告解グルーミング

#百合 #創作百合 #年の差

 ごめんなさい。私は本当は、そんなに良い子でも無ければ真面目でも無いの。授業は何度もサボったことがあるし、お母さんの手伝いよりも貴方におすそ分けしたくて作った料理の方が多いの。張りぼての内側、空っぽの頭蓋骨に後悔と罪悪感ばかり溜めこんで、ライフワークは辻褄合わせ。なんて滑稽なんでしょう。いや、自分のことだけれども。きっと貴方に愛してもらう価値も、貴方に恋する資格も、私には無いの。

 「こんにちは、隣に越してきた海堂です」
 そう言って笑うのは、私がまさに想像するような大人の女性だった。綺麗に染まった髪、上手な化粧、耳には大きめのピアスが下がっている。シンプルな服装はプロポーションの良さを強調していて、私は身勝手な敗北感に打ちひしがれた。そう、敗北感である。私はこの一瞬で、目の前の初対面の人を勝手に推し量って、その虚像と自分を比べて何か勝っている部分は無いか無意識に探していたのだ。結果的に何も無かったが、もし勝っていると思ったらどうしたのか、この先侮りながら付き合っていくのか、そもそもただの第一印象で彼女の何を分かった気になっているのか、
自分のあまりの卑しさと浅慮に羞恥と嫌悪が募った。
 「桜井美月です。よろしくお願いします。」
 私は内心を押し隠しながら、努めていつも通りに聞こえるように挨拶した。すなわち、「礼儀正しく」、「真面目」で「丁寧」に。結果出来上がるのは無味無臭の「良い子」だが、私は他のやり方を知らないのであった。
 「美月ちゃんね、よろしく」
 彼女は自然に微笑んで、そう返事をした。私の目線の高さにはちょうど彼女の唇があって、その艶やかさと、その脇で揺れる黒子がやけに色っぽかったのを憶えている。
 それから、彼女との仲は不思議なほどとんとん拍子に進展した。家の鍵を忘れた日は、母が帰るまで部屋にあげてくれた。その日は結局そのまま夕飯までご馳走になってしまった。冷凍庫から出したハンバーグを温める傍らでソースだけは自分で作りながら、「一人暮らしのご飯なんてこんなものだよ」と少し恥ずかしそうに笑っていた。
 後日、お礼に私がご飯を作りに行った。私は失敗したくなくて、事前に練習しておいた生姜焼きを作った。貴方の「おいしいよ」って言葉に感じたのは歓喜よりもむしろ安堵だった。
 そうやって私たちは惜しみなく善意を交換し合って、出会って数ヶ月後には彼女の家に頻繁に出入りするようになっていた。「海堂さん」と呼んでいたのは、ある時期から下の名前で「理恵さん」と呼ぶようになっていた。ある時期というのは、関係性がお隣さんから恋人に変わった時期だ。クラスメイトから借りた漫画みたいに、突然のキスや告白みたいな劇的なイベントがあったわけじゃない。ただ触れ合う肌の面積が少しずつ、連続的に拡大していった。時期と表現したのはそういうことだった。最初は並んでテレビを見ながら小指同士が触れた。それが次第に指を絡ませ、掌を合わせ、肩を寄せ合い、頬を擦り合わせ、唇を溶かし合うようになった。私が彼女の指に啼かされるようになるのも、初めてキスをしてからすぐのことだった。彼女が私を呼ぶ「美月ちゃん」も文字にすれば違いは無いが、関係が深くなるにつれて自然と糖度が上がっていき、今や行為の際は耳に水飴を流し込まれたと錯覚するほどだ。
 一方精神的な繋がりはというと、よくわからないというのが正直なところだった。確かに話す量は増えた。彼女について知っていることも増えたし、私も学校で起こったことを伝えた。だが全てではない。私は話したいと思ったことだけを話している。例えばは良い点をとれた得意科目や、タイミングよく実行できた親切など。苦手科目はあんまり勉強する気が起きなくて追試ギリギリの点数だったこととか、グループの潤滑油代わりにやりとりされる陰口は話していない。率直に言って偏向報道だ。でも、それも当然のことだ。楽しい時間をわざわざ台無しにする話題を選ぶ必要は無いのだから。そうして当たり前の善意と努力によって、彼女と私の間には上澄みだけすくった私の虚像が積み上がる。
いつもする想像だ。会話は細い糸のようで、互いに両端を握っている。彼女の反応は張力として、もう片方を握る私の手に伝えられる。それがいつからか、エピソードを一つ話す度に首を一回、ゆるりと回るようになった。手応えは全て首に掛かる。首元で絡んだ糸は互いに擦れあって、私が手を放しても緩まなくなった。彼女の善意が、称賛が、私の首をきしり、きしりと締めつけているようだった。

だからだろうか。行為の後、そんな言葉が口をついて出たのは。彼女はそのときいつものように、肩で息をする私の頭を撫でていた。「今日も上手にイけて偉いね。美月ちゃんは良い子だね」って。
「それ、本当ですか?」
「本当って?」
「良い子ってやつです。いつも言ってくれますけど、私ってそんなに良い子ですか?」
「そう聞くってことは、自分ではそう思ってないってこと?」
逆に聞き返されて私は当惑してしまった。遅れて自分が、聞くつもりもないことを聞いていたことに気が付いてもっと当惑を深めた。
「そういう訳じゃないです。ただ、いや、えっと、分からないです」
何を聞きたいのか、何を言いたいのか、頭の中で撹拌されてしまって何一つ形にならない。
「美月ちゃん自身がどう感じているかは分からないけれど、少なくとも私から見た美月ちゃんは良い子よ。」
それはそうだろう。努めてそういう部分だけ見せるようにしてきたのだから。
「その結論じゃ不服って顔ね。でも、それで十分じゃないかしら。私と美月ちゃんは恋人で、クラスメイトでもなければ親子でもない。なら、わざわざその別の顔まで暴いて粗探しする必要なんてないでしょう」
彼女の言葉を否定することは出来なかった。だってそれは尊重とか節度とか、そういう人間関係全般における原則の話だからだ。彼女にはソファで私をキスするのと同様に、私の学校生活を知らない権利がある。
「でも、そうじゃないんです。きっとどの顔の奥底にも醜いものが流れていて、いつかそれを見透かされて嫌われてしまうんじゃないかって…」
か細く頼りない、今にもかすれて消えそうな声が出た。喉がひとりでに締まって、いっそ一思いに吊ってしまった方が楽じゃないかと馬鹿な考えが頭をよぎる。
「見てほしいの?そういう部分も」
「え?」
「話したってことはそうなんでしょう。」
「そう、なんでしょうか。もう何も分からないです。自分が何を考えているのか、これからどうしたいのか、理恵さんとどうなりたいのか。私の身体も心も勝手に動いたり考えたりして、私の意識だけ除け者にされてるみたいなんです」
ずっと煮詰めていた鍋の底に穴が開いて、そこから中身が漏れているようだった。どろどろとした感情が制御を失って流れ出している。それでも何故か涙は流れない。出口を見つけられずに全身を駆け巡る激情は、鼻の頭や指先で渋滞して熱になる。痛みになる。
「ねえ、美月ちゃんが何も言えなさそうだから、私の話をしよっか。」
見かねた理恵さんがそう言った。
「美月ちゃんは私の初恋の人にすっごく似てるの」
そう言った彼女は今にも泣きそうだった。
「彼女は私の小学校の頃からの親友で、真面目で優しい子だったの。あんまり短くしてないスカートも、おさげにした髪もそっくり。中学生の頃は、授業中に彼女の髪にできる天使の輪を見るのが私の密かな楽しみだったの」
それは私をかわいがるときの表情とよく似ていた。ただそこには、ケロイドを恐る恐る触るような躊躇いと痛々しさがあった。
「私はその子に失恋し続けてたの。ずっと一番近くにいて、振ってもらえることも無いからね。彼女が私にした恋愛相談は全部憶えてる。中3の頃のバスケ部の同級生、高校に入ってからは一つ上のサッカー部の先輩。大学に入ってからもスポーツをやってる人が多かった。」
きっと何度も反芻したのだろう。考えるまでも無く、すらすらと出てくるようだった。
「彼女、少し前に結婚したの。その相手についての相談も当然のったわ。喧嘩して落ち込んでいるのを見てられなくて慰めて、仲直りした綺麗な笑顔に胸を引き裂かれる。そういうのをひたすら繰り返して。結婚式が終わった後彼女が言ったの。「結婚できたのも、これまでちゃんと恋愛できたのも、全部理恵のおかげだよ。本当にありがとう。今度は理恵のことも相談してね」って。そのとき私は自分が独りだってことにやっと気付いたの。恋も友情も青春も、何もかも彼女に捧げた。私に残ったものは何も無い。それを後悔したことは無いけれど、それでもやっぱり孤独はつらいの。私にはもう孤独に耐える体力は残ってなかった」
彼女は堰を切ったように語った。いつも落ち着いた大人な声を出す喉もこのときばかりは上擦って、まるで私と同年代か少し下まで帰ってしまったようだった。まだ初恋が瑞々しかった頃へ。
彼女は一度唾をのんで続けた。
「だから引っ越ししたの。彼女には、在宅業だから静かな所に移りたいって言って、本当は距離をおきたかっただけ。」
彼女の瞳が唐突に郷愁から帰ってきて、私を射抜いた。
「貴方と出会ったのはそんなときよ。」
私は射竦められて、なんの相槌も打てなかった。
「最初は何の呪いかと思ったわ。あの子から逃げ出した先で、あの子そっくりの女の子。私は貴方を意識から追い出すのに必死だった」
「じゃあ、なんであの日部屋に上げてくれたんですか?」
「正直、そのとき私が何を考えてたかなんて分からないわ。ただ私の身体は、途方に暮れる美月ちゃんを見つけてしまったら無視できなかったの。でも、本当に誤算だったのはその後よ」
「後?どういうことですか」
「あの後うちに来てごはんを作ってくれたじゃない。私初めてだったの」
「それは、ご飯を作ってもらうのがということですか?」
「それもそうなんだけど、自分に善意が帰ってくるのがよ。おかしいでしょ。二十六にもなって、初めて自分の善意に具体的な報酬がついたの。勿論あの子は感謝やプレゼントをしてくれたけど、それによって更に親密になるってことは無かったから。情けは人の為ならずって言葉、美月ちゃんに会うまでずっと夢物語みたいに思ってたの」
それは一体どういう心持ちなのだろうか。善意には無意識に同程度の善意を返されると期待してしまうのが普通の社会で、その献身は恋する乙女には高潔過ぎるように思えた。
「そこからは知っての通りよ。私は貴方に溺れた。何か一つやってあげる度に、あの子似た女の子が私に懐いてくれるの。あの子の面影を重ねてしまうことに罪悪感はあったけれど、貴方がくれるものの甘美さには抗えなかった。私がずっとしたかった恋愛はこれなんだって、今まで空っぽだった青春に中身を詰めるみたいに夢中になった。」
彼女の指が私の頬を拭う。そのとき私は初めて自分が泣いていたことに気が付いた。
「そうよね。自分が昔好きだった人と似てるって言われて、良い気分の人なんていないわよね。ごめんなさい」
それは彼女の懺悔であったが、同時に思いやりでもあった。言いにくそうにしている私を少しでも話しやすくさせる為に、あえて自分の惨めさを晒してくれた。それこそが今、彼女が示してくれた善意だった。
「違う。違うんです。その気持ちも少しはありますけど、泣く程じゃないんです。私、自分が悩んでたことの小ささが情けなくて、恥ずかしくて、理恵さんの過去のことも哀しくて。でも、自分のことを好きになってくれた理由を知れて安心して。そう、安心しちゃったんです。そしたら涙が止まらなくって…」
「うん」
酷い鼻声だ。
「私、ほんとはそんなに真面目じゃないんです」
「うん」
シーツが涙と鼻水で汚れている。
「駅まで行ったのに体が動かなくなって、授業が終わるまでトイレで時間を潰す日もあるんです」
「うん」
理恵さんの指は、長くて綺麗だ。
「テストの点も低いんです。数学とか物理とか、いつも追試ギリギリなんです」
「うん」
理恵さんの声は、どこか艶っぽい。
「料理も、ほんとは得意じゃないんです。家で練習して、上手くできた料理だけここで作ってるんです」
「うん」
理恵さんの口元の黒子は、色っぽい。
「それから、えっと、それから…」
「うん」
「それから…」
「うん」
理恵さんは私を胸に抱いた。
「それから私、大人になりたいです」
「うん」
おっぱいの柔らかさ、肌の温かさ、心臓のリズム。
「理恵さん」
「美月ちゃん」
私の唇が理恵さんの胸骨に吸い付く。理恵さんの唇が私のつむじに落とされる。傷が溶け合う音がした。

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