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人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの

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ゲラン「ジッキー」

香水沼に足を取られる前から、GuerlainとCHANELは特別な存在として名前を知っていて、いつか付けこなせる人になることが「素敵な大人」になることの条件のひとつだった。 初めて付けたGuerlainは「ランスタンマジー」。 いつどこでだったかは忘れたけれど、偶々手に入れたその香水は、ほんわりとパウダリーな香りが幼い頃親が付けてくれた日焼け止めの香りに似ている(!)という印象だった。そんな出会い方をしたけれど、一時はお風呂上がりのコロン代わりにする香りのひとつにするほど

    • ワーグナー《タンホイザー》

      久々のワーグナーオペラは《タンホイザー》。 「ワーグナーといえば」な女性による救出は女性が観ると複雑な気分にはなる。しかし、欲望・熱情と宗教的な純潔の狭間で苦しむハインリッヒの揺らぎはわからなくもない。 また、チラチラとプラトンの『饗宴』やオルフェウス神話を連想したのは私の考え過ぎなのか一般的な解釈なのか…。ワーグナーは神話や民話を組み合わせて物語をつくることが多々あるため、あながち考え過ぎでもないのだろうか。 ヴォルフガング・ワーグナーの演出は、ヴェーヌスベルクの妖しく

      • ショスタコーヴィチ《ムチェンスク郡のマクベス夫人》

        こんなに不愉快になるオペラは久しぶりだ。しかし、見終わったあとの心にずっしりときつつも爽快な気分になるある種の「カタルシス」感は、《アイーダ》や《リゴレット》など、私が名作と考えているものを観たあとのそれと同類のものだった。 印象に残ったのは、ジノーヴィ殺害後のセックスシーン、意図的な音楽堂と物語のズレ、そしてマリス・ヤンソンスの楽しげな指揮。 ジノーヴィ殺害後のシーンは、「見つかってはまずい」というドキドキが愛情のドキドキを強めているのだと感じる。よく愛と死はセットで語

        • マスネ《ウェルテル》

          《こうもり》に引き続き、ウィーン国立歌劇場ライブ映像の《ウェルテル》。 影が強い。《こうもり》とは対照的に、ところどころに散りばめられた「明るさ」「幸福感」が鬱々とした影に飲み込まれていくような印象を受ける。 特に、若々しく光あふれるソフィーの歌う「幸せ」がウェルテルには届かずに漂っていくところや、最初は驚いたアメリカンな服装と水着姿の子どものポップさが、不穏さを醸し出している。後者に関しては、ポップアートから感じる不穏さと似ているかもしれない。 《ウェルテル》に限った話

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          アンドレイ・タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』

          タルコフスキーは、授業で『ローラーとヴァイオリン』を観て以来お気に入りの映画監督。 全体としては争いや異端の追放などを扱うストーリーのメッセージ性が強い。私がタルコフスキーが好きな理由である、芸術作品や象徴的モチーフなどを効果的に使った状況描写や、現実世界からいきなりトリップする水や鏡が際立つ非現実的世界の描写は、ストーリーと比較すると弱く見える。強いてタルコフスキー作品をグルーピングするならば、社会的メッセージ性の強い『僕の村は戦場だった』などと同じグループに入れたくなる

          アンドレイ・タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』

          ヨハン・シュトラウス《こうもり》

          ウィーン国立歌劇場ライブ映像の《こうもり》。オペレッタは初めて。 陽気で華やかで楽しいオペレッタなのだが、どこか影があるように思う。影があるからこそ「嫌なことを忘れて」「お酒を飲んで」陽気に楽しくいこうという印象すら受ける。 アイゼンシュタインが刑務所ではなく仮面舞踏会へ向かう前のロザリンデ、アデーレとの合唱や、ロザリンデがアイゼンシュタインを突き放しながらも許してシャンパン最高!と歌う(表現に語弊があるかもしれない)エンディングなどは特にその印象が強い。 とはいえ、そう

          ヨハン・シュトラウス《こうもり》

          リヒャルト・シュトラウス《ばらの騎士》

          オペラ、R・シュトラウスの《ばらの騎士》。最近はイタリアのオペラをよく観ていたから、ドイツオペラは新鮮。 若い男性と女性が結ばれる話、と片付けてしまうこともできるのかもしれない。しかし、そういった若さや甘さ、華やかさよりも、老いや闇を強く感じる作品だった。 闇と言っても、感傷的に気分が沈みこむわけではない。ところどころに笑いが混じっている。それがより闇を強調しているとも言えるかもしれない。 例えば、自信過剰なオックス男爵や人にどう見られるかばかり気にするファニナルからは、

          リヒャルト・シュトラウス《ばらの騎士》

          モンテヴェルディ《ポッペアの戴冠》

          昔はオペラの愛や運命を歌う「暑苦しさ」が苦手だった。しかし、近くの図書館にオペラのDVDが複数揃っており、せっかくだからと観始めてから、次第にオペラが好きになった。 好きになると「それがどこから来たのか」が気になってしまう。だから、オペラの歴史の中でも初期の部類に入るモンテヴェルディ《ポッペアの戴冠》を観た。 私なりにこの作品の特徴を一言で表すならば、それは「複数の共存」だと思う。 まず、この映像では男性役を女性が歌っていたり、女性役を男性が歌っていたりする。例えば、元

          モンテヴェルディ《ポッペアの戴冠》