初恋の墓標

#創作百合 #SF

 先日のスキャンダルの所為で安くなっていたから、つい彼女を買ってしまった。といっても本人ではない。アイドルを模したアンドロイド、所謂『IDOLoid』だ。
 人間そっくりの培養素体に疑似人格を積んでやれば、すぐにアンドロイドが一体出来上がる。特に人間の精神活動を記録・再現する精神追跡技術が確立してから、現実に存在する人間を模したアンドロイドが発売されるまではすぐだった。社会的な議論もいくらか起こったが、実装する人格を特定の分野に限定することと、公的な免許制度を採ることで落としどころとした。
 アイドロイドは家庭用のアンドロイドの中でもかなり初めから存在していた。二〇世紀ただ眺めるだけだったアイドルは、やがて会いに行けるようになり、そして現代ではついにアイドルの方が家へと来るようになった。
 いつの時代もアイドルは病的に処女性を求められ、交際や性経験が発覚したアイドルは価値が暴落する。それは現代では『IDOLoid』の価格として如実に反映されるようになった。
 安くなった彼女は就職して数年の私でも手が届いた。勿論丙種擬人取扱免許の取得や維持コストもかかるが、私に衝動買いを決意させるには十分だった。

 その日、箱の中で折りたたまれた状態で、彼女は家に届いた。まるで屈葬された遺体のよう。そんな私の感想とは裏腹に、彼女はゆらりと起き上がってこちらを見た。
 「はじめまして。私は〝白河ユイ〟、愛玩用ヒューマノイド『IDOLoid』です。貴方は私の購入者で間違いありませんか。よろしければ、このままユーザー登録に移行します」
 彼女の顔、彼女の声で彼女は喋る。当然だ。そう設計されているのだから。そして設計された通りのシステムメッセージを読み上げる。
 「ユーザー名、『佐伯サクラ』を登録します。呼び方に何か希望はありますか?」
 「サクちゃん、と」
 その呼び名を彼女に伝えるのはひどく滑稽だった。だって、最初に私をそう呼んでくれたのは貴方の方だったじゃない。ねえ、結衣。私の幼馴染。私の初恋の人。いつの間にかどこか遠くへ行って、そしてそのまま帰ってこなかったひと。私の知らない、アイドルの貴方は当然のように私を知らなかった。

 白河結衣と最初に会ったのは小学生のときだ。当時彼女は時期外れの転校生で、クラスにうまく馴染めていなかった。席替えでたまたま隣になったのがきっかけで話すようになり、気が付けば彼女の面倒を見る役に収まっていた。高学年ぐらいから彼女はかわいくなりはじめて、中学に入るころには学年で一番かわいい女子といえば、誰もが結衣を思い浮かべた。それでも彼女は私と一緒に行動して、互いに親友だと思っていた。
 「サクちゃんには、本当に感謝してるの」
 思い出されるのは、夕暮れだ。買い食いするお小遣いさえ足りなくなった月末は、空き教室で時間を潰すのが常だった。視界の端で流しているだけで多少のコイン(お小遣い)になるAR広告も、彼女との時間には無粋に思えて、ひとつ残らずウィンドウを消したものだった。そんな中、ふと会話が途切れて、校庭の運動部をぼんやりと眺めながら彼女は言った。
「…どうしたの急に」
教室には二人しか居ないのに、まるで私に言ってないみたいで、反応が遅れた。
「小学生の頃、私に話しかけてくれたのはサクちゃんだけだったから。サクちゃんが話しかけてくれなかったら、きっと私は今も独りのままだったよ」
「そんなことないんじゃない。結衣はかわいいから、男子も女子もほっとかないよ」
「私はほっとくよ。今だってサクちゃん以外に話しかけられるのちょっと面倒だし、急に告白してくる奴とか迷惑でしかない」
 実際彼女は度々告白され、その都度断っていた。当然クラスでは浮いていて、私とのつながりが辛うじて彼女をコミュニティに留めていた。今思えばとんだお節介だが、中学生の世界は狭く、学校だけで完結しているものだ。私にはクラスで疎外されればそれまでという強迫観念があった。
 「サクちゃんとだけは、ずっと友達でいたいな…」
 そう言った彼女は美しかった。視界に私の動揺を示す半透明の警告ウィンドウが表れる。   
『貴方の感情値は対人上適切なレベルを逸脱する恐れがあります。この警告を今後も表示しますか?』
そう書かれたウィンドウ越しに、彼女の首筋から鎖骨にかけて、薄い筋肉とセーラー服の作る陰翳をよく覚えている。それはまるで一枚の絵画のようで、つまり彼女がどこまでも独りであることの証だった。彼女の世界は彼女一人で完成していた。校庭の喧騒から隔離された静謐の中、私にだけ聞こえる警告音が虚しく脳内で反響していた。
 この話をした数か月後に彼女は東京に引っ越した。最初は頻繁に交わしていた連絡も次第にまばらになり、気が付けば私は地元の高校で友達作りの為に作った友達とつるんで、彼女は東京で同じくらいかわいい女の子たちとアイドルとしてデビューしていた。視界の右下に唐突に飛び込んできたAR広告、ウィンドウ越しの輝く彼女を見て、私は強烈な敗北感に打ちのめされた。結局私は既存のコミュニティとの窓口になっただけで、本当の意味で彼女に寄り添うことは出来なかったのだ。悩みを共有して、支え合って、同じ目標を見据えて。そういう「普通の友人」は、私では役不足だと、その時はじめて自覚した。
私が出来なかったことの全てが、そこでは実現されていた。

 突然始まった『彼女』との生活は殊の外順調であった。もとより、彼女とは学校で唯一の友人となれる程度には馬が合う。それに加えて彼女には過去が無い。もっと言えば未来も無い。愛玩用としての受け答えに関わらない情報をマスキングされた『IDOLoid』は過去の懊悩とも未来への葛藤とも完全に無縁な存在だ。
 「さっちゃん、今日のごはんは何?」
 「何って、貴方は食べないでしょう」
 「私は食べないけど、ほっとくとサクちゃん酷い食生活になるじゃない。この間、袋野菜にドレッシングかけただけのを夕飯って言い張ってたの忘れてないから」
 「健康管理プログラムは入れてないはずだけど」
 「ええ、そうね。だからこれは普通の心配」
 「結衣に心配されるってなんだか変な感じだわ」
 私がそう言うと、少し間をおいて彼女は答えた。
 「なにそれ。心配くらいするわよ」
 そうは言うものの、実際彼女に心配されるというのは初めての経験だった。昔は、いつも私が彼女を心配していたから。 それとも、言わなかっただけで、当時から彼女は私を心配していたのだろうか。だとしたら、私はひどく滑稽だ。心配するという行為によって精神的に優位に立ちたかっただけの幼稚な女を、彼女はどう思っていたのだろうか。ただ真相はどうあれ、ここには置いていかれた惨めな女が一人、彼女の影に縋っているという現実に変わりはなかった。
 結局その惨めな女はそれ以上話を続けられず、味噌汁を入れるために湯を沸かし始めた。
「ねえ、知ってる…。昔は家族の味噌汁を全部一つの鍋で作って、全員同じものを食べていたんですって」
「そうなの。大人と子どもじゃ必要な栄養も違うでしょうに」
「食事も医療もパーソナライズされてなかった時代だったから。家族で一つの食卓を同時に囲むの。勿論〝相席〟も無し」
「ARの遠隔存在サービス?あれ今でも苦手な人結構いるみたいだけど」
技術の進歩と社会の変化で、家族という言葉の持つ意味は昔と随分変わっている。いや、家族だけじゃない。私たちをとりまくあらゆる言葉が、人知れずひっそりと在り方を変えている。そしてそれは私たちの思考の在り方が変わっていることと同義だった。私たちの使う言葉はまるで素粒子のようで、発言された時には既に別の意味になっている。そんな言葉によって規定される「私」もまた、同様に捕捉しようが無い。いや、人間が「私」という機能を獲得して以来常にそうだったのかも知れないが、社会の変遷のスピードの面から見るに、現代ほどそれを真に迫って実感している時代も無いだろう。
ピーと電子音が鳴って、ご飯が炊けたことを知らせた。蓋を開けると黄色いご飯が顔をのぞかせる。ターメリックの黄色ではない。イネが自分で作ったβ-カロテンの色だ。途上国の栄養状態を改善するという名目で開発されたそれは、結局は目を酷使しがちな先進国の人間にも一定のニーズが生まれた。導入にはひと悶着あったが、善意と金権主義が手を組んだら無敵となることの一例にしかならなかった。
もはや私の心も身体も、十年前とはまったく別の素材で出来ている。そうやって更新し続けるのが生きるということなら、こんな寂しいこともないと思ったが、そんな感傷さえ日々の中では風化していく。心も身体も変わらない『IDOLoid』だけが、モノリスのように私を見つめていた。かつて存在した彼女の影、彼女の遺跡。私の初恋の墓標。『彼女』はまさに感傷そのものだった。

私の通信ログに見慣れない名前を見つけた。
「株式会社ドールズライフエンターテイメント モニタリングセンター 臼井涼香」
『IDOLoid』の運営会社、そのモニタリングセンターといえば、あまり良い想像は湧かなかった。『IDOLoid』は人と同じ姿をしている。それに対して著しく同義的配慮を欠いた接し方をするのは利用者の社会的健康を損ねる、とされている。そうならないよう監視しているのがモニタリングセンターという話だ。ここから連絡が来るということは、私か彼女か、あるいは両方に何かしらの問題が生じていることに他ならない。気は進まないものの、逃げる術も無い。私は駅近くの公衆会議室に入ると、意を決して通信を入れた。
程なくして、向かいの椅子に人影が浮かび上がる。勿論物質的な人間ではない。ARで投影された私だけに見えるホログラムだ。遠隔存在サービスで離れた所の人間と直接顔を合わせて話すようになってから、街中のいたるところに、それこそ公衆トイレのような気軽さで小さな会議室が置かれるようになった。椅子が二脚と机だけの簡素な部屋。片方に自分が座って、もう片方は相手が投影される。
「ご対応ありがとうございます。私はモニタリングセンターの臼井涼香と申します。厳密には臼井涼香の精神追跡体、意思決定用に調整されたモデルとなります」
「調整されたってことは本人じゃないのね」
「不必要な機能をマスキングしただけですので、限りなく本人です。少なくとも『IDOLoid』が本人であることと同程度には。当社ではお客様のプライバシー保護の観点から、意思決定には独自のプログラムをクリアした人格の精神追跡体をモニタリングに使用しています。この追跡体が経験した情報はお客様の契約終了とともに破棄され、追跡元の人格に同期されることはありません」
目の前の女は事もなげに言った。まるで自分が使い捨ての注射針のような言い草だ。そう言いきってしまえる精神とはマスキング処理による産物か、それともこの人格が元から有する資質だったのか、私には判別がつかなかった。
「それで、私と『彼女』に何か問題が?」
「問題、と言っていいのかも分かりません。『ユイ』の精神グラフに今まで見られなかった波形が観測されています」
「波形?」
「現在の精神追跡技術ではリアルタイムの精神の動きを波形として視覚化しています。貴方との会話で特定の話題が出た際、悲しみに類する弱い波形が観測されています。一般的には哀愁と呼ばれる感情群に近い形状です。」
「随分とはっきりしない表現ですね。」
「人間の感情全てに名前がついている訳でも、違う人間の同じ波形が同じ感情を表している保証もありませんから。虹の色と同じです。便宜上六色や七色に分類しただけで、実際には連続したグラデーションでしょう。色と色の間、その間の間と無限に分類していったとき、それらすべてに名前をつけることは原理上不可能です。また私の言う「赤」が貴方の想像する「赤」である保証も無い。」
やたらとこなれた説明だった。まるでそこだけは何度もそらんじたことがあるみたいに。おそらく教科書に似たような説明があって、耳にタコができるほど聞かされたのだろう。
ただ、この説明の通りだとすると、『彼女』は私との会話において寂しがっているらしい。勿論そんな表情は見せなかったが、それもどこまで信頼出来るかわかったものではない。これは彼女がどうというよりは、私の問題だ。あんなに一緒にいたのに、私は驚くほど彼女のことを知らない。
「失礼を承知でお聞きしますが、貴方は白河結衣と面識がおありですか」
突然、内省の真っ最中だった所を突かれて、私は狼狽した。
「ええ、小学生から中学生の頃に」
「実は、『彼女』が特定の感情を示すのがそのときなのです。つまり、かつての白河結衣のことを話題に出したとき。会話ログから推察するに、貴方はかつての白河結衣のことを懐かしんでいるように見受けられます。そうした対応を観測した際、『彼女』に哀愁に類する感情が発現しているのです」
「それは…何か問題なのでしょうか…」
「初めに申し上げた通り、問題と呼んでいいものなのかも分かりません。ただ、分かっている限り同バージョンの『白河ユイ』が顧客とのコミュニケーションの中で哀愁を示したことはありません。デビュー前のことを聞かれたり、もしくはこれ以前のバージョンの方が好みだと言われてもです。おそらく、白河結衣のメンタルの根幹に根差す部分に貴方の存在が関与しています。」
はっきり言って朗報だった。私が彼女の中に何か爪痕を残せている。置いてかれはしたが、忘れ去られたわけではないのだということが。私は不謹慎な笑みを浮かべそうになるのを堪えた。精神追跡体相手だから、不適切感情に対する警告ウィンドウも表示されない。
「今、貴方には二つの選択肢が用意されています。一つは今までのまま『彼女』との生活を続ける道。もう一つは『彼女』の精神マスキングを剥がして、より追跡性の高い『彼女』と感情の由来を探る道」
「可能なのですか…。被追跡者のプライバシーは…」
「今回『彼女』は他に類を見ない感情を示しています。そのため利用規約第8条3項〈学術的調査への協力〉に基づいて、精神マスキングの剥離及び剥離状態での面談を申請することが出来ます」
迷うまでも無かった。ここで躊躇できる程度の執着だったら、初めから彼女の似姿に縋るだろうか。私は端末に人差し指を押し付ける。静脈を読みとった端末が、ピ、と短く鳴る。いつにも増して、ひどく軽い音だった。

「面談」が行われるのは本社ビルの談話室だった。窓から入る光が暖色の壁紙を照らし、隅には観葉植物。まっすぐ向き合わないよう配置されたソファ、低いテーブルの上には大きくも小さくもない花が一輪活けてある。談話室というよりは、むしろカウンセリングルームといった風情だ。
先に入って待っていると、ハーブティーが出される。話しやすさへのナッジも、ここまでされればもはや肘鉄だ。だが、こちらの会話の内容が利潤に直結する以上、企業としては当然の投資だとも言える。形振り構わなさという点では、いっそ潔ささえ感じるほどだ。
ハーブティーから湯気が立ち上らなくなってきた頃、調整を終えた『彼女』が部屋に入ってきた。マスキングを剥離された、より純度の高い彼女は、開口一番こう言った。
「頭の靄が晴れた気分だわ。貴方を、やっと貴方だと認識できる」
今の彼女には過去がある。それはつまり、私との記憶があるということだ。
「まずは、なんで『私』を買おうとおもったか聞いて良い?」
「スキャンダルがあって、中古が安く出回ってたから」
嘘は言っていない。最初のモデルの『彼女』が出てから、ずっとチェックはしていた。その度に値段が高いから、私では手が届かないからと買わずにいた。値段が下がって、買わない理由を失ってしまったのだ。
「私からも聞いて良い?」
「うん。なあに…」
「スキャンダルがあったのは知ってるんだけど、相手は誰だったの…」
実の所、彼女の相手は分かっていない。流出した映像では相手の男の素性が分からないように自動生成された誰でもない映像がかぶせられ、そして加工前を復元できないように一度アナログのモニターに映し出したものを撮影するという手の凝りようだった。結果彼女が交際していたという事実だけが拡散され、流出させた張本人は今ものうのうと生活しているのだった。
「この『私』が十九歳のモデルで、今は七年後ってことは、意外と粘ったのね、私」
「粘った…」
「結論から言えば、相手はマネージャーの男よ。そういう関係になったのはデビューしてすぐ。まだ新しい土地に慣れてなくて不安でいっぱいだった頃」
「そんなに前からだったの」
「むしろそんなに前だからこそ、ね。アイドルとしての活動が軌道に乗って、気持ちが落ち着いたらすぐに気が付いたわ。あの男は私のことが好きだったんじゃなくて、普段ファンの前でクールな顔をしている私を従える自分に酔っていただけ」
耳の痛い話だった。彼女と友人だった頃、それに類する興奮を私が覚えていなかったか、と問われれば否定する自信は無かった。
「だから今になってバラされたということは、もっと都合の良い玩具が手に入ったのね。私はキスもセックスもさせなかったから。あの卑怯で臆病なナルシストが私を手放すっていうのはそういうことでしょ」
「してないの?何も…」
「してないわよ。だって、全部貴方にあげるつもりだったもの」
彼女が何気なく放った一言はあまりに衝撃的で、私は何も言えなかった。くれるつもりだった?私に?なぜ?もっと早くに言ってくれれば…頭の中で無数の言葉が渦巻いて、しかし一つとして形を成したものは無かった。
「そうね。この際だから本題に入ってしまいましょう。『私』に観測された感情の由来、それは貴方への恋心よ。マスキングさえ無ければ、考えなくたって分かることだわ」
話し合うまでも無く、結論は出ていた。しかしすべてが急過ぎて、私は完全に置いてけぼりだった。
「今にして思えば、あの男を最初に受け入れたのは、貴方に似ていたからだわ。私の価値が上がるほど、自分の価値も一緒に上がると思い込んでる憐れなところなんて本当にそっくり。同じ理由でファンの皆も好き。成功体験の自己投影ってそういうことだものね。でもそこはいいの。自分の値打ちを私に求める以上、私を疎かにはしようがないもの。でも、一つだけ我慢出来ない決定的な違いがあったの。わかる?」
私は力無く首を横に振った。私の浅ましさを、彼女はとうにお見通しだったらしい。口の中がからからに乾いている。
「あの男は誰でもよかった。かわいくて人気があれば、どんな女の子でもアクセサリーにできた。貴方は違う。貴方には私だけよ。他の評価軸が入る余地なんてどこにもない」
「会わないうちに変わるとは思わなかったの…」
「これっぽちも。どんなに離れても、貴方は私を見ているって確信が常にあったわ。実際に貴方は私を忘れられずに、十年以上経ったのに『私』を買っている。私の正しさは他でもない貴方が証明してくれたわ」
「じゃあなんで「寂しさ」なんて感じていたの。私がずっと貴方を見ていると分かったなら、喜びとか安堵とか、そういう明るい感情にならない?」
「見てないじゃない」
「え?」
「貴方は一度も『私』を見てくれなかったじゃない。過去の、白河結衣の思い出ばかり懐かしんで、『白河ユイ』のことは一度たりとも呼んでないでしょう。貴方が買ったのは誰?『私』よ‼別れたっきり会ってない人間の白河結衣じゃない。『IDOLoid』のユイなの‼目の前に私のことを好きな人間がいて、それでも失恋し続けるなんてどんな苦行よ」
ここまで激情を露わにする彼女を見るのは初めてだった。いや、その振り返り方こそ『彼女』の激情の源泉なのか。『彼女』確かには寸分違わず彼女であり、そしてそれと同程度には別の個体なのだと、私は今、初めて気が付いた。
「あのナルシスト男が別の女に乗り換えようとどうでもいい。ファンが推し変したって仕方ないって諦める。でも、でも貴方だけは、サクちゃんだけは『私』を見ててよ。独りだった小学校で私を見つけてくれたサクちゃんだけは、ずっと私だけを見ててよ。私にも、貴方しかいないのよ…」
気付けばユイは身を乗り出して、私の手首を強く握っていた。そしてすぐに力が抜けて私にもたれかかる。ボディに組み込まれたセーフティの所為だ。『IDOLoid』は人を傷つけられないように設計されている。それが今は、酷く残酷なことのように思えた。
「ねえ、今だけ、私たち付き合わない?夕方には私のマスキングは元通りになる。貴方も『私』と恋愛関係になれば、擬人取扱免許は停止される。」
「だから今だけ?」
「そう。今なら〈学術的調査〉中に偶発的に起きたものとして処理される。免許停止の条件には引っかからない」
この上なく魅力的な提案だった。私はずっと彼女が好きで、恋人になりたくて、『彼女』はその夢を叶えてくれると言う。この先何を失うとしても、飛びつかずにはいられないほどの甘い誘いだ。
「うん。私も貴方が好き。白河ユイさん、私と恋人になってください」
だから、答えは決まっていた。何度も夢想したその台詞は、驚くほど滑らかに口から出てきた。
「ええ。貴方の初恋、『私』が貰うわ。白河結衣でも、他の『白河ユイ』でもない私が。貴方の、サクちゃんの初めては『私』のものよ」
まるで自分に言い聞かせるような口調だった。自分以外にも自分が量産されてる以上、それは特別なことではないのかもしれない。
「今後貴方が誰と恋人になろうが、初めては私よ。たとえ白河結衣が相手でもね。」
「そうね。でも貴方の初恋だって私のものよ。他のどの『ユイ』でもない、もちろん結衣でもない貴方の初恋が、私のもの。お互い一個ずつしかないから、交換ね。」
私たちは掌をくっつけて、目を合わせながら笑いあった。互いに寝かせすぎて、もう腐ってしまったような恋心だけど、それでも交換したいと思えるならきっと愛だ。互いの醜いところを晒して、それでも赦しあえるなら。私たちは初恋を成就させあうことで、愛を交わしている。それはきっとキスやセックスより深い繋がりだろう。相手が人間でないなら、尚更。
もうすぐ、面談の時間が終わる。私の初恋は、やっと彼女と共に墓標になるのだ。

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