見出し画像

芸妓と競輪


 ここに1枚の写真がある。戦後間もない頃、鹿沼市内の美容院(髪結)の軒先で撮影されたと伝わるそのスナップには4人の女性が写っている。奥で雑談する3名は鹿沼の芸妓、縁側に座る女性は女子競輪選手(氏名不詳)だという。彼女たちの打ち解けた姿からは、芸妓と女子競輪選手に親密な交流があったことも想像できる。
 新時代の娯楽である競輪と、伝統の世界に生きる芸妓。一見してかけ離れた存在である両者の間に生じた接点が、終戦後の混乱がようやく収束に向かい高度成長への萌芽を待つこの時代にどのように位置付けられ得るのか考えていきたい。そのために迂遠ながら競輪誕生の経緯から見ていこう。

1.競輪誕生

 競輪の歴史は、倉茂貞助と海老沢清文という2人の人物が1946年に、国際スポーツ株式会社を立ち上げ神奈川県に大型のスポーツ観光施設「国際公都」の建設を計画したことに始まる。資金繰りに行き詰まり計画は挫折したが、2人は次に戦前から各地で開催され定着していた自転車競技に目を付けた。世界的には1896年に開催された近代オリンピック第1回アテネ大会から自転車競技が採用された。明治以降自転車の普及が進んだ日本では昭和6(1931)年に全日本アマチュア自転車競技選手権大会(2013年に全日本選手権に統合)の前身である第1回全大阪サイクル選手権大会が開催され、昭和9(1934)年に全国的なアマチュア競技団体として日本サイクル競技連盟が結成された。これらが倉茂たちのアイデアの素地となった。
 昭和22(1947)年9月、倉茂らは自転車レースのギャンブル化を目論み「報償付き自転車競技」を企画した。しかし法的根拠に欠け実施困難と判断した後、自転車競技法制定の提案に転じ自転車競技法案期成連盟を結成した。
こうした努力が実り昭和23(1948)年8月に自転車競技法が制定され、ここに競輪開催の土台が整った。同法は、自転車産業の興隆や自転車輸出の振興と並び、地方財政収入の増加を図ることを目的に掲げた。新憲法下における地方分権制度の強化によって地方行政事務が増大し財政支出も増加していた。競輪収益は住宅・学校・公共福祉施設の建設や戦災復興事業等に充当され、昭和31(1956)年までに収益総額は約340億円に及んだ(※1)。
 また、競輪の開催に当たっては、各都道府県に設置された自転振興会が、施行者である自治体の委任を受け実務全般を取り仕切る形式がとられた。
 国内において競輪が初めて開催されたのは昭和23年11月、小倉市においてである。先に福岡県で開催された第3回国体における自転車競技の会場がそのまま競輪場に転用された。その後、大阪府、大宮市と続きいずれも好調な滑り出しを見せたことから、昭和24年以降、全国各地で競輪場建設ブームが起こった。折しも「経済安定九原則」指令に基づく建設資材への強力な統制がある中、昭和25年には宇都宮市を含む全国34箇所の競輪場が新設された。


2.宇都宮競輪スタート

 昭和25(1950)年3月27日に、第1回宇都宮市競輪が開催され、初日の八幡山会場には無慮15,000人の観客でごった返した。
 開催前より、ミス競輪による出張宣伝や、ポスター3,000枚の配布、主要駅前の歓迎アーチ設置など盛大にピーアールを実施し、また自転車改良や市財政強化という名目を掲げた「健全競輪」を強力に押し出したため「市政を左右する“バクチ”」(※2)として市民の大きな期待を集めた。
 競輪開催に先駆け3月21日に行われた開輪式では、「競輪音頭」「競輪行進曲」の発表会や模擬競争が実施され、来賓が観覧する中、宇都宮芸妓50名が手踊りを披露。「宮の姐さん五十名が踊るあでやかな競輪音頭と頭上にさく裂する風船花火は観衆を魅し夢と希望の世界に誘いこんだ」(※3)。さらに27日から4月2日まで宇都宮市内で競輪祭が開催され、祝賀花火の打ち上げや芸妓による音頭発表会など数々のアトラクションに、「全市は競輪一色に色どられる」(※4)大賑わいをみせた。

▲「競輪音頭」の振り付けを紹介する記事(昭和25年8月5日『下野新聞』)。

 また、第1回競輪から鈴木和子をはじめ3名の女性選手の出場があったことも注目される。興行形態において全てを競馬に倣った競輪が求めた新機軸の一つが女子競輪の実施であった(※5)。女子選手は男女平等思想が普遍化する中で女性の新職業として脚光を浴びた一面もあった。この点については、鹿沼芸妓たちの野球チームが範とした戦後の女子プロ野球と同じ側面を有していたと考えられる。八木久仁子が指摘(※6)するように、青年男性の大量死がもたらした終戦直後における人口ピラミッドの不均衡が女性の社会進出を後押した可能性もあり、「新しい時代の女性たちにとって未知の分野や新しいスポーツ領域に飛び込む機運が高まっていた」(※7)ことは確かであろう。
 しかし、女子競輪に関しては人気低迷もあり昭和39(1964)年10月末に選手全員の登録が削除され、誕生以来16年で廃止された(※8)。一方人気を博した女子プロ野球も早くに企業チームへ移行、高度成長期に掛けて徐々にチーム数を減らし昭和46(1971)年に完全消滅した。女子プロ野球の選抜基準に「容姿端麗」が挙げられるなど、当時の女子プロスポーツは、女性の解放や経済的自立をアピールしながらも巧みに女性の肉体的魅力を売り物とするような前時代性や欺瞞性を内包していた。女子競輪においては、「花」としての役割にギャンブルの「駒」という二重の期待が課された(※9)ことが、その衰退を早める一因となったのではないだろうか。終戦直後の混乱が収束に向かう過程において、スポーツ界への急激な進出を果した女性たちに対する、ある種のバックラッシュが働いたとも考えられよう。
 その後紆余曲折を経て、平成24(2012)年に女子競輪は「ガールズケイリン」として48年ぶりに正式復活を果した。一方野球については、平成21(2009)年に復活を果した女子プロ野球が経営難で無期限休止した後も、プロ野球チーム傘下の女子チーム創設や学校における女子野球部創部が相次ぐなど、女子の競技人口は増加傾向にあるという(※10)。

▲栃木県出身の女性競輪選手・鈴木和子。第1回宇都宮競輪にも出場した。(昭和25年7月26日『下野新聞』)

3.競輪自粛へ

 宇都宮競輪では、初開催から間もない第6回競輪の最終日に、全国的にも注目を集めた「宇都宮騒擾事件」が発生する。
 その日、昭和25年8月13日の第12レースにおいて騒動は勃発した。審判員の曖昧なジャッジが観客に不信感を与え、発走やり直しを求めるファンとそれを認めない執行部側が衝突。暴徒化した数百名のファンが休憩所や本部に投石や放火する事態に発展し、警官隊300名が出動してようやく鎮圧した。翌8月14日、市議会緊急全員協議会が開かれ、自転車振興会役員が経過報告の上、事件の徹底究明を約し「今後の明るい競輪運営のため振興会の根本的改組を図ること」(※11)となった。

▲宇都宮騒擾事件を伝える記事(昭和25年8月14日『下野新聞』)。

 当時、競輪収入の増加に比例するように、レースへの不満をファンが暴力行動をもって訴える騒擾事件が全国各地で頻発していた。社会悪の根源を競輪に求めるような報道の影響も手伝い、社会大衆への競輪に対するマイナスイメージが植えつけられつつあった。これら騒擾事件の多くは、判定技術の未熟さ、観客の理解不足、選手意識の希薄さ等に起因するものだったが、選手を籠絡し八百長レースを仕掛け不当利益を得る「ボス」の存在も度々取り沙汰されていた。このような状況に鑑み、8月24日通産省は栃木県自転車振興会に対して解散命令を出し、宇都宮競輪は2カ月間の開催自粛に追い込まれた。それまで騒擾事件が発生しても実施団体の解散という厳しい処分がなされることはなく「この解散命令は、全国で最初のケースとして各自転車振興会にあたえた衝撃は大きかった」(※12)。競輪の主務官庁である通産省としては宇都宮事件への強硬措置を以て健全競輪への布石とする目論見があったのだろう。
 しかしこうした状況にも関わらず、昭和25年9月9日に「鳴尾事件」が発生した。レースの成立を巡り暴徒化したファンが払戻所に乱入し、警官隊の威嚇射撃によって死亡者1名を出す最悪の事態となった。9月15日に、通産省・全国競輪施行者協議会・自転車振興会の三者緊急会議は「当分のあいだ、競輪の開催を全国的に中止し、経理の明朗健全化を図ることに決定した」との声明を発表し、全国競輪の2カ月間停止が決定された。宇都宮競輪にとってはまさに追い討ちとなる処分となった。この間多くのマスコミは「競輪廃止」を提唱する等、競輪は開始2年目にして「存続か廃止かの重大岐路」(※13)に立つこととなった。

4.競輪復活への道

 明朗健全な競輪の再生を目指し様々な改善策が検討される中、選手の養成や徹底管理を期して「日本サイクリストセンター(NCC)(昭和30(1955)年日本競輪学校に改称)」が自粛声明のあった昭和25年9月15日に完成した。全寮制による選手の養成機関として、競技や自転車整備の知識をはじめとした選手規律を養成するための訓練が開始された。この時点で競輪の選手登録数は男子5,674人、女子605人にまで膨れ上がっていたが、入所検定と身体検査が課されたことにより、誰しもが選手登録のみでプロになれた時代が終わり不良選手は淘汰されていった。競輪は、敗戦後の混乱期にいわばどさくさに紛れて誕生し売上も急増した(※14)が、その急激な膨張による反動が「騒擾事件」等の問題となって表出したといえよう。そして社会的な非難が強まる中、「明朗健全」を目指し選手管理の強化や判定技術の向上、制度的な再整備が進められていった。
 宇都宮騒擾事件においては「全国的に競輪に対する非難の起っている現在宮競輪も審判員の正確な判定と出場選手の質の向上によって明るくしてほしい、とに角今度の事件を虚心坦懐に反省する必要があり宮競輪を明朗に再建することが必要だ」(※15)といった市民の声に対し市は「明朗競輪の再建」を期し新たな自転車振興会の設立と競輪再開に乗り出した。
 こうした中、下野新聞社と五市共催によって開催されたのが「県下五市早回りノンプロ自転車競争」である。

5.芸妓たち自転車競争に参加

 「県下五市早回りノンプロ自転車競争」は、「健全スポーツとして誰でも楽しく遊べる明朗競輪の発展を図るため」(※16)、全国競輪の自粛期間である昭和25年10月15日に下野新聞社と宇都宮市・足利市・佐野市・栃木市・鹿沼市との共催により開催された。
 ルールは、栃木県内五市(宇都宮→鹿沼→栃木→田沼→足利→佐野→小山→石橋→宇都宮)全133kmのコースを8人編成のチームがリレー方式で走破し各区間のラップタイム合計を競うもので、プロ登録者を除く県内のノンプロ乃ちアマチュアチームの募集が開始された。
 大会は正規レース外の特別参加も認められており、まずこれに名乗りを上げたのが宇都宮市の芸妓・小梅であった(※17)。続いて小梅に刺激された鹿沼市の芸妓たちが特別参加を申し込んだ。鹿沼芸妓の筆頭株・ひょうたん姐さん率いる、栄子、秀丸、久丸、トン子、秋子、右近、鹿ノ子、礼子、久太郎の10名である。彼女たちはこれに先立つ同年7月初旬に「紅鹿チーム」という野球チームを結成し、お座敷仕事の合間を縫って練習に励んでいた。自転車競争の参加に当たっては「野球の脚ならしにもなる」と意気込みを見せた(※18)。

▲鹿沼芸妓たちの特別参加を伝える記事。最上がひょうたん、3段目が秀丸(昭和25年10月7日『下野新聞』)。


 最終的に出揃った正規19チームには学生や郵便配達員など健脚自慢の男女、さらに特別参加枠には芸妓たちの他、美容院従業員や長生学校校長など多士済々な顔ぶれが並んだ。
 秋晴れの10月15日早朝、スタート地点に集まった数百の観衆に見守られる中「ノンプロ自転車競争」の火蓋は切って落とされた。鹿沼芸妓たち8名(2名は病欠)は、第1コースの途中で宇都宮市役所をスタートした小梅姐さんらを迎え鹿沼市役所まで歓迎走行を行い、第2コースの鹿沼・栃木間に入って西方村金崎で本選手団と別れるまで12kmを走破した。正規レースの優勝はトータルタイム4時間45分で「宇都宮選手育成第一軍チーム」が飾り、大盛況の内に自転車競争は閉幕した。
 芸妓たちが自転車競争に参加したという事実自体は、社会大衆の興味の対象として消費され忘却される一過性のトピックであったことに違いない。ここで、本大会の目的に立ち返ってみよう。ノンプロ選手たちによる自転車競争が何故、「明朗競輪の発展」に寄与するものと考えられたのか。そこには近代スポーツにおける「アマチュアリズム」の尊重(※19)という背景が見えてこよう。明治期以降、国内に移入された野球をはじめとする各種スポーツが旧制高校の課外活動などエリート層の健全なレクリエーションとして発展を遂げてきたことは第2章3節「芸妓たちが野球チームを結成」でも述べたとおりである。自己の筋力や体育的技能によって賞金を稼ぐ「職業選手は純潔でないという価値観」(※20)が定着する一方アマチュアリズムやフェアプレーが称揚された。つまりギャンブル性を排除した完全アマチュアの全力疾走を一般大衆に見せつけ、失墜した競輪のイメージアップを図りその再建への足掛かりとするために採られた手段が「ノンプロ自転車競争」であったのだ。 
 新憲法下における地方自治体の厳しい財政事情が競輪施行の正当性を保証したが、度重なる不祥事によってそれも瓦解、「バクチのテラ銭で学校や住宅をつくっても利益よりも大きな害毒が流されている」(※21)との論調が高まり競輪は存亡の岐路に立たされた。そしてその再生に向かう道程において自転車競争への参加という形で芸妓と競輪の間に接点が穿たれたのだ。
 11月15日の全国競輪の再開に当たり通商産業大臣は「事故の絶滅と競輪に伴う弊害の防止に万全を期し、健全明朗な競輪の建設に全力を尽くさねばなりません」との声明を発表した。宇都宮市では11月11日に新たな自転車振興会の設立が認可され、「新装全くなる 明るい 正しい競輪」と銘打たれた第7回競輪の再開が決定した。

▲秀丸姐さんのご親族から提供いただいた鹿沼芸妓の集合写真。競走に参加した際の記念写真ではないだろうか。遠目にも洋装がキマっている。

6.そして芸妓野球チームの復活

 当時、鹿沼芸妓が自転車と同じくらいの熱意を持って打ち込んだのが野球である。県下ノンプロ自転車競争への参加が、野球チームを結成した彼女たちの「足ならし」であったことは先に触れた。昭和10年に野球チーム「キャット倶楽部」を結成し、カフェー女給チームとの試合で喝采を浴びた彼女たちが、戦争や敗戦後の混乱期を経て、15年振りに野球チームの結成に至った理由は何だったのだろうか。
 戦後、日本における野球の復活は急ピッチで進められた。占領政策の遂行を容易にするためGHQによる映画とスポーツとセックスによる3S政策がとられたといわれる。各種資料から「スポーツを、日本の民主主義化促進のための有効な手段の一つと位置づけていた」(※22)ことは明らかであろう。「もし米国が日本に民主主義の何たるかを教え込むつもりならば、野球が一番よい、野球が教えるスポーツマンシップを日本人に十分吸収させることだ」という『ヘラルド・トリビューン』の社説(※23)が示すとおり、戦前から日本で人気を博した野球の復活には占領軍も協力を惜しまなかった。昭和20年11月18日には、接収されステートサイドパークと改称した神宮球場でオール早慶戦が、同月23日にはプロによる東西対抗戦(日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦)が開催された。早慶戦には4万5千人の観衆が押し寄せ、日本の野球人気の根強さにGHQも目を見張った。このような状況に商機を見出した興行師・小泉吾郎は、昭和23年7月に、ダンサーを含む本邦初の女子プロ野球チーム「東京ブルーバード」を結成した。小泉は女子野球を飽くまで新時代のエンターテインメントと考えており、選手たちの選考基準も「容姿端麗」を第一条件としていた。その後昭和25年3月には女子プロ4球団によって日本女子野球連盟が発足、メディアによる報道や遠征試合による人気獲得も手伝い、年内までに30近くのプロチームが結成された(※24)。
一方、栃木県における野球復活の様相を見てみよう。鹿沼町では、昭和21年4月に町体育協会が職域野球チームによるリーグ戦を開催するべく呼び掛けた所、20余のチームが早々に結成された(※25)。また昭和21年7月の県下中等学校野球大会においては、鹿沼農商学校が優勝、さらに都市対抗野球大会では、20回(昭和24年)・21回(昭和25年)と、鹿沼の古澤建設が連続出場を果たし熱戦を繰り広げた。まさしく栃木県下における「球都」鹿沼の快進撃が見て取れるであろう。そして当時栃木県野球連盟会長を務めていたのが、橋田長一郎である。橋田旅館の主人である橋田は、既述のとおり宇都宮中学校時代は野球選手として活躍し実業団チーム・茶目倶楽部の中枢を担った野球人であり、また俳句や長唄など諸芸に通じた文化人でもあった。町議や県議を歴任し当然花街とも縁の深い人物である。昭和25年5月に開催された「第1回市町村対抗野球大会」(下野新聞社主催)では、その開会に先立ち橋田は次のように述べた。「文化日本の再建はスポーツと科学と芸能からということをモットーとして叫びつづけ実践の歩みを着々と進めて来たが、先ず我々の生活を端的に明朗化し終戦後いち早く希望と光明をもたらしたのがスポーツの復興にあったことはまぎれもない事実であった、そしてそのスポーツの最先端を行くものは実に野球であった」(※26)と。
 終戦直後から雨後の筍のように、プロ野球や各種野球大会が復活し、また時代の間隙を縫うように女子プロ野球が誕生、栃木県下においては、鹿沼を始め各市町村において野球が大いなる盛り上がりを見せた。「将来は女子プロ野球にむこうに回すとハリ切っており、なかなかの気焔」(※27)と伝えられたように、鹿沼芸妓たちの野球チーム再結成には、そのような時代状況の後押しがあったのだ。

「サラリとオ色気すてて 毎日お座敷以上の熱」紅鹿チームの練習風景が大きく紹介された(『下野新聞』昭和25年8月5日)

 昭和25年7月初旬、鹿沼市役所チームよりミットやバットを借り受け野球の練習を開始した彼女たちは、チーム名を鹿沼の紅裙(芸妓)の意である「紅鹿(くろく)」とした。メンバーは、主将兼投手・ひょうたん、捕手・ヒロ子、一塁手・トン子、二塁手・久丸、三塁手・秀丸、遊撃手・久太郎、センター・小豆、レフト・栄子、ライト・すみ子の面々である。鹿沼芸妓の筆頭株でもあるひょうたんや久太郎は、戦前キャット倶楽部でも活躍した古参。監督は市内実業団チーム「若人クラブ」の主将でもあった渡辺石材店の渡辺正二氏が務めた(※28)。拡張工事が完成したばかりの御殿山公園の野球場には、練習に励む芸妓たちの嬌声が響き渡り、物珍しさに多くの見物客も集まったことであろう。

紅鹿チームのスナップ写真。後列真ん中がひょうたん姐さん。その左後帽子の女性が秀丸姐さん。ユニフォームは若人クラブ(WAKODO)からの借り物で、男性チームとの交流を窺わせる。

 紅鹿チームは、10月の自転車競走へのエキシビション参加を挟み、同年12月3日に開催された鹿沼市野球祭(市野球協会主催)に参加した。芸妓たちの対戦相手となった鹿沼球界の長老チームには、前出の橋田長一郎や中野正一郎、新島貫一、藤田藤吉等、鹿沼花柳界とも馴染みの深い錚々たる面子が並んだ。珍プレイ続出の試合は、「五回戦で女子軍に勝利の女神が微笑んだところで試合中止、夕方から公民館で一同なごやかな杯を飛ばす室内戦に野球祭の幕を閉じた」(※29)という。後年、鹿沼市野球連盟によって編まれた冊子『鹿沼の野球』(平成10年発行)には、芸妓チームが「男性チームと度々試合を行い、荒廃した人心一新に寄与した」との福富金蔵(※30)による回想が記録されているが、戦後日本に訪れた自由と平和の一情景を垣間見るようだ。
 
 競輪誕生に大きく与った国際スポーツ株式会社は設立趣意に「「スポーツは平和と共に」やがて世界平和の再建と共にスポーツの隆昌は、文字通り有史以来の黄金時代を現出するに至ると信ずる」と高らかに謳い、その構想がやがて競輪誕生に結実(※31)した。「スポーツは平和と共に」というスローガンが倉茂らプロモーターによる資金調達のための題目に過ぎなかったにせよ、以上見てきたようにスポーツの復活こそが終戦後に訪れた自由と平和を象徴する出来事であったことは間違いない。
野球や自転車に打ち込む鹿沼芸妓たちの姿に、そのような時代精神の表れを感取することもできよう。


※1『競輪と地方財政』1957年(全国競輪施行者協議会)。なお競輪誕生の経緯については主に『競輪十年史』1960年(日本自転車振興会)を参考にした。
※2『下野新聞』昭和25年3月9日
※3『下野新聞』昭和25年3月22日
※4『下野新聞』昭和25年3月20日
※5古川岳志『競輪文化―働く者のスポーツの社会史』2018年(青弓社)p256
※6八木久仁子「昭和の女子野球:その興亡の要因」「人間健康研究科論集」所収2018年
※7八木前掲論文
※8『競輪六十年史』p116
※9古川前掲書p271
※10『産経新聞(電子版)』2022年1月19日他
※11『下野新聞』昭和25年8月15日
※12『競輪十年史』p107
※13『競輪十年史』p116
※14古川前掲書p52
※15『下野新聞』昭和25年8月16日
※16『下野新聞』昭和25年9月29日
※17『下野新聞』昭和25年10月4日
※18『下野新聞』昭和25年10月7日
※19西山哲郎『近代スポーツ文化とはなにか』(世界思想社、2006年)p11
※20古川前掲書p66
※21『毎日新聞』昭和25年9月15日
※22谷川健司『ベースボールと日本占領』(京都大学学術出版界、2021年)p9
※23 この社説は「民主主義は野球から」という見出しで『読売新聞』(昭和20年9月28日)で紹介された。
※24間もなく女子プロ野球は、母体企業の経営基盤の脆弱さや野球技術の拙劣さ等の弱点を露呈し人気が凋落。起死回生を期し「健全スポーツ」を掲げ、昭和27年以降はノンプロに移行した。(八木久仁子『日本女子野球史』東京図書出版、2022年)
※25『下野新聞』昭和21年4月1日
※26『下野新聞』昭和25年5月23日
※27『下野』昭和25年7月4日
※28『下野新聞』昭和25年8月5日
※29『下野新聞』昭和25年12月5日
※30福富金蔵は、鹿沼町吏員から同市助役となり、その後栃木県会議員に当選、議長等を歴任した。その事績は三瓶恵史・著『福富金蔵伝記 あすなろは勁し』(1986年)に詳しい。
※31『大阪競輪史』1958年(大阪府自転車振興会)p2

鹿沼市の中心部は例幣使街道の宿場町として栄え、本陣が位置した石橋町辺は昭和時代まで花街としての命脈を保った。

本記事は、ひょうたん姐さん、秀丸姐さんのご親族から提供いただいた写真なくしては書き得ませんでした。ここに深甚なる感謝の意を表します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?