幼稚の檻

#百合 #創作百合 #年の差

 喪服の似合う人だった。立ち上る蜃気楼の中で見上げた先に、彼女の黒髪と喪服に縁取られた白皙だけがくっきりと浮かび上がっていた。その像は私の網膜に今でも焼き付いていて、ふとした瞬間にフラッシュバックしては私を竦ませる。そこから一拍遅れて巨大なやりきれなさが私の躰を通り抜けて、立ち尽くした私はいつも、皮膚の裏側がいっぺんにささくれだったような気分で茫然とするしかないのだった。

 小学生の頃、地元の名士が死んだ。若くして妻を亡くしたその男は仕事で行っていた東京から帰ってきたとき、女を一人連れていた。聞けば東京で面倒を見ていた女だという。多分寂しかったのだろう。身寄りの無かったその女を、男は自分を看取る人間に選んだ。つまりは妻だ。かくして男は死に、田舎町には孤独な女が取り残された。閉鎖的な田舎町で、寄る辺の無い余所者がどういった扱いを受けるかなど想像に難くない。放り出すことも出来ない前当主の後妻は、臭い物に蓋をするように離れに押し込まれ、世話は通いの家事手伝いの娘に丸投げされた。
 それが彼女と私だった。

 「ユキエさん、私大学決まりました。東京の大学行きます。」
 十一月、肌寒いという表現では収まらなくなってきた頃、私は同級生たちより一足早く大学受験から抜け出した。指定校推薦だ。ユキエさんはいつものように「そう…」と気の無い返事をした後、庭を眺めながら言った。
 「良かったじゃない。これでやっとおばさんの子守から解放されるわね」
 捨て鉢な物言いはいつものことだった。彼女はいつも大げさに自虐をして、それに対して自分で傷ついている。小学生の頃は何故そんなことをするのか分からなかったが、中学に入ってしばらくするうちに、ふと自傷行為なのだと一人で得心した。この人は手首を切る代わりに心を切る。その度にこれが孤独だ、八つ当たり相手さえ自分以外にいないのだと見せつけられているように思えて、むしろ傍から見ている私の方が惨めな気持ちになるのであった。
 「それなんですけどユキエさん、一緒に東京に行きませんか?」
 私はかねてより考えていたことを口にした。何度もイメージトレーニングしたおかげか、思ったより滑らかに言えた。だが緊張で口の中が乾いている。少ない唾液は粘つき、舌は口の内壁に貼りつくようだ。
 「ユキエさん、一緒にこの田舎町から出ましょう。こんな離れに押し込まれて、気が滅入るばっかりでしょう。」
 舌が空回るようだった。だが手応えが無くとも、言うと決めた部分を言いきってしまうまで止まるとも思えなかった。
 「当面の生活費ならこの家が出してくれるそうです。だからゆっくり仕事を探して、私が大学を出たら二人で働いて暮らしませんか。」
 彼女はゆっくりと振り返ると、いつも通りの口調で答えた。
 「そうね、それもいいんじゃない」
 それは同意というよりは、諦観とか虚脱とか、そういう類のものだった。
 「遠くに追いやれるなら、その方があの人たちも安心だものね。いや、元いた場所へ送り返す感覚かしら。」
 私はなんと返してよいか分からなかった。この十年間、この家で彼女が晒されてきた無関心も、あるいはそれ以前の葛藤も何一つ共感出来るものは無いからだ。余所者に優しくないこの家の人たちは、同じ理屈で身内である私には優しかった。私は十年間余所者の世話をし続けてきた優等生で、同情というルビの振られた親切を与えられていた。産業廃棄物の処理場を作った自治体に補助金が出るようなものだ。彼女の冷遇は完全にシステムとして機能していて、誰か個人を責めることにもはや何の意味も無かった。だが彼女の消沈を知りながら、それに甘んじている自分の醜悪さだけはいやに鼻についた。
 東京へ行こうと提案したのは結局そういうことだった。場所を移せばこの茶番じみた同調圧力から逃れられるのではないか、しょうもない配役を捨てて、ただの私と貴方になれるのではないかという強迫観念だ。
 「もしかして貴方、都会の人間は解放的とでも思ってる?そんなことはないわ。同じよ、此処も彼処も。仲のいい人を上から順番に並べて、どこかで線を引くの。上の方には優しくして、線より下は相手にしない。線を引くところに多少の違いはあれど、誤差みたいなものよ。元からそういう生き物なの。」
 彼女は珍しく私の目を見て言った。彼女がそうするときは、決まって鬱屈を吐き出すときだ。いつも諦観の水底に沈めているヘドロのようなそれを掬っては、どうだ臭いだろう、と自嘲している。まるで謂れのない排斥に自分で後付けの理由を用意するようだ。その痛々しさに私の喉は締まって、半端に口を開けたまま音にならない空気だけが出入りした。
 「そもそも、貴方はいつまで私の面倒を見るつもりなの。いずれ彼氏が出来たり、結婚したりするときまで、四十過ぎのおばさんを連れてくつもり?」
 「そんな、出来るって決まったわけでもないのに」
 「出来ない保証も無いでしょう!」
 彼女の語調はどんどん強くなる。
 「貴方には分からないでしょうけどね、これから貴方はどんどん綺麗になるの。女としての躰が出来上がって、お洒落も化粧も覚えて、同年代の友人もきっと出来るわ。それにひきかえ私はどうなの。もう四十六よ!肩こり、頭痛、夜は眠れない。前は無かった皺が増えてる。ここ数年、日に日に女になっていく貴方を見せつけられた私の気持ちが貴方にわかる?私の躰は勝手に女を辞めようとしているのよ!」
 ひどい言い掛かりだった。だがそれは、嘘偽り無い本音でもあった。結局彼女は、人生のある時期を女として求められ、それ以外では必要とされなかった。自己研鑽も無く、悩みを分かち合う友人もいない人間が、自らが信じていた価値の喪失という一大事に襲われたら、年端もいかない小娘相手に憤懣をぶつける以外にやりようが無かったというだけの話だった。そう思って見れば、彼女のつり上がった眉も、握りしめた手も、今にも泣きだしてしまいそうなのだった。
 「貴方もすぐに私のことなんてどうでもよくなるわ。追い出されて、行き場も無くて野垂れ死ぬくらいなら、いっそ殺してくれた方がましよ」
 それは目から鱗だった。それというのは、つまり死だ。不思議なことに、私は今まで一度もその可能性を検討したことが無かった。
 「それは、良いかもしれませんね」
 「は?」
 「だから、死ぬって話です。うまくいかなかったら、死んじゃいましょうか」
 彼女の瞳に浮かぶのは当惑だった。自分で言ったくせに、具体的な想像があったわけではないらしい。私にはそれがなんだか愉快に感じられて、いつも一直線に結んでいた口がひとりでに緩んだ。
 「仕事とか恋愛とか、都会にご近所付き合いはあるんでしょうか。そういうの全部うまくいかなかったら、生きるのなんて辞めちゃいましょうよ。東京行くまでの間に、期限とか死に方とか、一緒に考えましょう」
 「そんなの、私が死んだら貴方はどうするのよ。私が遺書に貴方のこと書いてたら、自殺教唆で捕まるわよ」
 彼女は怯えたように言った。彼女の目にはまるで、目の前の少女が急に怪物に化けたようなに映っているのだろう。だが私にはその怯えを取り除く算段があった。あるいは、それさえ上回るほどの誘惑が。
 「心配しないでください。私も一緒に逝ってあげます。いや、あげますというのは厚かましいですね。私も一緒に逝かせてください。もとより、私が誘ったことですから。」
 「そんなことして、貴方に何の得があるのよ」
 混乱が半分、信用できないという気持ちが半分といった表情だった。
 「得は無いですけど、一つだけお願いがあるんです」
 「何?」
 「私が死ぬときは、喪服を着てくれませんか。昔の葬式で見た、貴方の喪服姿が忘れられないんです。今思えば、あんなに綺麗な格好で送られるのはずるいですよ。貴方を置いていったくせに。」
 口に出したことで、ようやく長年の欲望に名前を付けられたような気持ちだった。そして同時に、それは彼女の急所であった。彼女を唯一必要としたのはあの男だったが、先の見えない孤独へ閉じ込めたのもまたあの男だった。恨みを向けたい相手がもはや自分の記憶の中にしか居ないのなら、それを恨むのは自分を恨むことと同義だ。その記憶が輝かしければなおさらだろう。
 「私はもう、若くないわ。おんなじ服を着たって、きっと見劣りするだけよ」
 「さっき言ってたじゃないですか。躰が女を辞めてるって。じゃあきっと死ぬ頃には別の何かになってますよ。女だった貴方の美しさと、そうじゃない貴方の美しさを比べるのは無意味なことに思えますけど」
 そう言うと彼女は力なく項垂れて、そしてしばらく逡巡してからゆっくりと顔を上げた。
 「ねえ、本当に一緒に逝ってくれるの?」
 私は思わず抱きしめて「はい。一緒に」と言うのが精一杯だった。彼女がまるで幼子のようだったからだ。彼女を迫害した人間も、あるいは愛した人間でさえ、勿論私も、誰一人として彼女の成長を望まなかったのだと、私はこのとき初めて気が付いて愕然とした。そしてそれは迫害そのものよりも、よっぽど残酷なことのように思われて仕方が無かった。
 彼女の薄い手が背中に回る。冷たい手だ。体幹も私より冷たいだろう。今はただ、私の熱が彼女の躰に毒のように染み込んでほしいとだけ思った。
 日は早くも落ちようとして雲を寒々しい茜色に染め、足元ではしんとした冷気が這っている。ゆく秋を惜しむように、コオロギがゆっくりと鳴いていた。

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乾燥いぐあな

百合小説など書いたりします。
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