「冗談……だよな?」
 俺は耳を疑った。いつものように花が咲くような笑顔で、実は嘘だよと言ってほしい。しかし、彼女は首をふるふると横に振り、今にも泣き出しそうな表情を変える事は無かった。
 「本当よ。パパの仕事の都合で、私、引っ越すの。ずっと遠くに。学校も転校して」
 俺は信じられなかった。いや、信じたくなかったのだ。彼女が離れていくなんて。まるで走馬燈のように今までの彼女との日々が頭の中を駆け巡る。

 俺と彼女は小さい頃からいつも一緒だった。親同士が幼い頃からの親友同士で、家も隣同士とくれば、俺たちが仲良くなるのにも大した時間はかからない。毎日のように一緒に遊び、仲睦まじい俺たちを見て、大人たちは皆、俺たちのことをまるで兄妹のようだと言った。彼女は特に気にしていないようだったが、俺はどこか気恥ずかしく思い、いつも否定ばかりしていた。しかし、今にして思えば、あの時は既に彼女のことを好きになっていたからかもしれない。
 だから、小学生の時に彼女から距離を置こうと言われた時は頭を強く殴られたようなショックを受けた。小学生も高学年にもなると、男女がいつも一緒にいるとからかわれることが多くなる。俺と彼女の名前を下に抱えた相合傘が黒板に描かれていたこともしょっちゅうだった。俺はその時、既に彼女への好意を自覚していたために、からかわれても特に気にしてはいなかったが、彼女はクラスメイトの女子から言われて恥ずかしく思ったらしい。あからさまに俺から距離を置き始めたのだ。しかし、俺はそれが嫌だった。だから、俺は相合傘を描いたクラスメイトを殴ってやった。ソイツはクラスでもお調子者の男子で、どうやら、彼女の気を惹きたくてやったらしい。俺はそのことに腹が立って、涙を流して謝っているソイツの顔をもう一度殴った。その後、先生にはしこたま怒られたが、彼女がからかわれることがなくなり、頬を赤く染めた彼女がお礼を言ってきたから気にならなかった。それに、その出来事があったおかげで俺と彼女はクラス公認の仲のような扱いになったから結果オーライだろう。

 中学生になった頃には、彼女に告白をする男が出てくるようになった。彼女は美人で、誰に対しても明るく接するような性格だったために男子から人気があったのだ。彼女は奴等からの告白を受ける度に、申し訳なさそうに断っていたが、俺は怖くて仕方がなかった。もしも、彼女が告白を受けてしまったらどうしよう。彼女が俺以外の男に抱き着き、顔をソイツの胸に寄せ、甘えたような声を上げる。そして、あの向日葵のような笑顔をソイツに向けるのだ。俺ではなく、ソイツに。想像しただけでも嫉妬で頭がオカシくなりそうだった。
 俺に告白してくる女が現れ始めたのもこの頃だ。俺は彼女以外には全く興味がなかったから当然のように全て断っていたのだが、ある時から彼女が沈んだ表情を見せるようになってきた。俺が彼女の部屋に無理やり押し入り、問い質したところ、彼女は先輩の女子から嫌がらせを受けているというようなことを涙ながらに語った。その勘違い女は俺に告白してきた女のうちの一人で、自分が好きになってもらえないのは彼女のせいだと逆恨みをしたらしい。そんな勝手な理由で彼女を泣かせるなど、断じて許してなるものか。静かに美しい涙を流す彼女を慰めながら、俺は怒りに燃えた。翌日、呼び出しに嬉々として応えた女に、彼女のことで詰め寄ると、ソイツの表情が徐々に絶望に染まっていった。必死になって言い訳を重ね、彼女を貶める言葉を吐くクソ女を、俺は冷たく睨む。その女の香水をぶっかけた臭い髪を引っ掴むと、ソイツは醜い顔を更に醜く歪ませ、ゴメンナサイゴメンナサイと汚い涙や鼻水を垂れ流した。俺は鋏で女の髪の毛を切り刻み、次やったら殺すと脅した。その後、ソイツは精神を病み、学校を辞めたらしい。彼女は当初、気に病んだ表情をしていたが、時が経つごとに穏やかな笑みを浮かべるようになった。

 高校は当然のように彼女と同じところだった。彼女の志望校を聞き出し、俺がそこに合わせたのだ。また一緒だね、と可愛らしく笑う彼女に、俺はそうだな、と返した。先生からはもっと良いところに行けるのだと再三言われたが、俺にとって彼女のいない高校などに価値はない。
 しかし、高校生にもなると、彼女に言い寄るクズ男共がさらに多くなった。彼女は中学生の頃よりも大人びて、目を惹くほどの美人になっていたからだ。そのくせ、明るい性格は変わらず、自覚もないまま勘違い男共を次々と魅了していくのだから、俺は気が気じゃなかった。高校生の男などヤることしか頭にない、性欲に餓えた猿共ばかりだ。彼女を見て鼻の下を伸ばしている奴等を見ると、殺意が湧いてくる。猿共のスカスカの脳ミソの中で、彼女は好き勝手に犯されているのだろうと思うと、俺は腹立たしくて堪らなくなった。彼女を見るな! 彼女の声を聞くな! 彼女は俺のモノだ! ソレは俺のモノだ!
 俺は彼女を汚らわしい目で見ているソイツ等を殺してやりたくなった。その目を潰してやれば、どれだけ気分が良いだろう。
 それから数日後、彼女に告白をした数人が学校に来なくなった。先生が言うには、行方不明になったとのことだ。クラスメイトたちが騒いでいる中、俺は零れそうになる笑い声を抑えるのに苦労した。彼女を冒涜したのだから、奴等は死んで当然の存在だ。
 しかし、彼女にちらと視線を寄越せば、彼女は今にも泣きそうな顔で俯いていた。俺は激しい苛立ちを覚える。あんなクズ共のために、彼女が悲しむ必要など何もないというのに。何せ、彼女には俺がいるのだ。俺さえいれば、彼女には何もいらないはずだ。それなのに、彼女は優しいから、あんなゴミ共のためにその宝石のような瞳を潤ませている。俺は身を焼き尽くすような激しい嫉妬の業火に抱かれ、その夜、一度埋めた奴等の死体を掘り起こして切り刻み、その肉片を完全に灰になるまで燃やした。既に死んでいながら彼女の心に居座るコイツ等が許せなかった。
 しかし、彼女に言い寄る猿は何もコイツ等だけではない。そういう虫ケラ共は俺が叩き潰して病院に送ってやったが、ゴキブリは次から次へと湧いてくる。彼女に向けられる汚らしい欲望の視線は尽きることがない。奴等の目を全て潰してやりたいとすら思う。
 アア、いっそのこと、彼女を閉じ込めてしまうことが出来ればどれだけいいだろう。家から外に出さなければ、猿共から欲望を向けられたり妄想の中で犯されたりすることはなくなる。紐のついた首輪で縛り、手足を切って俺の下から逃げ出せないようにするのだ。彼女の身の回りの世話は全て俺がすればいい。美味しい食事を作って俺の手で食べさせてあげよう。彼女が好きなのはふわふわのオムレツで、嫌いなのはグリーンピースだ。好きなものを食べた時の蕩けるような笑顔は、俺だけのモノだ。しかし、嫌いなものを無理やり食べさせた時の歪めた表情もまた愛らしい。食後の歯磨きだってしてあげるとも。お風呂にだって入れてあげる。彼女の白く柔らかい肌を隅々まで綺麗に洗ってあげるのだ。彼女は綺麗好きだから、きっと喜んでくれるだろう。彼女のためならば、いくらだって高い服でも買ってあげる。彼女はオシャレ好きだから、俺からのプレゼントを喜んでくれるだろう。彼女にはやはり綺麗な白い服が一番似合う。何色にも染まっていない、純粋な白だ。それを俺の色で染め上げるのが今から楽しみで堪らない。排泄の面倒だって見てあげるさ。彼女は汚いよと言って恥ずかしがるだろうけど、顔を赤く染める彼女に汚いところなんてあるものか。俺には彼女のどんなところでも愛せるのだから。アア、愛おしい、俺の彼女。俺だけの彼女。彼女の宝石のように輝く綺麗な瞳には俺の姿だけが映り、彼女の小鳥の囀るような美しい声は俺の名前だけを呼ぶのだ。俺は彼女から離れないし、彼女は俺から離れられない。そんな夢のような未来が待っていたのだ。そのはずだったのに……

 涙を零して別れを告げる彼女の声を俺はもう聞いていなかった。いや、聞いていたくなかった。子供の頃から、俺と彼女はずっと一緒だったのだ。そして、これからも死ぬまで俺と彼女は一緒にいるのだろう。そう思っていたのが、俺の中で音を立てて崩れ落ちていく。子供のように泣き喚き、駄々をこねることが出来たらどれほど楽だろう。しかし、俺はただ抜け殻のように呆然と彼女の言葉を聞くしかなかった。彼女がいなくなるなど、俺がこの世に生まれた理由を失うようなものだ。
 「あなたに、ずっと言いたかったことがあるの。今更遅いことはわかっているけど、最後だから、言うね……」
 彼女は息を詰めて言う。最後なんて言うな。俺はそう叫びたかった。しかし、俺の喉からは風の抜けるような声しか出てこない。彼女の瞳からは真珠のような涙が零れ落ち、ギュッと握りしめたスカートを濡らしている。唇から紡がれる言葉は幽かに震えているようだ。
 「ずっと、ずっと、あなたのことが、好き、です」
 彼女の口からその言葉を聞いた途端、世界の時間が止まった気がした。俺の中から抜けかけていた息が戻る。彼女は俺と同じだった。俺が彼女のことを想っていたように、彼女も俺のことを想ってくれていたのだ。アア、やはり俺たちは結ばれる運命なのだ。俺の中に湧き上がる止めようのない衝動は喜びである。
 「俺も好きだよ」
 俺の言葉に、彼女は一瞬きょとんとした後、目を見開く。その瞳から零れ落ちる真珠は大きさを増し、彼女の赤く染まった頬を濡らした。耳まで真っ赤に染めている彼女が愛おしくて堪らない。その桃色の唇の口角が上がり、芽吹くような笑みが咲いた。
 「そう、だったんだ。あはは……嬉しい。もっと早く、言えていたら、よかったのにな」
 彼女のその言葉に、膨れ上がっていた俺の喜びは風船の空気が抜けるように萎む。そうだ。彼女は俺の下から去ってしまうのだ。せっかく、彼女が好きだと言ってくれたのに。せっかく、彼女と想いが通じ合ったのに。俺は彼女の腕を引いて、その柔かい身体を胸の中に抱き込んだ。抵抗なく俺の身体に飛び込んだ彼女の身体は熱く、舞い上がった髪の毛から甘い香りが漂った。
 「行くな。行かないでくれ」
 そう言う俺に、彼女は顔を歪め、泣き出した。その泣き顔は他の女など相手にもならないほどに可愛らしく尊い。嫌々をするように首を横に振る姿は純真無垢な少女を思わせた。暫くの間、俺と彼女は抱き合ったまま、動かなかった。喉からしゃくり声を上げ、涙を落とす彼女。その身体を離さないとでもいうように抱き締める俺。しかし、永遠に続けばいいと思えたその時間は時計の針が進むとともに無情にも終わりを告げた。
 「もう、行くね。ありがとう。最後に、好きって言えてよかった」
 ふわりと俺の腕の中から彼女が逃げる。その表情は吹っ切れたような明るい笑みが浮かんでいた。アア、いつもの彼女の笑みだ。やはり、彼女には笑顔が似合う。しかし、それももうすぐ見られなくなる。彼女が俺の手の届かないところに行ってしまう。どうすればいい。どうすれば、彼女を俺の腕の中に留めていられる。

 ヒトツになろう。

 そうだ、簡単だ。簡単なことだったのだ。俺と彼女がヒトツになれば、彼女はずっと俺と一緒にいる。永遠に俺たちは一緒にいることが出来るのだ。誰にも邪魔されることはない。俺と彼女を誰も引き裂くことは出来ない。彼女をいじめる馬鹿な女も、オンナを犯すことしか能がない猿共も、彼女を遠くにやろうとする彼女の父親も、俺と彼女の仲を邪魔することは出来ないのだ。アア、もっと早くこうしておけばよかった。だって、俺と彼女はずっと一緒だったのだから。彼女は俺のモノで、俺は彼女のモノだ。ずっとずっとずっとずっとずっと、離さない。俺は立てかけてあったバットを手に取り、部屋を出ようとしている彼女の頭に目掛けて、思いきり振り下ろした。

 俺の部屋は彼女で真っ赤に染まっていた。鉄臭いニオイが咀嚼を繰り返す俺を包み込んでいる。胃の中から込み上げてくる本能的な吐き気を、俺は必死に抑え込み、手に掴んだ彼女をかっ喰らった。吐き出すなど言語道断だ。俺は彼女とヒトツになるのだから。
 彼女の真珠のような眼球を、彼女の陶器のような白い腕を、彼女の蕾のように小さな柔かい唇を、彼女の細く長い足を、彼女の慎ましい大きさの胸を、彼女の滑らかな背中を、彼女のマシュマロのような頬を、彼女の艶やかな黒髪を、彼女の白魚のような指を、彼女の子を産むための子宮を、彼女の硬く健康な骨を、彼女の身体から溢れ出る血潮を、彼女の中に詰まった臓物を、彼女の美しい脳ミソを、彼女の今はもう動かない心臓を。
 俺は彼女の全てを俺の中に取り込んでいく。俺は彼女とヒトツになっていく。これで、俺と彼女はいつも一緒だ。誰にも引き裂けない、誰にも邪魔されない。俺と彼女は今、ヒトツになったのだから。俺の世界には彼女しかいないし、彼女の世界には俺しかいない。
 「ッぐ、ふッ……ハァ、はぁ、はは、アハハハ、あはははははははははははははは!」
 最後の肉片を咀嚼し、呑み込み、完全に彼女とヒトツになった俺は高らかに哄笑した。俺の中に彼女がいる。彼女の中に俺がいる。彼女は俺のモノで、俺は彼女のモノだ。俺は彼女で、彼女は俺なのだ。
 「はははははははははは! アア、愛している! アイしているよ! ずっと、ずっと、ずっと!」
 俺は恍惚に顔を歪め、狂ったように笑い続けた。俺の中で彼女は向日葵のような笑顔を浮かべたまま、心の奥底へと沈んでいく。最後に浮かんだ彼女の顔は切なげな微笑を湛えていた。

 俺たちはこれからもずっと一緒だ。そうだろう?
 俺は問うた。答えは返ってこなかった。

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