フォロワーを増やすために生きる諸君!|Max Weber 『職業としての学問』

Max Weber『職業としての学問』1919

今日の日本では、多くの学生が就職のために学問を選び、就職のために研究の道(大学院)に進学している。

「潰しがきくから"文系"より"理系"の方がいい」
「文学部より経済学部の方が就職に強いから」
「修士の方が良いとこに就職できるから」

つまり、「良い企業に就職することが良い」という曖昧な秩序を信仰し、生き方を与えてもらいながら生きている。

少なくとも一部の教授はそんな学生らに教えることに嫌気をさしてか、教育を蔑ろにしている。国は実践に役立たないと(国あるいは国民が)考える学問を縮小しようとしている。

こんな風に(子どもの頃のお勉強はできても)学問後進国となりつつある日本にとって、誕生から99年になるMax Weberの『職業としての学問』は今こそ読まれるべき本の1つだろう。これは学生に向けた講演をまとめたもので、大きく3つにわけられる。1つ目は、経済からみた職業としての学問について。2つ目は研究者の心構えとしての学問について。3つ目は学問の職分についてだ。今回は特に2、3点目について、印象に残った言葉を引用しながら考えてみる。

目次

・個性を持つのは、その仕事に仕える人のみ
・写本の一部の解釈に熱中できるか
・学問は計算ではなく全身を傾けるものである
・学問は無意味だ
・学問の隠れた前提
・教師は煽動家ではない

個性を持つのは、その仕事に仕える人のみ

Weberは学問に限らず芸術の世界でも、個性を持つのは、その個性ではなく、その仕事に仕える人のみだと看破する。これはプロフェッショナル仕事の流儀で取り上げられる価値ある人々にも共通した態度だ。

自己を滅して専心すべき仕事を、逆になにか自分の名を売るための手段のように考え、自分がどんな人間であるかを体験で示してやろうと思っているような人、つまり、どうだ俺はただの専門家じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、間違いなくなんら個性のある人ではない。こうした人々の出現はこんにち広くみられる現象であるが、しかしその結果は、かれらがいたずらに名を落とすのみであって、なんら大局には関係しないのである。むしろ反対に、自己を滅して己の課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となるだろう。

これはSNS時代を生きる私たちにとってはギクリとせずにはいられないのではないか。少なくとも筆者は「なんら大局に関係しない」という言葉に胸を少し刺された思いをした。誰でも簡単に発信できるからこそ、誰もがフォロワーを増やすことに必死になる。フォロワーを増やすことを目的に生きる。努力次第でフォロワーはすぐに増やすことができ、影響力を持った気になれる。実際、SNSでの影響力は実在するし、現代の構造の中で大きく有利になる。これに抗うのは簡単ではない。別にWeberのいう個性を手に入れることは正解でもないし偉いことでもない。ただ、100年後にそうしたインフルエンサーと呼ばれる人々の成果が人類の大局に影響を与えているかと問われれば、少なくとも筆者はそうではないように感じる。資本主義の誕生を独創的に逆説で説明してみせたWeberのような半永続的な個性を目的にする人々は、SNSに飼い馴らならされないよう注意する必要がありそうだ。

写本の一部の解釈に熱中できるか

Weberは、学問が急速に専門化されていること、そしてそれが今後も続くことは間違いないと指摘する。さらに、優れた実績はみな専門家的に成し遂げられたものばかりだという。

いわばみずから目隠を着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人である。

これは約100年後の現在からみれば、議論の余地がある。専門化が進み続けた結果、一部の研究者や国は専門家的な研究の成果の限界に気づき始めた。そこで出てきた概念がinterdisciplinary(学際的)だ。これは例えば、超高齢化社会という課題を解決するには、医学だけでなく、法学だけでなく、工学や心理学、社会学、農学などあらゆる学問の専門家が交わり協力して解決するというような意味で使われることが多い。東大のGLAFSなどがそういう趣旨の教育プログラムだ。とはいえ、Weberに言わせればinterdisciplinaryは学問ではなく解決かもしれない。

MIT Media LabのJoi Itoはantidisciplinary(反専門性)という概念を提唱している。これはinterdisciplinaryに対比して、既存の研究と研究の間にある手のつけられていない暗がりを研究するという態度のことだ。実際、Media Labは以前紹介したように独創的な研究を続けている。Uzzi et al. "Atypical Combinations and Scientific Impact" (Science, 2013)によれば、多く引用される論文の多くは従来の領域に属さないものだったこともわかっている。しかし、antidisciplinaryは反専門性を掲げた専門家的な研究と見ることもできるかもしれない。解こうとしてる課題が既存の専門から外れたものでも、それは専門家的に手をつけられた瞬間に専門になるからだ。

また、Weber自身、社会学者とよばれながら、宗教学や経済学、政治学など多くの学問で顕著な成果を残している。

学問は計算ではなく全身を傾けるものである

学問というものは、もはや全心を傾ける必要はなく、たんに機械的に頭を働かすだけでやっていけるものになってしまった

Weberは近ごろの若い人が、学問を実験室か統計作成室で取り扱う計算問題になってしまったかのように捉えていると批判している。筆者も自分の学生時代を振り返ると耳が痛い。Weberは学問で有意義な結果を出すには、その場に適した思いつきあるいは霊感が必要で、そのためには情熱が必要であるという。これはノーベル賞を受賞した研究者の歴史を見れば、そうなのだろうと感じる。しかし、この学問を頭の問題とする態度は、現代の便利さに飼い馴らされた学生にはより顕著になっているように感じられる。

学問は無意味だ

ルネッサンス期、実験は経験を確証するための手段として高められた。この頃、学問は立場によって「真の実在への道」、「真の芸術への道」、「真の自然への道」、「真の神への道」、「真の幸福への道」として捉えられていた。しかし、これらはすべて滅び去ったとWeberは言う。では今日における学問の職分とはなんなのか。Weberはその答えはトルストイにより与えられていると言う。

それは無意味な存在である、なぜならそれは我々にとってもっとも大切な問題、すなわち我々は何をなすべきか、いかに我々は生きるべきか、に対して何事をも答えないからである

これはトルストイの晩年の書である『人生論』でも執拗に強調されていたと記憶している。筆者は学部4年から修士2年まで研究(と呼べるものだったかわからないが)をしていたとき、おかしいと思い始めたのが正にこのことだった。帰結を考えずに大学院に進んでしまう人も多いが、学問が答えられること、答えられないことについて考えておくことは、進路を選ぶとき素晴らしい判断材料になる。ただし、トルストイの論の前提である「もっとも大切な問題」とは異なる「大切な問題」を設定した生き方もあっていいと思うし、その場合、学問はまた違った意味を帯びるはずだ。

それはさておき、学問は、実際の生活に対してなにも寄与しないのだろうか。Weberはこれについて3つ考えうると言う。1つ目は、技術、つまり実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか、についての知識。2つ目は、物事の考え方、およびそのための用具と訓練。そして3つ目が明確さだ。

人がいつも問題にするのは物事の価値いかんの問題であるが、たとえば諸君がこうした問題について、実際にこれこれの立場をとったとする。もし諸君がこれこれの立場をとったならば、諸君はその立場を実際上貫徹するためには、学問上の経験からこれこれの手段を用いねばならない。ところが、その手段はまさに諸君の避けねばならぬと思うものであるかもしれない。そうした場合、諸君は目的とそのための不可避的な手段とのあいだの選択を行わなければならない。目的がこの手段を「神聖にする」かしないか。教師はあたかもこの選択の必然性を諸君に教えることができる。だが、かれがどこまでも教師であって煽動家になるつもりがない以上は、かれはそれ以上のことを教えることはできない。(中略)もし君たちがこれこれの立場をとるべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えることになる。なぜなら、君たちが自己に忠実である限り、君たちは意味上必然的にこれこれの究極の結果に到達するからである。(中略)我々もまた、各人に対してかれ自身の行為の究極の意味について自ら責任を負うことを強いることができる。あるいはすくなくも各人にそれができるようにしてやることができる。

Weberは、この学問による明確化が個人的な生活にとって些細だと思えないと語る。それはもっともだ。いつの時代だって、なんらの立場に立たない個人はいない。みな、なにがしかの立場を(無意識にであれ)取っている。ということは、各々の立場から論理によって運ばれる最終地点、Weber風に言えば究極の意味は、様々な立場の人々と共生する限り無視できるわけがないのだ。

学問の隠れた前提

学問では、論理や方法論上の諸規則の妥当性は前提されている。だが、Weberは隠れた前提の存在を指摘する。それは、ある学問から出てくる結果が知るに値するという意味で重要だ、という前提だ。そして、ここにこそ全問題が潜んでいると語る。

なぜなら、ある研究の成果が重要であるかどうかは、学問上の手段によっては論証しえないからである。それはただ、人々が各自その生活上の究極の立場からその研究の成果がもつ究極の意味を拒否するか、あるいは承認するかによって、解釈されうるだけである。

与えられたことを解決することだけを訓練されてきた日本の良い子な学生に立ちはだかる壁が卒論だろう。なぜなら、自分(の立場)にとって価値があると考えやっとの思いで設定した問題も、教授(の立場)にとっては無意味であることが多いからだ。客観的な価値は存在しないことが厄介なのだ。

現代は科学(とりわけ自然科学)を崇拝しているので、具体的な例として自然科学を取り上げよう。訓練していない人々は、「”科学的に”証明されている」という言葉を聞いた瞬間に、自己の過ちを認め、ひれ伏すしかない。しかし、科学を神とするこのような態度は間違っている。

一般に自然科学は、もし人生を技術的に支配したいと思うならば我々はどうすべきであるか、という問いに対しては我々に答えてくれる。しかし、そもそもそれが技術的に支配されるべきかどうか、またそのことを我々が欲するかどうか、ということさらにまたそうすることがなにか特別の意義をもつかどうかということ、こうしたことについてはなんらの解決をも与えず、あるいはむしろこれを当然の前提とするのである。

現代は科学の(技術としての)進歩に、人類の方向性の議論が追いついていない。科学の進歩を抑制する負のフィードバックが、現在の人類のシステムには欠けているのだ。このままではいずれシステムの破綻を引き起こすだろう。科学を良いものとして教えるのなら、その意味や限界を教えることが少なくとも大学には必要なのではないだろうか。

Weberはこの講演の最後に神学についても逃げずに言及している。Weberは神学を、宗教的な救いの主知的合理化にほかならないと言う。無前提な学問は存在しない。しかし、神学は他の学問にはない特殊な前提をいくつか持つ。それは、「世界はなんらかの意味を持っているに違いない」という前提であり、「啓示が救いのための重要な事実として、またそれによって初めて意義ある生活が可能になるような事実として端的に信じられるべきである」とう前提などだ。

教師は煽動家ではない

講演の後半、Weberは教師は煽動家ではないと怒りをあらわにする。

教室では、例えば「民主主義」について語る場合、まずその種々の形態をあげ、その各々がその働きにおいてどう違うかを分析し、また社会生活にとってその各々がどのような影響を及ぼすかを確定し、ついて他の民主主義をとらない政治的秩序をこれらと比較し、このようにして聴講者たちが、民主主義について、各自その究極の理想のとするところから自分の立場を決めるうえの拠り所を発見しうるようにするのである。(中略)まことの教師ならば、教壇の上から聴講者に向かってなんらかの立場を(暗示的にしろ)強いるようなことはしないよう用心するであろう。なぜなら、「事実をして語らしめる」という建前にとって、このような態度はもとよりもっとも不誠実なものだからである。

なぜだろうか?

それは、今日の世界に存在するさまざまな価値秩序が、互いに解き難い争いの中にあり、個々の立場をそれぞれ学問上支持することはそれ自身無意味なことだからだ。これらの神々(価値秩序)を支配し、争いに決着をつけるのは運命であって学問ではない。学問が把握できるのは、それぞれの秩序にとって神に当たるものはなんであるかということだけなのだ。

おわりに

現代はインターネットによって、異なる価値秩序に生きる人々の争いが激しくなっている時代だ。いまこそ、『職業としての学問』が読まれれば、それだけ不毛な争いも減るというのに。

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