三秋縋インタビュー『サマーコンプレックスについて』

※この記事は、感傷マゾ専門同人誌『感傷マゾvol.02 最高の夏コンプレックス特集号』に掲載されたものです。自身が提唱された「サマーコンプレックス」を中心に、小説家・三秋縋氏にお話を伺いました。

三秋縋(@everb1ue)
1990年生まれ、岩手県出身の作家。
ウェブ上で『げんふうけい』名義の小説を発表し、人気を博している。

聞き手:かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン(@wak)


01.まず、サマーコンプレックスについて質問させてください。『僕が電話をかけていた場所』のあとがきで、サマーコンプレックスを提唱したら同じ感覚を抱いている人たちがいて、大きな反響があったと書かれていました。そこで質問なのですが、四季の中でも、なぜ、夏を強く感じさせるものを見る度に、コンプレックスを刺激されるのでしょうか?春や秋、冬ではなく、夏だという理由をお聞きしたいです。

三秋 これについては多種多様な要因が複雑に絡み合っている上、個々人で微妙に異なる部分もあるので、一概にこれとは言えないと思うんですが、あえて一番無難でつまらない説明を選ぶとすれば、「正しさのヴィジョンが明確だから」ではないでしょうか。結局のところ、夏って何をするにもふさわしい時期なんです。レジャースポットやデートプランのランキングサイトを見れば一目瞭然ですね。あれは「夏休みの宿題」なんです。他の季節と比べると、夏のそれはひときわ分厚い。どれだけ懸命に取り組んだところで未達成課題は残る。そうして僕たちは毎年無力感を募らせていくんです。今年の夏も何もできなかった、と。
 よりマゾヒスティックな解釈を採るなら、「夏という季節は若さや活力や可能性に溢れていた頃の自分を想起させ、現在の老いや衰えや限界を意識させられるから」なんてのもありだと思います。なんていうか、夏ってセーラー服みたいなものなんですよ。青春時代のエッセンスがそこに凝縮されている。セーラー服姿の女の子をぽんと置くだけで、平凡な風景写真が青春18きっぷのポスターになる。なんでもない田舎町の風景が、「人生から喪われた風景」に変貌してしまう。そして青春時代のエッセンスっていうのは、つまるところ人生のエッセンスそのものなんです。効果的に表現されたそれを前にしてコンプレックスを抱かない方がどうかしています。


02.『君の話』では、白ワンピースの少女や、浴衣を着た女の子と行く夏祭りなど、多くの人が「正しい夏」に対して持つであろうイメージが書かれていました。ご自身の「正しい夏」像に影響を与えた作品などはあるのでしょうか?それとも、複数の作品やサイト、実体験などを通して、ご自身の中に生まれた架空の夏を描かれているのでしょうか?

三秋 仰るとおり、僕はあの作品の中にこれでもかとばかりに「正しい夏」の典型を詰め込みましたが、あれはあくまで演出の一環で、本当を言うと、僕の中に白ワンピースの少女や浴衣姿の女の子はいないんです。借り物のヴィジョンなんですよ。白ワンピースの少女っていうのは僕たちが求めて止まない「少女性」の最大公約数的な解だと思うんですが、筋金入りの田舎育ちなせいもあってか、僕はどうしてもそこに嘘を感じてしまう。「駄菓子屋の店番をしている同級生の女の子」とかの方がまだ僕の正解に近いですね。フィクションの影響をまったく受けていないと言えば嘘になりますが、それでも最終的には、僕のヴィジョンは僕自身の目に映る世界によって構成されていると思います。実経験と虚構を混ぜ合わせて自分好みに組み直したものが「正しい夏」だとして、僕の場合、虚構の成分が比較的少ないということです。
 決して実体験に重きを置いているというわけではないんです。ただ、夏を舞台にした物語は腐るほどありますが、これまでそういった虚構の夏に対して違和感を覚えなかった試しがないんですよ。何を見ても、「これは僕の知っている夏とはちょっと違うぞ……?」と感じてしまう。自分自身で正確な夏を描き出す試みは何度かしてみたけれど、そちらもやはりうまくいかない。かと思えば、Youtubeに転がっている、夏の景色を撮った写真のスライドショーに『夏影』を添えただけの動画に本物の夏を感じる。これはどういうことか。
 たとえば、『菊次郎の夏』のバス停のシーンからは夏の本質が感じられるんです。あのシーンがいいのって、多分、「ただ撮ってる」からなんですよ。ただ撮って、そこに久石譲の『summer』を流す。それが最適解なんです。それ以上ちょっとでも手を加えようとした途端に、夏の本質は失われてしまう。しかし物語という形式を取っている以上、何も手を加えずにいるというのは単なる怠惰の証と見做されかねない。なかなか難しい話です。


03.三秋縋さんの小説、特に『君の話』を読むと、現実と虚構の齟齬によって発生した感情が鮮やかに言語化されていて、まるで自分のことを描かれているように感じました。このように感じた人は、私一人ではないはずです。
 そこで質問なのですが、『君の話』を執筆した時に、ご自身の感覚に従って素直に書かれたのでしょうか?それとも、現実と虚構の青春の齟齬に敏感な人々を想定し、彼らの感覚を言葉で形どっていく形式で書かれたのでしょうか?

三秋 あれはほぼ実体験です。魅力的な物事と出会うたび、それを自分の人生の基盤に組み込んだシミュレーションをせずにはいられないんです。だから常に可能世界の自分と現実世界の自分とを比較させられている。この能力のおかげで小説家になれたと言えなくもないですが、シミュレーションをやめない限り、僕が自分の人生に満足する日は来ないんでしょうね。

 知らない町を訪れるたび「自分がここで育っていたらどんな人生を送っていただろう?」と無意識に想像してしまう。お陰で今や日本中に可能性としての僕が散在していて、現在進行形でそれぞれの人生を歩んでいる。どの僕にも共通して言えるのは、今ここにいる僕よりも幸せそうなことだ。遠くの芝も青い。
 三秋 縋 (@everb1ue) | Twitter 21:27 - 2018年4月13日

https://twitter.com/everb1ue/status/984769930368176128


04.『君の話』225ページに、ヒロインの夏凪灯花の故郷は千葉県の片隅にある海沿いの田舎町と書かれています。千葉県民の私としてはこの章の風景描写から銚子をイメージしたのですが、ヒロインの故郷は現実にある田舎町なのでしょうか?それとも架空の田舎町なのでしょうか?

三秋 架空の田舎町ですが、銚子の風景が多分に含まれています。執筆に入る少し前に、犬吠埼灯台や本銚子駅の駅舎を見に行ったんです(功徳を積んでいないので駄菓子屋兼かき氷屋は見つけられませんでした)。だから、『君の話』を書いている最中、銚子の風景が常に頭の片隅にありました。


05.三秋縋さんにとって、サマーコンプレックスを感じる音楽などがあれば、伺いたいです。

三秋 『summer』(『菊次郎の夏』)、『夏影』(『AIR』)、『汐』(『CLANNAD』)、『夜の向日葵』(『素晴らしき日々』)、『翠の森』(『腐り姫』)の5曲ですね。JITTERIN'JINNの『夏祭り』、井上陽水の『少年時代』、ZONEの『secret base 〜君がくれたもの〜』みたいな歌ものは、どこか他人の物語という感じがしてしまうんです。「僕」が入り込む余地がない。もっとも、R.E.M.の『Nightswimming』、Teenage Fanclubの『Sparky's Dream』、スピッツの『プール』なんかは、他人の夏として完成されているのでそれはそれで好きなんですけど。ゲームのBGMは、それ単体で完結する音楽作品と違い、物語のための余白が大きめにとられているところが好きです。


06.三秋縋さんにとって、ヒロインとはどのような存在なのでしょうか?

三秋 あくまで創作理念的な定義ですが、理想の異性に対する「究極の答え」でしょうか。こちらの無意識的な理想まで補完しているので、その人と出会った瞬間、「これが答えだったんだ」と悟るような。”この世に生まれてきた意味を初めて知ることになる”ような。そういう存在であってほしいです。


07.エモさは、どのようなシチュエーションで生まれるものなのでしょうか?個人的に、「もしかすると、僕もこういう青春を過ごせたのかもしれない…」という正しい夏を連想する田舎の風景や、実は相思相愛だったのに自分の臆病さや羞恥心などから告白できず高校卒業と共に縁の切れた幼馴染の女の子など、現在の視点から見て決して手に入れることのできない過去に対する後悔にエモさを感じるのですが、三秋縋さんにとってのエモさを伺いたいです。

三秋 原義の音楽用語としての「エモい」はさておき、ウェブ上に溢れている「エモい」を分析していくと、その感動を言語化しにくいが単純に心を打つものに対して同語を用いる人(「得も言われぬ」の省略形なのかもしれませんね)を除けば、認知の手続きに回り道を要する情緒の感覚を「エモい」と表現している人が多いように見受けられます。構成要素の大部分が独立では非情緒的だけれど、それらを総体として捉えたとき、断片の単なる総和からはかけ離れた強い情緒が感じられるさま、とでもいうか。「相思相愛だったのに告白できなかった女の子」の場合、終着点は「後悔」なんですけど、その後悔が全体に遡って適用されることで「相思相愛」の価値を相対的に引き上げている。そういう迂回によって初めて生じ得る美しさや好ましさに対して抱く感情が、「エモさ」の核なんじゃないかと踏んでいます。大抵それは「好ましくないものでコーティングされた好ましいもの」というかたちで現れます。先ほどの例だと、「後悔」で「相思相愛」をコーティングしているんです。僕たちがマゾヒストとか倒錯者と誤解されがちなのは、傍から見ると、この不愉快なコーティングそのものに吸い寄せられているように見えるからなんでしょうね。
 ちなみに僕個人の話をすると、「死の匂い」「喪失感」がエモさのキーワードになっている気がします。いわゆる「セカイ系」の作品を僕が愛好するのは、主人公とヒロインの関係が中間項を挟まずに世界の危機と結びつく云々といった構造ではなく、その副産物である「死の匂い」に惹かれるからなんですよ。

僕が最高の夏と聞いて想像するのは「どことなく死後の世界を思わせる廃墟だらけの田舎町で、生への執着が希薄な女の子と穏やかながらも不穏な日々を送る」みたいな退廃的なヴィジョンで、実は夏という季節の真骨頂は「死の匂い」とそれに付随する「ひりひりした生の実感」ではないかと個人的には思う。
三秋 縋 (@everb1ue) | Twitter 19:00 - 2018年5月21日

https://twitter.com/everb1ue/status/998503762548244480


08.三秋縋さんが提唱されたサマーコンプレックスや、80年代から90年代にかけての消費文化(ビデオゲームやTVコマーシャルなど)を再構築した音楽ジャンル・ヴェイパーウェイヴ、偽の記憶に縋ろうとして翻弄されるレプリカント・Kを描いた『ブレードランナー2049』など、近年、日本のみならず世界的に「架空の思い出」をテーマにした作品が受け入れやすくなってきたと感じます。ノスタルジーに浸れるほどの良い過去を持たない人でも、ノスタルジーに浸ることができるのが「架空の思い出」の利点です。しかし、架空の思い出は自分の実体験によるものではないので、架空の思い出に対して誠実に向き合うほどKのように現実と虚構に挟まれる痛みを伴います。
 架空の思い出に対するノスタルジーについてのお考えを伺いたいです。

三秋 『君の話』がまさにこの問いに対する一つの回答になっているのですが、結局のところ、真実かどうかは大した問題ではなくて、その架空の思い出が自分に適用しても違和感のない仮説になっているかどうかが重要なのではないかと思います。自分には実は十二人の妹がいた、みたいな事実からかけ離れた架空の思い出は救済として機能しませんが(フィクションを消費するような楽しみ方はできますけど)、たとえば『2049』のKにとって木馬の思い出は、自分の余白にぴたりと当てはまる、十分に起こり得た出来事だった。その「起こり得た」という事実だけでも、Kにとっては救いとなり得ると思うんです(ホログラムのジョイを愛せた彼にはその素質があるはず)。宗教という物語が証明しているように、筋の通った仮説は不出来な現実よりも遥かに現実的な救いになる。そして「田舎町、真夜中のプール、向日葵の少女」みたいな仮説は、幼く可能性に満ちた存在であった頃の僕らにとっては、決してそこまで突飛な仮説ではない。パーツを組み替えさえすれば、それは可能世界の幸福として成立するんです。従って、「架空の思い出に対するノスタルジー」については、「宗教と同じくらい重要で、宗教と同じくらい無用なもの」くらいの位置づけになるんじゃないかと思います。


09.これは私だけではなく感傷的な人々は大体そうだと信じたいのですが、ノスタルジーに浸ると感傷の殻に閉じこもり、架空の思い出に対する妄想と後悔を交互して、勝手に気持ちよくなってしまいます。ノスタルジーは現実逃避的な要素を含むと思いますが、感傷の殻に閉じこもったままでよいのでしょうか、それともいずれは感傷の殻を破り、その先へと進むべきなのでしょうか。
※この質問は、『感傷マゾ vol.01』の座談会にも参加した、たそがれさんから寄せられました。

三秋 ただただ都合のいい空想に浸っているだけの人々に関しては、まあ本人が幸せならそれでいいんじゃないというほかないのですが、自身にも起こり得た範疇の出来事を取り扱う限りにおいては、架空の思い出への執着は、現実逃避というより「もうひとつの現実との対峙」になると僕は考えています。最良の現実を検証していると言ってもいい。この観点からすれば、むしろ、郷愁や空想を拒んで現在とのみ向き合うことこそ現実逃避になるんです(可能性から目を背けているという意味では、「非現実逃避」と呼んだ方が適切かもしれませんが)。手の届かない葡萄を前にして、「あの葡萄は酸っぱいに違いない」と決めつけて背を向けるのと、「あの葡萄はこの世のどんなものよりも甘いに違いない」という想像に浸ること、どちらを現実逃避と呼ぶかという話ですね。
 キャンバスにこの世のものとは思えない風景を描き出すことが、非現実的なまでに美しい旋律を紡ぎ出すことが、現実逃避なのかというと、無論そんなことはありません。気まぐれに懐古的になってみたり、「昔は良かった」で思考停止したりしているうちは郷愁は気晴らし程度にしかなりませんが、過去の情景を極限まで美化し、可能世界や虚構世界の要素まで取り入れ再構築を繰り返して美を追究するところまでいくと、やっていることはもはや芸術家のそれと大差ありません。感傷や郷愁は立派な創作行為として、一つのライフワークになります。それがくだらないのだとしたら、おそらく人生そのものがくだらないんです。
 どのような行為にも言えることですが、それがなんらかのかたちで自身の救いとして機能しているなら、そこに留まってもいいんじゃないでしょうか。ブルースマンがブルースを歌って気持ちよくなって何が悪い、と居直りましょう。


10.『君の話』は、記憶改変ナノロボットがエピソード記憶を操作することで架空の青春の記憶が与えられる設定でしたが、個人的に架空の青春の風景と仮想現実は、相性が良いと感じています。今後、仮想現実をテーマにした作品を書くことはあるのでしょうか?

三秋 早川書房のインタビューでも軽く触れましたが、『君の話』のアイディアが生まれる前は、植物状態の主人公がブレイン・マシン・インターフェースを介してコンピュータを操り、仮想現実内に自身の少年時代を忠実に再現した空間をつくって「自分を殺した犯人」を突き止めようとするが、何の因果か最有力容疑者の女の子と恋をしてしまう、そんな物語を書こうとしていました。プロットは完成したものの、自主的に没にしました。いちばんのボトルネックになったのは、仮想現実を舞台にした物語では、主人公の身に何が起きても一枚膜を隔てた他人事のような印象を与えてしまうということです。僕の作風からすると、この手の現実感の欠如は致命的でした。
 今後仮想現実をプロットに持ち込むとしたら、現在のVRチャットの延長線上のようなものとして扱うと思います。たとえば今思いついたのだと、自身の人生における「完璧な夏の一日」を仮想現実内に再現して、延々とその一日を繰り返すことだけが生き甲斐の男の話。ある日、仮想空間に何者かが侵入したことで、「完璧な夏の一日」が狂い始める。どうやら侵入者は実際に「完璧な夏の一日」に居合わせていた人間らしい。侵入者の目的は何か。こちらに何を伝えようとしているのか。あの完璧な一日の裏で、一体何が起きていたのか。そういう話なら、『君の話』と同じ感覚で書けるし、同じ感覚で読めると思うので。


11.「正しい夏」のイメージには、ひまわり畑や田んぼなど日本の原風景の要素が含まれると思います。おそらく、今後は少子高齢化が進むにつれて、そうした田舎が減っていき、お盆休みの帰省などでそれらを体験したことがない、最初から「正しい夏」が架空でしかない若い世代の方が増えていくのではないでしょうか。そうした場合、サマーコンプレックスに必要な要素は変化していくのでしょうか?それとも、田舎ではなく都会を舞台にした、新たな「正しい夏」の概念が生まれてくるのでしょうか?サマーコンプレックスの今後について、伺いたいです。

三秋 『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』を初めて観たとき、ノスタルジーの在り方がちょっと更新されたなと感じたんですよね。少年時代の思い出の中に携帯ゲーム機が出てきたり、僕が小学生の頃に流行った『secret base』がエンディングに使われていたり。それまでノスタルジーの中から慎重に排除されていた要素が、むしろ典型的な懐かしさとして扱われるようになった。ああいうのを見ると、「正しい夏」の在り方も時代につれて変遷するんだろうなと思います。そもそも僕の世代の時点で、既に『トトロ』の風景はファンタジーになっていましたしね。
 トトロといえば、伊藤計劃さんが『伊藤計劃記録Ⅰ』のなかで次のように述べています。

「トトロ」はあまり好きではない。というか嫌いだ。ああいう風景は小岩で生まれて江戸川を眺めて育ち、千葉北西部のスプロール、東京に通う会社人が寝るために買った新興住宅地で育った自分には、憧れようがないあらかじめ喪われた風景だからだ。

 仮に、”東京に通う会社人が寝るために買った新興住宅地”で育った人間が『トトロ』的な”あらかじめ喪われた風景”に郷愁を抱けないのだとすれば、今後そのような人々は増え続けることが予想されます。ひょっとしたら、新興住宅地的な風景こそがノスタルジーの中心に居座るようになるかもしれませんね。
 とはいえ、そう遠くない未来、駄菓子屋や向日葵畑を生で見たことがない世代がフィクションの担い手の中心になっても、あいかわらず一部の連中はそしらぬ顔で『AIR』の風景を描き続けるとも思うんです。そのような風景が自分の中になかったとしても、物事に辛うじて実感が伴っていた最後の時代として、未経験の「あの頃」を懐かしむんじゃないでしょうか。そしてそうやって描かれたフィクションに影響された人々は、今の僕たちと寸分違わぬ「正しい夏」に取り憑かれ、海沿いの田舎町で思い出の欠片を探し歩く青春ゾンビになるんでしょう。


12.最後に、感傷マゾに対して意見や感想などをお願いします。

三秋 この種の感覚について掘り下げる場が決定的に不足しているので、感傷マゾという概念を通じて少しでも議論が活発になればいいなと思います。感傷中毒者って、最終的には感傷に伴う痛み(刺激)の量や質を追求することになるはずなんです。ジャンキーの宿命ですね。そういうところまで行き着いた人々がものを語るための言葉を開発しなければならないときが来ているんじゃないでしょうか。

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