ユーザー的不服従|『誰のためのデザイン』

Donald A. Norman『誰のためのデザイン(The Design of Everyday Things)』
写真:カレルマン「マゾヒストのためのコーヒーポット」

流行りのUXについてMediumなどで調べると、バイブルとされているこの本。認知心理学の観点からデザインを解剖し、有益なフレームを与えてくれる。内容は素晴らしく、オリジナルの出版が1988年というのには驚く。

著者、Don Normanさんは元々MITで工学を学び、飛行機の操作ミスなどに代表されるヒューマンエラーを研究してきた。世の中はミスをした人間を責めるが、Normanさんは悪いのはデザインの方なのではないかと気づいた。そして、ヒューマンエラーとデザインの関係について研究していくうちに認知心理学の研究者となった。

もはやデザインの古典なので素晴らしいまとめは無数にあると思うが、いろいろな解釈があるに越したことはないので書いてみた。

目次

記憶は世界に染み出している
理解の囚人
デザイン3原則とアフォーダンス
共有のグラデーション
ユーザー的不服従

記憶は世界に染み出している

本書ではいくつかの重要な原則が具体例とともに繰り返し紹介される。それらを理解する前提として記憶に対する(読者によっては驚く?)ある解釈を押さえる必要があるように感じた。

記憶は世界に染み出している

これは自分の勝手な表現だが、これがNormanさんのデザイン論の重要な前提だ。筆者は故郷に久しぶりに帰ると、色々な記憶が蘇ってくる。たぶん東京でそれを思い出そうとしても、あそこまで鮮明にはならないと思う。

これは記憶という情報が、頭の中に閉じられたものではなく、世界の側に広がっているからだと捉えることで理解できる。メロディを聞くと歌詞が出てきたり、キーボードの配列は思い出せないのに実際に前にするとタイピングができたりする。

記憶は決して脳神経系に閉じ込められたものではない。環境にも存在しているグラデーショナルなものなのだ。

そして生物は、重要な(繰り返し行う必要のある)ことに関する記憶を、少しずつ環境から脳内に移していく。脳内に移された記憶に基づく行為は、より効率良く、簡単に行うことができるようになるからだ。

逆にいえば、記憶についてのこの解釈に賛同できない方には、本書を読む意味はないのではないかと思う。

理解の囚人

Normanさんのデザイン論の土台になるのが、次の図に示した概念モデルmental model)というものだ。

人間はどんなことにも、自分が納得いく説明を作り出そうとする。たとえば、自分が社会的に悪いことをしてしまい苦しんでいるときに、突然、雷が鳴り響く。すると、自分がさっきした悪いことをしたから、雷が鳴ったのではないかと思ったりする。きっと聡明な科学者でさえ、頭に一瞬よぎりはするんじゃないだろうか。

どうしても理解が難しい場合は、神とか超自然的な便利な概念を持ち出して間接的に解決する。ユーザーに神を思い起こさせたらデザインの負けだ。

人間は、人工知能と違って極少ないデータから概念モデルをこしらえることができる。だから、未知のモノゴトでも理解し、問題を解決したり、結果を予測したりできる。(人工知能は人間より「頭が良い」ともてはやされているけど、膨大なデータを地道に学ばないとモデルが作れない超優等生タイプなわけだし、個人的には健気に思える。)

けど、人間のこの素晴らしいギフトがときにデザインの敵となる。人間は平気で間違った概念モデルをつくり上げてしまうのだ。デザインが悪いと、実際の仕組みとはちがった概念モデルを作り出してしまう。これが本書でNormanがミステイクmistake)と呼ぶ、見つけ出すのが困難な、厄介なタイプのエラーを生んでしまう。

デザイナーは、ユーザーが間違った概念モデルをつくらないよう、UI(ユーザーインターフェイス;Normanはsystem imageと呼んでる)またはメディアを適切にデザインしなくてはいけない。つまり、デザイナーが設計する理想の概念モデル(デザインモデル)と、ユーザーがインターフェイスから解釈してつくりあげる概念モデル(ユーザーモデル)が同一になるようにするのがUIデザインということになる。

デザイン3原則とアフォーダンス

デザインモデルとユーザーモデルを同一にするために重要な、デザイン原則をNormanは明かしている。3つに集約してみた。


1. 対応づけmapping

これは、機能とその操作手段をどう対応させるか、という問題に対する原則だ。機能と操作手段の対応が自然であれば(自然な対応づけnatural mapping)、ユーザーは適切な概念モデルをつくりやすくなり簡単にコントロールできる。「自然」という言葉が難しいが、例えば空間的なアナロジーがある。

Wikipedia:Natural mappingより転載

これがNormanが怒るデザイン。実際よくある。

Wikipedia:Natural mappingより転載

こちらがNormanが提唱する、自然な対応づけをしたガスコンロ。コンロの空間的な配置と、操作手段であるつまみが空間的に対応しているため、どのつまみがどのコンロに対応しているかが直感的にわかる。ユーザーへの認知的負荷はとても小さくUXは良い。

ラベルに頼らないといけないデザインは失格である
Donald A. Norman

また、機能の数操作手段より多くなると問題が起きやすくなる。つまり、1つの操作手段が2つ以上の役割を担うことはできる限り避けるべきということだ。目指すべきは1対1対応のデザイン。

プロダクトは歴史が長くなってくると機能が増えがちだ。しかし、機能、つまりは操作可能な選択肢が増えれば、初心者にとってはそれだけハードルが高くなる。Normanは、複雑性は機能の2乗で増していくと主張する。

Normanは機能を闇雲に追加していく開発をなしくずしの機能追加主義creeping featurism)と呼び、厳しく批判する。

Normanはモジュール化を機能追加に対する解決策として提示している。選択肢をグルーピングして、階層化することで、1回当りに曝露する選択肢の数をたしかに減らすことができる。

Webプロダクトだとプラグインも1つの解決策になっているように思う。デフォルトでは必要最低限の機能(選択肢)に制限しておき、慣れてきたユーザーが好き勝手に機能を増やしていけるようにするというアプローチだ。


2. 制約constraints

これはユーザー行動をデザインで制限することで、UXを良くする原則だ。Normanは制約を4つに分類している。

物理的制約
e.g. レゴブロックのような凹凸

意味的制約
e.g. オートバイは前向きに進む

文化的制約
e.g. 赤いライトは停止を意味する

論理的制約
e.g. 上記、ガスコンロの例


3. 可視化visibility

構造が可視化されることで、ユーザーは正しい概念モデルをつくりやすくなる。これは言い換えれば、フィードバックfeedback)だ。

可視化すべきなのは、行為、実行過程、結果の3つのフェーズだ。

GUIを例にとると、

行為の可視化
e.g. マウスを動かすとカーソルが動く

実行過程の可視化
e.g. ファイルを削除すると、プログレスバーが削除の進行状況を示す

結果の可視化
e.g. ファイルがもとあった場所からなくなる

この3つの過程が可視化されることで、ユーザーが適切な概念モデルをつくりやすくなる。それなのに、何度も同じところカチカチをクリックしてイライラした経験は誰にでもあるのではないだろうか。個人的経験では、実行過程の可視化が一般的に最も発展途上に思える。


アフォーダンス

Normanはアフォーダンスaffordance)も上記の3原則と同列に紹介しているけれど、個人的にはそれは違うと感じている。

アフォーダンスは生態心理学という学問領域を切り拓いたJames J. Gibsonが主張する知覚モデルの1つだ。佐々木正人『アフォーダンス』から引くと、「環境が動物に与え提供している意味や価値」となる。これではよくわからないので、Normanはドアノブの取ってが「引く」という行為をアフォードする(与える)というように紹介している。

これはわかりやすいけど、本来のアフォーダンスは知覚とは独立に、環境に実在しているというのが画期的な概念なので正確ではない。WikipediaによればNorman自身、「本来のアフォーダンス(Real affordance)ではなく、知覚されたアフォーダンス(Perceived Affordance)と読むべきである」と謝罪に加えてコメントしているらしい。

Gibsonが偉大だったのは、知覚が脳内の現象であるとするデカルトから受け継がれる強力な常識を、視覚に着目して少しずつ、本人も悩みながら壊し、情報が環境側に実在するということを示してきたことだ。アフォーダンスに踏み込むと文章量がヤバいことになるので止めるが、実際、アフォーダンスの基礎になっている包囲光配列とか、動くことで変化によって不変を明らかにするとか、知覚システムなどのアイデアは本当に鋭くおもしろい。

まとめると、アフォーダンスはデザインの原則というよりは、上記の3原則を実現したときに生まれてくるUI側の性質だ

ところで、Gibsonの原著を読めていないのでなんともだが、少なくとも佐々木正人『アフォーダンス』が、環境が持つアフォーダンスは1つであるかのように説明していたのには違和感がある。アフォーダンスはたしかに環境に実在するだろうが、それは量子が観察されるまで定まらないのとまったく同じように複数のアフォーダンスが重なって存在しているのではないかと思う。

対応づけ、制約、可視化のデザイン3原則をより良く実現することは、重なり合うアフォーダンスをシャープに、明確なものにしていくことだ。

共有のグラデーション

本書には「デザインという困難な課題」という章があって、デザイナーがデザインしているうちにプロダクトの専門家になってしまい、良いデザインをできなくなるというパラドックスなどが議論されてる(これを解決するためにユーザーテストが必要になる)。

けど個人的にはデザインにはもっと困難な課題があるように感じる。それは、共有のグラデーションだ。

本書に照らせば文化的な制約がわかりやすい。Normanは文化的な制約の例として、オートバイの赤いライトが停止を意味することをあげている。これは言い換えれば、「赤いライト=停止」というデザインがある社会に共有されているということだ。でも、もし、レゴでオートバイをつくるという同じ課題を、オートバイや自動車のない地に暮らす未開民族の人がやったらどうなるだろうか。赤いライトは祭りを盛り上げる色として、装飾的に前面に配置されるかもしれない。

Normanがあげる4種類の制約のうち、意味的制約と文化的制約は確実に、論理的制約も場合によってはこの共有のグラデーション問題にぶつかるだろう。

哲学者の野矢茂樹は『心という難問』で、心を探る過程で共有について触れている。野矢が相貌と呼ぶ「意味に応じて異なりうる知覚の側面」には、自分だけにとってのものもあれば、家族と共有しているものもあるし、国民と共有しているものもある。相貌は、それをつくり出す物語として捉えると、わかりやすい(相貌を物語と言い換える)。

デザインするときには、そのデザインが拠り所にする意味的、文化的、論理的な制約がユーザーに共有されているかどうかが問題になる。これも結局、ユーザーテストをして確かめるしかないはずだが、共有されている相貌は1人1人違うはずなので、当然ユーザーテストに終わりはない。

とはいえ、ふつうプロダクトにはターゲットとなるユーザーのなんらかの性質がある程度はあるはずだ。プロダクトのターゲットユーザーを知り、彼らに共有されている相貌を見極めるのがデザイナーの腕の見せ所なのではないだろうか。

スタートアップのデザイナーは、困難だが面白い問題に直面する。それは、文化的制約が存在しないということだ。スタートアップのデザイナーは、アーリーアダプターに共有されている相貌を掴んで、比喩的に新しい文化的制約をつくるというのが仕事になるのだろう。

ユーザー的不服従

Mahatma Gandhiは非暴力という革命的な手段で大英帝国に、Martin Luther King Jr.は白人に反抗し、自由を勝ち取った。これら市民的不服従の草分けが『森の生活』を著したHenry David Thoreauだ。Thoreauは、奴隷制度に抗議するため、人頭税の支払いを拒否して投獄された。Thoreauのこの勇敢な行動が、インドのそして黒人の解放につながった。

世の中には悪いデザインがあふれている。見た目には美しいが、使い勝手が悪いデザインもたくさんある。

きっと賞でもとっているんでしょう
Donald A. Norman
Design is not just what it looks like and feels like. Design is how it works.
Steve Jobs

人は道具がうまく使えないと、自分の頭が悪いのだと自責の念に駆られる。そうした経験が積み重なると、長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた動物がそこから逃れようとする努力すら行わなくなる、学習性無力感learned helplessness)という心理学的状態に陥ってしまう(これはブラック企業と過労死などの社会的問題とも根深い関係にあるはず)。

表面的な美しさを重視し、体験を軽視するデザインに騙されてはいけない。声を上げよう。作り手は、ユーザーの声を聞いているのだから。声をあげることが、世の中のデザインをより良くし、世の中をもっと良くしてくれる。

これがNormanが本書を通じて伝えたかったことなのだと受け取った。けれど、本書が出たのは1988年だというのに、いまだに世の中には悪いデザインがあふれている。

だから、noteをつかって市民的不服従ならぬユーザー的不服従を行おうと思う。毎日は難しいかもしれないけど、これから日常で出会う悪いデザインを#ユーザー的不服従のタグをつけて投稿していく。一緒に戦ってくださる方が現れるのを願っています。

個人的には、デザインとは思いやりのことなんだと思う。使い手のことを真摯に想い、使い手が気持ち良く目的を達成できるようにプロダクトを設計し、実際に形にする。それがデザインなのではないだろうか。

見た目に綺麗でも、使い手が目的を簡単に達成できないようなものをつくる自称デザイナーは、デザイナーではない。アーティストだ。認知心理学に興味がないならデザイナーではないのではないかと思う。別にそれが悪いというわけではない。けどデザインは、デザイナーの存在が感じられないほど良いデザインなのではないだろうか。

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敢太

どんな未来がこようと紙の本

読書メモ。紙の手触りと匂いが好きです。 ↓ 過去の読書メモ https://bookmeter.com/users/665920/books/read
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