『ブレードランナー2049』の偽物の痛みと本物の救済

※この文章は、アニメ批評同人誌・アニメクリティーク『 vol.7.0 声と身体/ 松尾衡×機動戦士ガンダム サンダーボルト』に、『ブレードランナー2049』があまりにも突き刺さった筆者が、アニメクリティークの編集・nagさんに頼み込んで寄稿したものです(nagさん、その節はありがとうございました…ガンダムじゃないのに、無茶ぶりしてしまって…)
http://nag-nay.hatenablog.com/entry/2017/07/18/002457


かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン(@wak)

「俺はお前たち人間には信じられない光景を見てきた。薄曇りの中、炎を上げるとうもろこし畑。降りそそぐ真夏の太陽の下、ひまわり畑の中で瞬く白ワンピースと麦わら帽子の少女。そういった偽りの記憶も時と共に消える。カリフォルニアに降る雪のように。俺も思い出にされる時が来た。」


1.サイバーパンクにおける都市

 1982年に公開された『ブレードランナー』は、サイバーパンクにおける都市のビジュアルを決定づけた。2019年のロサンゼルスには、日本を始めとするアジアの街並みが混ざり合っている。雨によってぼんやりと光るネオン灯が照らすのは、多数の異文化が混ざり合う、戦後の闇市的な猥雑な都市だ。
 『ブレードランナー』では、人間(本物)とレプリカント(偽物)の差異は何かというテーマが語られている。しかし、問われているのは、人間と人間の間の差異でもある。デッカードが料理を注文する時に、「二つで十分ですよ」というディスコミュニケーションが発生する「怪しげな」アジア人と、他者への共感性を持たないレプリカントには、どこまで違いがあるのだろうか。冒頭でタイレル社の職員が行う人間とレプリカントを区別するための心理テストを、「二つで十分ですよ」と言い続けるアジア人の親父が受けた場合、彼は本物の人間と診断されるのだろうか。奇しくも、デッカードのような白人を本物とした場合、2019年のロサンゼルスにおけるレプリカントとアジア人達は、偽物というイメージが重なってしまうのだ。
 ネオン灯と猥雑な異国の文化が混入し、ネットワークに接続したハッカーがハッキングを行う都市では、何が本物で何が偽物か分からなくなっており、主人公が実存的な悩みを抱えている。概ね、サイバーパンクに関するイメージはこのようなものだろう。サイバーパンクが流行していた1980年代においては、異文化と密接に接続することはできなかった。物理的な距離と政治的な壁が立ちはだかり、現在のようにスマートフォンからインターネットを利用して気軽にそれを越えることもままならなかったものの、テレビがそれらを徐々に超えつつあった…そんな時代における想像力を、サイバーパンクは意匠としてまとうこととなった。そのため、ネットワークを通して混入した「異なる存在」が、猥雑で理解できない都市を作り上げるビジュアルが定着したのだろう。

 『ブレードランナー』における都市は、リドリー・スコットのオリエンタルな趣味が反映されており、現代の日本人である私が観ても、街並みにある看板に描かれた文章に特に意味を見出すことはできない。そこでの文字は背景にすぎず、コミュニケーションが可能なものではない。あのロサンゼルスに住む「二つで十分ですよ」の親父は、デッカードから見て粘り強くコミュニケーションを行う存在ではなかった。猥雑な街並みを作り上げたアジア人は、背景美術を盛り上げる存在でしかなく、特にコミュニケーションは求められていない。これは、レプリカントは偽物ではあるがコミュニケーションが成り立つことと対称的だ。つまり、人間とレプリカント、本物と偽物の区別が曖昧になる本作のテーマにおいて、人間であるはずのアジア人の方が粘り強いコミュニケーションに不向きだということこそが、それらの区別の曖昧さを浮き立たせるための前提をなしていた。
 しかしながら、Windows95の発売によってインターネットが世界中に定着した後、『ブレードランナー』のような街並みは成立していない。初めから、『ブレードランナー』における怪しげなアジア人達は、コミュニケーションが成り立つ存在であり、インターネットを通して現在に生きる私達は、既にそのことを知っているからだ。異文化同士のディスコミュニケーションが前提のサイバーパンクにおける都市は、皮肉にも、現実のネットワークが地球を覆い、異文化コミュニケーションが成立したことで、レトロフューチャーと化してしまった。想像上の2019年では可能であったあのような猥雑でオリエンタルな都市は、現実の2019年ではもはや、リアリティのある近未来SFとして成立しえないだろう。

 2017年秋、『ブレードランナー2049』を観た時に、筆者が最も驚いたことは、前作の猥雑な街並みを引き継ぎつつ、劇中に表示される日本語の文章が、日本人にとって意味が分かるものだったことだ。
 ロサンゼルス市警察に所属し、タイレル社が制作した旧型のレプリカントを始末する任務を行う新型のレプリカント・Kは、2049年のロサンゼルスに住んでいる。そこには、「ロサンゼルス市警察」「お酒」など、日本人が理解できる日本語が表記されている。彼が住むアパートの屋上にも、「アパート」というカタカナ表記の看板が飾られており、サイバーパンクにも関わらず、そこに表記された日本語は意味がないものではない。
 ドゥニ・ヴィルヌーヴは、『ブレードランナー』の続編を制作するに際し、前作の猥雑な街並みを引き継ぎつつも、コミュニケーション不可能な他者の存在を土台にしたオリエンタル趣味は引き継がなかった。同じく彼が監督をつとめた『メッセージ』において描かれるのは、単にコミュニケーションが不可能な相手ではなく、コミュニケーションを可能にしていく粘り強い他者である。サイバーパンクがレトロフューチャーと化した現在において、何が反応かすら分からない異星人のヘプタポッドと2019年のロサンゼルスに住むアジア人を比べれば、アジア人とのコミュニケーションを描くことは、著しく容易であるに違いない。言語学者のルイーズ・バンクス博士の緻密なコミュニケーションを描いたヴィルヌーヴにとって、ヘプタポッドとは、(我々の文明レベルを大きく超え出ているために)潜在的にはコミュニケーションが可能でありながら、まだコミュニケーションが達成できていない(そして、もしコミュニケーションが叶ったならば、我々が別物へと変化してしまうような)他者なのである。
 『ブレードランナー2049』において彼が描こうとしたことは、コミュニケーション不可能な他者ではなく、偽物にすぎない主人公のレプリカント・Kと、彼のアイデンティティの関係である。

2.偽物と感傷マゾ

 Twitterにおいて、筆者の周辺で流行している「感傷マゾ」というキーワードがある。数年に渡って語られ続けた結果、当初とは意味が変遷し続けているが、「実在しない感傷的な思い出に耽溺するも、それは偽物に過ぎないのだとサディスティックな少女に真実を突きつけられる。それにより何かを選択する必要が出てきて、その選択と結果に付随する痛みなどの感情の揺れ動きを、偽りの罪悪感としてマゾヒスティックに消費すること」(【注】2017年頃の定義なので、現在(2019年)よりマゾ寄りの意味かも)というのが、概ねの意味だ。

 感傷マゾに関して理解しやすくするために、本稿に直接の関係はない喩え話を語ることを許してほしい。
 例えば、あなたは青春時代にクラスメートの女の子と下校途中に制服デートをしたり、浴衣姿の彼女と夏祭りに行ったりするような経験がなく、青春が終りを迎えた後もそのことをずっと気にかけ続けているとする。社会人となり、独身生活を続けるには支障のない収入を得ているが、どこか心の片隅に青春時代をやり直したい欲求が、深夜の暖炉の消えかけた焚き火のようにくすぶり続けている。そんなあなたに、自身の脳内の記憶と願望を元に、理想の青春時代を再現するVRマシンメーカーが声をかける。「あなたの理想の青春を再現する、新製品のVRマシンのテストに参加してくださいませんか?」と。
 あなたは、最初は大喜びでテストに参加する。何度も寝る前に思い描いていた妄想を、実際に再現してくれる機会はめったにない。しかし、VRマシンにはバグがあり、仮想現実の世界に再生される理想の少女は、夏祭りの終わりを告げる花火が打ち上がると同時に、こう問いかけるのだ。「ここはあなたの妄想に過ぎない偽りの世界だけど、なぜ、あなたはあの時、私を夏祭りに誘う勇気がなかったの?」と。
 仮想現実内の理想の青春は、現実のあなたの記憶を元に再現されている。仮想現実の世界に住む幻の少女もまた、過去にあなたが遭遇した少女達から成り立っている。「あの時、もっと勇気を出して、あの娘を夏祭りに誘っていれば…」そういう後悔が記憶の底から泡沫のように浮かび上がり、顔をしかめた回数は数え切れない。しかし、後悔に後悔を重ねた上で、むしろ後悔そのものが快楽となってくるのだ。その上で、「仮想現実の少女とどう向き合うのか」という問題に対して、あなたが出した結論を少女は残酷に否定する。「結局、あなたの中には自分しかいない」と。そのようなメタにメタを重ねた否定や後悔に対して、マゾヒスティックな快楽を感じることが感傷マゾである。

 基本的に、フィクションのキャラクターやストーリー展開における救済に耽溺するも、現実の自分の人生は救済されていないことに絶望し、その絶望が癖になってマゾヒスティックにメタフィクショナルな妄想を行う、一部のオタク向けの概念だ。
 もちろん、唐突にスラングを導入したわけではない。『ブレードランナー2049』を読解する際、「感傷マゾ」という概念を思考の補助線として使用すると、理解がしやすくなるためだ。

 主人公のKには、複数の偽物としての属性が付与されている。時間軸と属性を元に整理すると、以下の通りである。

①過去-記憶
 ロサンゼルス市警察に勤めるKが、上司のジョシ警部補に求められて語った「工場跡のような孤児院で、同世代の少年達に奪われそうになった木馬のおもちゃを、溶鉱炉の脇に隠す」という子どもの頃の記憶は、Kの実体験からくる記憶ではない。Kは自分の記憶を本物だと思っていたが、恐らくは彼の記憶を覗いた時に自分の実体験だと分かっていたであろうアナ・ステリン博士によって、それは他人の追体験に過ぎないと語られる。厳しい労働環境に耐えなければならないレプリカントへ、せめて幸せな過去を持ってほしいという願いを元に、レプリカントの過去の記憶を作り上げる仕事に従事しているアナ・ステリン博士の実体験の埋め込みである。
 また、レプリカント解放運動家達に助けられた際に、生き残っていたレイチェルの子どもが女児であると告げられ、アナこそがレイチェルの娘であると悟る。
 私は何者なのかという現在のアイデンティティは、私は何者であったかという過去の記憶の糸を結ぶことで作り上げられる。「もしかすると、自分は単なるレプリカントではなく、レイチェルの息子なのではないか」という特別な自分を求めていたKにとって、その記憶が他人のものと言われることは、自分を残酷に否定されたように感じたはずだ。現在の私達は、現在の思い出を写真や動画などでデータとして保存することはできても、過去の記憶そのものをデータとして取り扱い、他者に植え付けることはできない。しかし、レプリカントのように、記憶そのものもデータ化された存在が現れてきた場合、「本当に過去の記憶は自分のものと言えるのか」という本作の問いは、単なるフィクションではなく現実の悩みとして浮かび上がってくるだろう。

②現在-身体、恋愛、名前
 ロサンゼルス市警察の同僚や、アパートの廊下にたむろうホームレスの集団に、レプリカントであるKは「スキンジョブ(人間もどき)」として排外主義的な言動を受けている。これは、レプリカントが人間と見分けがつかないほど精巧にできているが、人間を本物とした場合に偽物と見られることからくる差別的な感情であろう。たとえシャワーを浴びて料理を楽しみ、酒を飲みたくなるという人間と同じライフスタイルを持っていても、Kの身体はレプリカントであることから逃れられない。
 偽物の身体を持つKが耽溺する恋愛対象は、本作でレプリカントの製造を行っている総合メーカーのウォレス社が発売した、ホログラフィックAIのジョイだ。ジョイは購入者を愛するようにプログラミングされ、仕事に疲れた男性にとって都合の良い恋愛相手として描かれている。ジョイは、単なる製品番号に過ぎないKに、「ジョー」というニックネームを与える。Kもまたそのニックネームを受け入れ、前作のラストで失踪したブレードランナーのデッカードに会った時に、自らを「ジョー」と名乗る。
 モバイル端末に自らをコピーしてKと共に行動し、ウォレス社の社長秘書の女性型レプリカント・ラヴにモバイル端末を破壊され、復元不可能で事実上の死を迎えたジョイは、劇中では誰でも購入可能な商品として扱われている。街角ではジョイの宣伝用ホログラフィーが流れ、娼婦のマリエットがジョイの起動音を聴いた時に「現実の女が嫌いなのね」と発言したように、Kに限らずジョイを購入して仮想の恋愛を愉しむことは、当然のものとして受け入れられているのだろう。
 そして、劇中終盤でラヴに連れ去られたデッカードを取り戻しに向かうKは、ジョイの巨大な宣伝用ホログラフィーに「あなたは良い人(グッド・ジョー)みたい」と話しかけられる。Kが愛したジョイによって名付けられた「ジョー」というニックネームもまた、ジョイというAIにプリセットされた恋愛相手の呼称であり、交換可能なものでしかない。この場面において、Kのみならず、彼が愛したジョイもまた、愛情が本物である根拠を失うのである。
 Kと関わる女性キャラクターの中で、ジョイと対称的な人物は、レプリカント解放運動家グループに所属する娼婦のマリエットだ。男性に媚びを売るような見た目と都合の良い行動を演じるジョイとは異なり、マリエットは猫のような表情で自由奔放に活動し、Kに接触してもどこまで本心から彼のことを気にかけているのかが見えない。もしかすると、最初から自らのグループにKを勧誘するために、Kに気のあるような行動を取っているのかもしれない。劇中では、Kを中心に本物と偽物のキャラクターが登場する反面、マリエットがKに対してどのように考えているのかは曖昧なままであり、登場シーンは少ないが魅力的なキャラクターである。

 現実の身体を持たないホログラフィーのジョイと、現実の身体を持つレプリカントのマリエットが、二人で同期してKと性交渉を行うシーンがある。かつてオタク文化において、エロゲーやアニメなどのオタクコンテンツの二次元と、現実としての三次元は明確に区別され、三次元の恋愛を経験できない者が、現実が充実していない非リア充として二次元の恋愛コンテンツに耽溺する文脈があった。ジョイとマリエットが同期するシーンは、二次元と三次元、偽物と本物が垣根を超えて一体化することである。その一体化シーンを見て、長年、二次元と三次元を区別してきた筆者も、何とも言い様のない感動を覚えてしまった。
 このように、Kは時間軸と複数の属性から成り立つ多層的な偽物として描かれる。『ブレードランナー2049』は、Kが本物と信じたかったものを、偽物に過ぎないとして残酷に否定する物語であり、この点が非常に感傷マゾ的である。元々、レプリカントの身体という一つの偽物しか持っていなかったKは、物語が進むにつれて、過去も現在も、記憶も恋愛も名前も、すべて偽物に過ぎないと断罪され続ける。
 過去と現在を否定されるKと対称的に描かれるのは、レプリカントの出産によって生産効率を向上させることを目論むウォレスと彼の秘書のラヴ、そして唯一のレプリカントの出産例であるアナ・ステリン博士をウォレス達から隠そうとするレプリカント解放家グループである。彼らには未来しか見えていない。それゆえに、彼らの現在を超えて人類やレプリカント全体について考えることができる。過去と現在を否定され続けてきたKは違う。Kにとっての未来は、埋め込まれた過去と現在くらいあやふやで不確かなものだ。不確かな土壌の元では、旧型レプリカントのサッパー・モートンの農場の大木は育たないように。足場としての現在を持たないKは、まずは自分一人のアイデンティティの根拠を追い求めるしかない。

 この点で、本作で最もKと対称的なキャラクターは、ウォレスの秘書のラヴだ。彼女にはウォレスと未来しか見えておらず、自分のアイデンティティの根拠を問うことはない。アイデンティティを問うような心の迷いは、彼女にはない。Kとの最後の戦闘では、Kに勝利したと確信したラヴは、Kにキスをして「私は最上の天使よ」と嘯く。元々、「最上の天使」というニックネームは、ウォレスによって名付けられたものだったが、目的に向かって迷わず獰猛に行動するラヴの姿に、非常に似合う名前だった。
 レプリカント解放家のリーダーが、自らの運動にKを勧誘する際に、「大義のために死ぬのがもっとも人間らしい」と語っている。リーダーにとっても、ウォレスにとっても、大義とは全体を対象とした正義であり、個人を対象とした正義ではない。もしも、Kがレプリカント解放家のグループに参加してウォレス達と全面対決した場合、『ブレードランナー2049』は全く異なる結末を迎えただろう。おそらく、本作の観客も、Kがデッカードに会いに行く場面まで、同様のことを感じていたと思われる。しかし、観客の期待とは裏腹に、Kはレプリカント解放家達に組みせず、最後まで個人として行動する。そして、ラヴによって拷問のために地球外へ連行されかけていたデッカードを救出し、彼の娘であるアナ・ステリン博士の元へ連れていく。
 Kにとっての大義とは、ウォレスやレプリカント解放家達とは異なり、あくまでK一人だけのものである。本作のウォレス達とKとの対比は、全体と個人の構図であり、セカイ系にも似ている。ウォレス達がその後どうなったかは語られずに終わりを迎える点は、ウォレスもレプリカント解放家も全体のために行動しており、Kがどちらに組みしたとしてもK自身の問題は解決できなかったことを思い出させてくれる。現在を失ったものには、これから自分が向かうべき場所はどこにもない。
 では、その上で、大義のためにKが選んだ未来とは、何だったのか。なぜ、大義のためにKは未来を選べたのか?


3.『メッセージ』におけるスクリーンの隠喩と、Kが選んだ未来

 デッカードの娘であるアナ・ステリン博士は、免疫不全を持つためガラスのドームの中から外に出ることはできない。おそらく、免疫不全という理由は偽物で、本当はウォレス社に彼女がレイチェルの娘であると知られないために、レプリカント解放家たちがアナをガラスのドームに隠蔽したと思われる。
 彼女は、子どもの頃からこのドームに住んでいるので、ドームの外の人間が体験している人生を体験できない。その穴を埋めるために想像力が豊かであり、その特性を活かすためにレプリカントの過去の記憶をデザインする仕事に就いている。Kがガラスのドームを訪れた時も、彼女はドームから外に出ることはなく、ガラス越しにKと対話する。

 この構図と、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の前作の『メッセージ』における、異星人のヘプタポッドと彼らの言語を解読しようとする言語学者のルイーズ・バンクス博士の構図は、非常によく似ている。
『メッセージ』では、宇宙船の中で横長の長方形のスクリーン越しに、ヘプタポッドとルイーズ達が対話する。ヘプタポッド達は、時間を過去から未来へ進む流れとして捉えておらず、時間を俯瞰的に見る。そうすることで、彼らは、過去も現在も未来の記憶も、余すところなく持っている。そして、ルイーズはヘプタポッド言語を習得する過程で、時間を俯瞰的に見る能力が身につく。遠い未来において、ヘプタポッドは人類の助けが必要になり、『メッセージ』の劇中において互いに団結できないリスクを持つ人類を助けるために、ヘプタポッド言語を人類に習得させようとする。
 未来に起こる出来事はすべて決定づけられており、時間を俯瞰的に見れること。これに近いことを、私達は映画を観る時に行っている。映画館で映画を観る時には、映画は最初から最後まで全てが決定づけられており、その作品を見た記憶があるならば、作品全体を俯瞰的に見ることができる。ヘプタポッドの宇宙船の横長のスクリーンは、映画館のスクリーンの隠喩であり、ヘプタポッドは映画の中の存在とも言える。しかし、その映画の中の存在が(我々よりも圧倒的に、語彙も、推論能力も、それゆえ未来予知能力も豊かであるにもかかわらず、我々の可聴域にはない周波数で)声にならない声で叫んでいるのだ。我々を助けてくれ、と。

 ここで『ブレードランナー2049』に戻る。アナは、ガラスのドームの中で想像力を駆使し、レプリカントの過去の物語を作り続けている。そういう意味で、彼女は単なるレプリカント生産の一つの工程を担うデザイナーではなく、最初から最後まで全てが決定づけられている過去という物語のクリエイターなのだ。ヘプタポッドが見る記憶も、アナが作り上げる記憶も、俯瞰的に見ることができる点は共通しているが、時間軸の範囲が異なる。前者は過去から未来、後者は過去の記憶を見ることができる。
 Kにとって、デッカードとレイチェルは偽りの過去の記憶における偽りの両親であり、アナはKの過去を作り上げた偽りの記憶の産みの親だ。過去も現在も偽物であるKとは異なり、デッカードとアナの親子関係は本物であり、その点においてKは嫉妬を感じても良いはずだ。しかし、終盤においてKは嫉妬を見せずに、デッカードとアナを再会させ、ウォレスとレプリカント解放家との争いから隔離する。過去も現在も多層的な偽物に傷ついてきたKが唯一選べるのは、自分ではなく、他者の未来だけだ。レプリカント解放家の「大義のために死ぬのがもっとも人間らしい」という台詞を、Kはアイデンティティを求める旅の過程を元に解釈する。偽物の息子が本物の親子を再会させ、偽りの父親であるデッカードを救済することで、『ブレードランナー2049』の劇中でKは「もっとも人間らしい」未来の結末を選んだのである。
 デッカードをアナの元に送り出したKは、研究所前の階段に横たわり、雪に埋もれて息絶えていく。死にゆく彼を優しく包み込むカリフォルニアの雪は、本物だ。それに対し、デッカードと再会したアナには、アナ自身が作り上げた偽物の雪が降っている。Kにとって、デッカードとアナは「本物」の親子であり、アナは「本物」の記憶を持つ者だ。ドゥニ・ヴィルヌーヴは、何もかも偽物に過ぎないKに本物の雪を降らせ、偽物の雪に包まれたアナと対比することで、Kを本物として救済したのだろう。『メッセージ』において、ヘプタポッド言語とヘプタポッドの時間感覚を習得したルイーズのように、Kもまた偽物と本物を隔てるスクリーンを超え、アナとは異なる形で本物の世界へ到達したのだ。

 では、感傷マゾに駆りたてられる我々、つまり一部のオタク的視聴者はどうだろうか?私たちは、Kのもつ「本物」の雪が降る世界に到達したのだろうか?それとも、アナのもつ偽物の雪が降る「本物」の家族の世界に到達したのだろうか?そうして、我々の似姿であるKを救えるだろうか?
「お前はKを救えるか?」と問われるならば、もちろん決して救えはしない。それこそが私たち、感傷マゾの至る道である。私たちは声にならない声を逃し続け、あの時、あの場で逃し続けてきたではないかと、罪悪感に苛まれる。しかし、その逃し続けをひたむきに追い求めるものたちだからこそ、全てが偽物で作られたKの行く末の意味を知ることができる。
 それは意匠に由来するのではない。サイバーパンクが過去の栄光として潰えた現在において、何者にもなれない感傷マゾたちの行く末は、Kの行く末以外の何物でもない。

 1982年当時において、『ブレードランナー』が作り上げた前衛的な近未来の都市風景に匹敵するものを、『ブレードランナー2049』の美術は作り上げていない。2017年現在では、既にサイバーパンクはレトロフューチャーと化しており、サイバーパンク的な都市風景と前衛的な都市風景を両立させることは困難である。その風景は、過去も、現在も、そして未来においてもありえなそうになってしまっている。
 その上で、本作においては、偽物に過ぎないレプリカントのKの不安を感傷マゾ的に残酷に描ききっており、だからこそラストのKの救済が情緒的に雄弁に語られる。「新しいこと」そのものが求められ、そして近未来に住むキャラクターが「新しい悩みを持つ他人」として他人事のように語られがちな近未来SFというジャンルにおいて、本作は別の想像力を働かせてくれる。
 本作は、近未来の現実に、すなわち、つい数十年前の想像力からすればそうであったかもしれないにもかかわらず、その風景が永遠に失われた世界が頭の片隅に残っている場所に住みつく「感傷マゾ」たちの不安を描いた傑作なのである。

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