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こんな偶然ってあるんだ。亡き兄が繋いだドライカレー

Kさんとは新宿で待ち合わせた。話をするのはこれで三度目。一度目は電話、二度目は山口で初対面、そして今日。本来なら顔を合わせることもなかっただろうKさんと私が知り合ったのは、兄の死がきっかけだ。

一度目に電話をしたのは、明日が葬儀というタイミングだった。兄の死は本当に本当に突然で、母から知らせを受けた私はわけもわからぬまま仕事を休んで帰郷した。母は終始ぼんやりし、父は沈み込み、お通夜に来てくれる人が泣きながら兄の話をするたびに、さすがにもう枯れただろうと思っていた涙をまた家族で流した。

上の兄だけが使命感で動いていて、私もしっかりせねばと思った。

私たちも知っていた兄の親友・アキラさんという女性に電話をすると、彼女は取るものも取りあえず、ご主人と一緒に駆けつけてくれた。アキラさんは泣きはらした顔をしていたが、うちに来てからは涙を見せず、母のかたわらで手助けしながらてきぱきと動いてくれた。

そのアキラさんが私に「これ、アツシが仲良かった人たちです。私が知っている人にはもう全部連絡してあるけど、この人たちは面識なくて。みんなから聞いたり、アツシの手帳からリストアップしました。たくさんあって、電話するのも大変だと思うけど、かおりちゃんも気が紛れるかも?」と、電話番号と名前を書いたメモを手渡してくれた。

その一番上に書いてあったのがKさんだった。

自分の気持ちの整理もつかないうちに兄の訃報を冷静に知らせることができるだろうか。私は憂鬱な気持ちのまま、「でも、最期のお別れをしてもらわないと」と気持ちを奮い立たせた。

Kさんは仕事中だったのかなかなかつかまらず、結局話せたのは夜になってからだった。

電話に出たKさんに、私がアツシの妹であることをまず伝えると、「え!あ、かおりさん? わー、あっちゃんがよく自慢の妹だって話してましたよ。どうしたんですか? あっちゃんも今、実家?」ととてつもなく明るい声が返ってきた。

ヤバイ。ダメだ。こんなのムリ。

耐えきれずに私は泣き出してしまい、Kさんをひとしきり混乱させた後で、なんとか呼吸を整えて兄が亡くなったことを絞り出すように伝えた。

Kさんはしばらく沈黙した。「ちょっと信じられないんですが、わざわざ妹さんが電話をくれるんだから本当なんですよね」と言った後、また黙った。泣いているのが伝わってきた。

一刻置いて、「大変なときにご連絡をいただいてありがとうございます。あの、お父さんやお母さんは、大丈夫ですか?」と、ものすごい涙声でKさんは聞いてくれた。私はぼんやりと「東京にも親友がいる」と兄が話していたのを思い出していた。きっとこの人がそうなんだ。

告別式には、あの辺りには珍しいほどの雪が降った。東京から、大阪から、広島から、福岡から、かけつけてくださった兄のお友達に「雪の中、ありがとうございます」と声をかけると、「からっと晴れていると余計にあっちゃんを思い出すので、雪ぐらいが湿っぽくて、逆に気持ちが落ち着くねってさっきみんなで話してたんですよ。あっちゃんは夏生まれの晴れ男でしたもんね」と涙声で笑顔を見せてくれた。

Kさんは、私が電話をした翌朝一番の新幹線で来てくれた。雪のせいで少し遅れたそうで、あまりゆっくり話すこともできず、お互いに泣きはらした目で挨拶をかわした。


新宿での待ちあわせは、Kさんからの指定だった。聞けば、兄と知り合ったのも新宿で、よく飲みに来たりもしたという。

兄は高校を出た後、大阪の辻調理師専門学校に進んで料理人になった。大阪で働き、東京で働き、その後実家の近くである広島に住み、あと数年もすれば自分で店を持つというタイミングだった。東京時代に知り合ったKさんとは、兄が広島に移ってからも途切れることなく親交が続いていたという。

喫茶店でコーヒーを飲みながら「Kさんも飲食の方なんですか?」と聞くと、「いえ、僕はしがないサラリーマンですよ。僕とあっちゃんが知り合ったのは、すごいマニアックな人ばかりが来るペットショップなんです」と笑った。

マニアックなペットショップ。あっちゃんが行きそうだわ、と容易に想像できて、私も笑った。兄は本当に動物が好きで、小さい頃に父が生きたうなぎをもらって帰り、さばいて食べようという話をしていたら「イヤだ、飼いたい」と、使っていなかった洗濯機に水をためて大切に飼っていたりした。ペットショップで「よく噛みつくんで売れないんです」と売れ残っていた小桜いんこを安く譲ってもらい、完璧な手乗りいんこに育てたのも兄だ。

仕事の時間が不規則だから犬や猫はかわいそうで飼えないと、忙しいくせに突然実家に戻ってきては、実家の犬と猫をひとしきりかわいがり、「じゃ、戻るわ」と帰って行くことがよくあったと母が話していた。そのかわり、兄は「自分がいなくてもさみしがらない動物」を飼って、とてもかわいがっていた。

「あっちゃんのペットたち、どうしようか。水槽2つ分ぐらいはお父さんが面倒見られるけど、素人では飼育が難しいコたちもいそうよね」と家族で頭を悩ませていたのだが、それを解決してくれたのもKさんだった。

「もしご両親さえよかったら、あの古代魚や熱帯魚たちは、ちゃんとかわいがってくれる責任感と知識があるあっちゃんの仲間にもらってもらえるよう、僕が手配します。そして、僕はエボをもらってもいいですか?」とKさんは言った。エボというのは、エボシカメレオン。「エボ、とてもかわいいんですよ」というKさんは、にんまりとうれしそうだった。エボにとってもKさんに飼ってもらうのが一番いいな、と迷わずお願いした。

兄がどんなにいいヤツだったか、自分がどれだけ励まされたか、Kさんはたくさんのエピソードと一緒に語ってくれた。「いつか自分も広島に引っ越してあっちゃんの店で働くのが夢だった」とまで言ってくれて、私はそんな親友が兄にいたことがありがたく、ただただKさんに感謝するしかなかった。

兄は私のことをよく褒めてくれた。ときには褒められるほうが気恥ずかしくなるようなストレートな言い方で。でもそれは私だけではなく、母のことも父のことも上の兄のことも、事あるごとに褒めていた。Kさんも「僕、よく褒めてもらって。自分、今ダメだなぁ、と思うとあっちゃんに電話してましたよ」と笑っていた。

もちろん、兄は聖人君子ではない。中学時代は田舎独特の「ちょっとワル」な感じで、勉強なんてせず、音楽ばかり聴いていた。部屋でタバコを吸っていたのもバレバレだった。高校には行かずに独立したい、と心配性の母を奈落の底に突き落とすような発言もしたが、なぜか先生には愛されていたので当時の担任に熱心に説得され、受験をし、高校だけは卒業した。

料理学校を卒業した頃、「俺は3人きょうだいの中でお母さんたちを一番心配させた」と話していて、「確かに。間違いないね、それは」と私は笑った。でも同時に、母や父を一番笑わせたのも間違いなく兄だ。褒める、笑わせる。上の兄と私にはない独特の性質を、あっちゃんは持っていた。

*上の兄と私がパニクったとき、あっちゃんが笑いで解決してくれたエピソード↓ よかったらこちらもご一読ください。


Kさんとは喫茶店で2時間ほど話をした。私が知らない兄の素顔をたくさん教えてもらい、今はもう居ない兄が、逆に以前より近しくなったような気もした。

同時に、私は大人になったあっちゃんのことあまり知らなかったんだなぁ。共通の趣味とか、通じ合える好きなものとか、じつはあっただろうに、何も話さなかったなぁ。と痛感した。これから先、一緒に飲みに行ったりもして、そういう話ができたのかもしれないけれど、今となっては。

悔いても仕方ないけれど、やはり後悔せざるを得なかった。

そんな気持ちを救ってくれたのも、Kさんだった。

私の落ち込みなんて伝わっていないだろうし、救うつもりもなかったはずだが、Kさんが帰り際に教えてくれたひとつの情報が私を結果的に救ってくれたのだ。

「そうそう、新宿であっちゃんとよく行った店があるんですよ。ドライカレーがすごいおいしくて。あっちゃん、いつか自分の店を持つようになったら、あの店のようなうまいドライカレーを出すバーにしたいって。あっちゃん、料理はもちろんですけど、お酒も大好きで、詳しかったですからね。で、それだったら俺もその店手伝うわぁってよく話してたんです」

Kさんが教えてくれた店の名に、私は聞き覚えがあった。いや、聞き覚えどころか、「新宿でドライカレーがうまい? それってもしかして・・・」と話の途中で予感があった。

その予感は的中した。カフェハイチ。兄が何度も通ったというその店は、私にとってもお気に入りで、ドライカレーとハイチコーヒーをよく頼んだ。本当に何度も、あのドライカレーを食べた。

Kさんと別れてから、私はカフェハイチに寄った。その頃は新宿に行くことがあまりなくなっていて、しばらくぶりのドライカレー。

もともとおいしいなぁと思っていたけれど、その日の味は格別だった。入店するとき、「食べながら泣いちゃったらどうしようかな」とひそかに心配していたのだが、食べながらむしろ頬が緩むのを感じていた。鼻の奥がツーンとして、涙の予感はなくもなかったが、「はぁ、やっぱりおいしいわぁ」と思わず独り言を言ったあとは、なんだか元気がみなぎる感じがした。

あっちゃんもこの味が好きだったんだ。死なずにバーをできてたら、間違いなくすごーくおいしいドライカレーを作っていただろうねぇ。

そんな風に思っても、もう不思議と鼻の奥はツーンとせず、「まったくもう、なんで死んじゃってんのよ、そんなに早く」と心の中でつっこむことができた。以前のボケとツッコミのきょうだい関係(ツッコミ役が私だった)をようやく思い出していた。

たったひと皿のドライカレーだけど、生きていた兄を満足させ、それを知らずに食べていた私のことも唸らせていた。それだけでも、私たちきょうだいは幸せをもらっていたし、知らないところでつながっていたのだ。「このドライカレーがあってよかったな」と感謝したい気持ちになった。

私はそのドライカレーを食べきって、間違いなく元気をもらっていた。


***

そんなカフェハイチのドライカレーを思い出しながら、わが家流のドライカレーレシピを開発しました。

そのときの思い出はこちら↓

この記事には兄のことは書いていませんが、心の中ではもちろん思い出していました。なにしろ兄はプロの料理人でしたから。ダメ出しされるかな?なんて思いながら。

でもきっと、もしも本当に兄が私のドライカレーを食べたとしたら、「これ、お店のよりおいしいよ。おまえ、もしかして天才?」とほめてくれたに違いありません。「おまえ、もしかして天才?」は兄の口グセのひとつでしたw


#元気をもらったあの食事

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