接キスさせるってどうなの」
 そうは言うけどさ、顔赤いよ、みっちゃん。いたずらが成功した子供みたいに無邪気な表情でしてやったりと笑う彼を、私はじとりと睨み付ける。でも、そんなに嬉しそうに微笑まれると、怒りなんてどこかに吹っ飛んじゃうんだから、彼はずるい。彼との初めての間接キスは清涼飲料水のように爽やかな青春の味がした。

 彼は料理が趣味らしいというのは、付き合い始めてから知ったもの。しかも、その腕前は私のお母さんにも匹敵するほどにおいしくて、付き合い始めの頃は女としての自信を軽く喪失しかけていた。彼の将来の夢はそれを好きな人に食べてもらいたいという、なんとも乙女チックなもので。高校時代の私の昼食はいつも彼の作ってくれたお弁当。男を捕まえるには胃袋からと言うけれど、私はまんまと捕まえられてしまった。彼の溢れんばかりの女子力が眩しい。ほんの少しでも、分けてくれないものかなあ。私は自分で料理をしようとしてダークマターを量産する度に、そんなことを思っていた。

 彼の脛は輪切りにされてトマトと白ワインとブイヨンで煮込まれて。オッソ・ブーコっていう料理らしい。よく煮込まれた彼の脛には骨の髄まで味が染みて、噛みしめるとじゅわぁっと口の中で広がった。付け合わせとして一緒に添えられていたミラノ風のリゾットと合わせて食べると、なおさらたまらない。腿はビーフストロガノフに。サワークリームの酸味と濃厚な味のバターライスが絡み合って、柔らかい彼の腿を活かしていた。彼が言うには、一本の足でも場所によって味や硬さに違いがあるんだって。おいしく食べてもらいたいからね、頑張って勉強したんだよ。彼は照れたように言って笑う。
 胃とか腸とかはまとめてもつ鍋になった。見た目はとってもグロテスクで、私はちょっと苦手だったけど。意を決して食べてみると、コリコリと面白い食感が歯に伝わってきて、気が付いたら止まらなくなり、次から次へと口の中に放り込んでいた。ニンニクと鷹の爪がよく効いていて、なんとも香ばしい。あっという間に食べ終わって、しょぼんと肩を落として余ったスープを見ていると、彼がそこに放り込んだのはたっぷりのちゃんぽん麺。ふふふといたずらが成功したみたいに笑う彼の笑顔は幼い少年みたいに無邪気で可愛らしくて。顔を赤くして食べたちゃんぽんは汁に溶けた彼のもつの旨味をいっぱい呑み込んでいて、鍋が空っぽになるまで食べてしまった。
 でも、一番おいしかったのは、やっぱり彼の腰の肉のステーキ。クリスマスを二人でお祝いしながら食べた。大きなローストチキンじゃなくてごめんね、なんて彼は言っていたけれど、私にとって彼の肉は鶏なんかよりもずっと、ずっと、特別な感じがして。柔らかい肉の繊維をぷちぷちと噛み切ると、口の中に彼がふわっと溢れ出てきた。それはまるで彼のキスが私の口を蹂躙しているようで、なんだか不思議な気分になったのを覚えている。
 料理をするために、彼は腕を最後から二番目まで大事に取っていた。それが昨日の、皿いっぱいに乗ったから揚げの山。でも、脂っこい揚げ物ばっかりじゃあ食べるの大変でしょ。そんな彼の気遣いから、添えられたのはひんやり冷たい棒棒鶏。もちろん、鶏の肉なんかじゃなくて、入っているのは彼の胸肉だ。私を力強く抱き締めてくれていた腕と胸。それがこんなにおいしくなるなんて。私は感動に打ち震えながら、口に運んだ。
 彼が初めて手料理を振る舞ってくれたのは、私と彼が付き合って最初の私の誕生日。僕の心をみっちゃんにあげるよ。そんなプロポーズみたいな言葉を一緒に添えて、彼は自分の心臓の刺身を作ってくれた。僕の心はいつまでも鮮やかなままで、みっちゃんの中に残っていることを感じてほしいから。驚きと嬉しさとが入り混じって、あたふたと赤くなる私に、彼はいつも通りかっこよくそう言った。いや、当時は動揺して気付かなかったけれど、今思い出してみると、彼の耳も真っ赤になっていたなあ。きっと、彼も恥ずかしかったのだろう。そんなところも可愛くて、なお一層好きになっていく。彼の心はチョコレートみたいに甘くて苦い愛の味がした。

 「さあ、召し上がれ」
 平皿の上に乗った彼は、にこりと微笑んでそう言った。いただきます。手を合わせた私に、彼はいただかれますと冗談めいた言葉を返す。二人で顔を見合わせると、なんだかとてもおかしくなって、ふっと吹き出して笑い合った。彼のかたわらには小さな赤いプチトマトと甘く煮たニンジン、そしてほくほくのマッシュポテトが添えてある。彼の指示で私が添えたものではあるけれど、彼の隣にいるそれらにほんの少しだけ嫉妬した。
 「とうとう首だけになっちゃったね」
 「そうだね」
 やっと叶う、僕の夢。好きな人に、食べてもらえる。彼は嬉しそうに首だけの身体で笑った。もう彼の、私を撫でてくれたあの優しい手はない。長くてスマートな足もなくなった。抱き着く私を逞しく受け止めてくれたあの広い胸も、細いように見えて意外と筋肉があるあのお腹も、もうきれいさっぱりなくなっている。
 「あ、ひとつお願いがあるんだ」
 「なに?」
 「僕の目を食べるのは、最後にしてくれないかな」
 最後までみっちゃんを見ていたいんだ。だって、僕はみっちゃんが食べている姿が一番好きだからね。かああっと私の顔に熱が昇ってくる。なんだって、彼はこんなにも甘い言葉をさらっと言えるんだろうなあ。こくりと頷きながらそんなことを思う。
 彼の脳みそをスプーンで掬い取ると、プリンみたいにぷるぷると震えた。バニラクリームのような濃厚な味が私の心を満たしていく。甘い、甘い、とっても甘い。今まで食べたどんなスイーツよりもそれは甘かった。
 「甘いでしょ、僕の脳みそ」
 何せ、いっぱいみっちゃんへの想いが詰まっているからね。私は熱に浮かされたようにこくりと頷いて、一心不乱に食べる。ああ、やっぱり嬉しいなあ。みっちゃん、僕ね、ずっとみっちゃんが食べているものに嫉妬していたんだよ。それはもう、食べられている自分の身体にすらも。だって、みっちゃん、食べている時って、そのものしか見えていないんだもの。恋している時みたいに真っ赤な顔して、抱かれている時みたいに甘い息を吐いてさ。だから、僕は君を好きになったんだ。彼がそう言っているのが遠くに聞こえた。私の視線には、もう彼しか映っていない。この広い世界の中で、私は、食べちゃいたいくらい大好きな彼と二人きり。
 ちゅっとキスをするように彼の唇をついばむ。ゼリーみたいにぷにぷにした、彼の唇。いつも甘い砂糖の言葉をかけられているからか、頭がくらくらするほど甘い。最初は軽く、触れるだけ。でも、少しずつ、少しずつ、激しくして。私はもう、彼を食べているのか、彼に食べられているのかわからなくなった。甘やかなキスを繰り返しながら、私は彼の唇をつるりと呑み込む。彼は私の喉に吸いつきながら、愛しているよと囁いた。
 約束通り最後に残った彼の目と見つめ合う。恍惚に濡れた彼の瞳は、まるで私に泣かないでって言っているようだった。私はいつの間にか濡れていた頬にそっと手を当てる。ぽろぽろと零れていく涙が止まらない。好き。好き。大好き。食べちゃいたいくらいに好き。でも、食べちゃったらあなたはいなくなっちゃう。寂しいよ、悲しいよ。駄々をこねるみたいに泣き叫ぶ私に、彼の瞳はそっと囁く。違うよ、みっちゃん。僕はいなくならない。ひとつになるんだ。今までよりも、ずっと、ずっと、一緒にいられる。だから、ね。僕を食べてよ。ひとつも残さず。私はうんうんと頷いて、彼の瞳をスプーンの上に乗せる。頬を伝って激しく流れる涙をそのままに、私は彼を口の中に入れた。ココナッツみたいな甘さが愛おしくて、けれど、私の涙がしょっぱくて。アイスクリームみたいな冷たさはかっこよくて、けれど、こりこりとした食感がなんとも言えず可愛らしい。それは彼そのものだった。ああ、いつまでも、いつまでも、こうしていたい。けれど、いつかは終りが来るもので。つるりと自分から滑り込むように、彼は私の中へと落ちていった。
 「うっ……ひっく……ぐす……」
 涙で声も出せない私を、私とひとつになった彼の想いがふわりと包んで抱き締める。いつも彼がしてくれるみたいに、私の頭をよしよしと幼い子供にするように優しく撫でて。それはまるでいつでもそばにいるよって言ってくれているようだった。だから、私は頑張って微笑んで、おいしかったと彼に言う。
 「……ごちそうさま」
 私の一番大好きで一番愛おしい彼は、想いのように甘いけれど、涙のようにしょっぱいお別れの味がした。

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