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コメントへの返信 「編集意図」感情を強制することについて 141/360

ごきげんよう、観世 (かんぜ) バタコです。

昨日の記事に、長めのコメントをいただきました。

回答が長くなったので記事にしました。

主観で書いてます!


Betalayertaleさん、イロイロ気づきをありがとうございます!
■いつも主観で書いちゃってますね。
 主観でしか書けないヒトかもしれません・・

儀式の「編集意図」と感情の強要


■感謝を強要。なるほど。
「仰げば尊し」「サヨナラ友よ」「贈る言葉」歌ってましたね。

やっぱり、今読んでる最中の
「葬列の仕事師たち」本に釣られてしまうのですが、

葬儀でも確かに(「おくりびと」映画のように)
「故人とイロイロあった思い出を含め、お疲れさまでした
良い人生だったね良いおつきあいでした、
故人のアナタと会えてよかったありがとう、
丸くまとめる
と言う編集意図を感じる、と言ってしまえばいえるのかも。

で、編集意図に乗れる人と乗れないヒトは出てくるわけですね。

まぁあくまで作り話、例ですが
◇故人に虐待を受けていた配偶者や子なんかはどう思うんだ
◇故人のいろんな行動のしりぬぐいをしてた人は?
とか、その視点は抜けていました、
Betalayertaleさんにコメントいただくまでは。

バタコが主に想定していたのは

ただ、あれよあれよと入院や闘病や看病疲れご臨終
または事故の場合は突然の連絡・遺体確認や引き取り
怒涛の感情の渦のなか、「まだ信じられない」
「やっぱり厳然とそこにある遺体」
などを経てまだ皆さんうまく言語化できない混沌
「ほんとうに、亡くなってしまったんですね」
という、ぼやッとした感想

を踏まえて

(やはりそれまで「死んだら無」「特に普段は無宗教」と思ってるヒトでも
やっぱり、「故人に届け」とこの場では思ってしまうだろう、
という前提の上で)

「お疲れさまでした」
と万感を込めて言う

のが「大多数の人の気持ちを代弁」するであろうという
一種の「賭け」をもっての発言になるわけですよね。

それをバタコは「勇気」であると感じますが
「式」なので丸くまとめましょうという
「悪意」にも取れる可能性はあるわけで。

その点、今回参加したイギリスの卒業の会には編集意図が無くて(少なくて)
バタコは「物足りないな、やる気あんのぉ?」と思ってしまいましたが、
ニュートラルさ抜け感がイイ、ともいえるわけですね!
(すばらしい気付きをありがとうございます)

日本の結婚式で感じた違和感

そして今思うと、参加した数少ない日本の結婚式においても
プロの司会者の語り口にやや
「ハイ皆さんココで○○してください」
(編集意図:〇〇と言う感情を持て!)
という強気のかじ取りを感じ取ったことはあったなぁ
と思い出しました。
(ちょっと「煽られた」気がしてうっすら不快、だった
あの時。)

大学に行ったのは「考えるコトを放棄した」結果

主観ついでに披露してしまうと
バタコは
「大学にはとりあえず行くのが得策なんだろう、世の中的には」
みたいな感じでかなり消極的に進学し

それまで在学していた中高一貫校における
進学・「尚学」「出世志向」の強い地方都市の「編集意欲」に満ちた
手取り足取りの教育に慣れきっていたため
  ←ちなみに夏休み無料補習講座
   全員参加、でした、よ。
   (むりょうって、ま、普段通りの
   月額納付授業料はあったはずですが
   今思うと先生もよくやってたよな
   朝補修もあったなぁ)

大学の放任主義
◇取る講義の選択もすべて自分任せ
◇参加してても試験でちゃんと回答できなきゃ単位落としちゃう
◇論文のテーマも自分で選んでリサーチ
に全くついていけず
(とりあえずお情けギリギリ可で卒業させていただいたものの)
真正・落ちこぼれでした。
   
「編集意図がないとやっていけない」
にんげんなんだわ、今でも割と
と改めて思ってしまいました。
やっぱり (編集意図や誘導がない状態で) 自分のアタマで考えるって
それなりにエネルギー要りますからね。

自分のアタマで考えるのは大変だけどやると充実感ある

こうやって日々ブログ書くの
ハタから見たら「しんどいことわざわざやってんね」
的なコメントもアリかもしれないですしね。

というわけで、Betalayertaleさん、ありがとうございました。
色々考えられてとても充実感アリです。
別に、それが何の役に立つかは不明ですが・・

感謝を引き出す愛の言葉

ちなみに
コドモが自主的に感謝の念を持つかについては
「多分なしゼロです」
Benedict君もAnnabelちゃんも一切、言及なしでした。

でもね、不思議と、ものすごいちっさい子でもね
バタコ=母が
「生まれてきてくれてありがとうね。ダイスキよ」
とか
「●●してくれてありがとう」
みたいなことを言うと、

  (注:あまり頻繁に言ってるわけじゃないんです。
    そんなに「いいヒト」っぽくないんで・・)

全然期待なんかしてなかったのに
「こちらこそありがとう」
みたいなことを完全自主で言ってくることあるんです。

大人でもそうです。
・・うん、なんか、人生のヒントになりそうですよね・・


そう思うと、
「おくりびと」の「おつかれさまでした」も
強制と言うよりはやさしい気持ちを引き出す魔法の言葉
と言う方が近いのかなぁ。

バタコの自論 「昭和=ビクトリア朝」 

Betalayertaleさんからの最後のご質問
「イギリスに家庭で親への感謝を強制する風土があるのか」については
(そんなに知らないから想像・憶測で言うと)
多分、2019年現在ではあまりなさそう。

母の日、父の日はあるけど敬老の日はない。
(母の日父の日はなんか「商業イベント」的なものに
なっているよなと思う2019年。
   ←カード。外食産業。お花。)

過去にはもっとあったのかもしれない。
バタコは勝手に「昭和=イギリスのビクトリア朝」
と思っています。
(1926-1989 と 1837-1901 と約90年の差があり
それが『同じだ』というのはかなり無理・論理の飛躍ありですが
心情的・直観的には
とても似てる気がしています。)

昭和の時代において「親への感謝の強制」があったとすれば

ヴィクトリア朝においては
(コドモを、労働力の一部とみなすのではなく
特に裕福な層において「コドモらしい子供時代」を
与えられる資金力が生まれた時代でもあったはずなので)
「幸福な家庭」というおとぎ話・理想に沿う形で
「強制的に無垢で可愛くてお利口な存在」
を押し付けられる、という事実はあったのかもしれません。

「家庭の一員として一定の服従を求められる」
(その延長として、親が娘に結婚相手の属性を強要する
などの縛りは強くあったはずです、特にビクトリア朝時代。
   例:映画ミス・ポターで
     絵本作家ビアトリクス・ポターは、親の支配を
     とにかく早く脱したい、と思っているキャラ設定)

まとめ
昭和「親への感謝の強制」
ヴィクトリア朝「家族の一員として服従を求める」
    ※家族の属する「階級」に見合った生活様式や行動
     マナー・口答えしないなど


そこに「親への感謝の強制」はあったのかなぁ?
これは、宿題って感じですかね。
もう少し考えてみます。

ありがとうございました。


ではまた明日!


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