生まれてきてしまったものはしょうがない

「産んでくれと頼んだ覚えはない。」と思春期の子供はよく叫ぶ。本当にその通りだ。勝手に産んできたくせに、家庭のルールを守れないだとか、親への感謝が足りないだとかあまりにも自己中な理由で怒られたりする。子供に親は選べない。親も子供は選べないが、自分たちの子供なのだから、おおよその見当はつけておいてほしい。私の父親はメディアに出たり、本を書いていたりする私に対して「政治学者の三浦瑠璃さんみたいになってほしい」というが、よく考えてから物を言ってほしい。お前の子だぞ。ソシャゲのガチャなら憤死して消費者庁に文句の電話をかけていたんだろうなと思う。

私は勉強もできなければ、情緒は不安定だし、容姿も悪い。その上、音痴だとかダーツが下手だとかいいだしたらきりがない。

容姿が優れない女性ならかなりの確率で起きるだろう母親に「なんでこんな顔に産んだの」と愚図るイベント。もちろん、私も通過済みである。でも、最近は生まれてしまったものはしょうがないなあと思っている。

人間は心だなんて言うつもりはない。そんなものは綺麗事だ。今まで私が出会ってきた美人の中に心優しく、さらには話まで面白いなんてやつもざらにいた。だからこそ諦めるしかないのだ。

私は進化の過程で所謂イケメンに全く興味を示さず、同じ生き物として認識しない生き物になったので、120kg越えの巨漢のインナービューティーを見出したりして、いたって平和に暮らしているが、パッとしない容姿に生まれた女の中にもどうしてもイケメンが諦められない人もいるだろう。イケメンで、できれば高学歴で優しくてと望んでしまう人もいるだろう。本当は将来、アイドルやモデルになりたいと望む人だっているだろう。高望みだとか分不相応だとか言われようが、その気持ちは絶対にバカにされてはいけないものだと思う。だって、美人が美しいのもブスが醜いのもそうやって生まれてきてしまったんだからしょうがないという他ないから。中身に大きな違いがあるわけじゃなくて、生まれてくるときにランダムで渡された衣装がPRADAかドンキかの違いなんだもん。

容姿のことを言い出すと必ずと言っていいほど、「そんなこと言ってるくらいなら美容院でもいけばいいのに」とか「可愛い人は相応に努力してる」とか訳知り顔で言い出すやつが湧いてくる。そんなやつは一回目は口頭で注意してそれでもわからなかったら優しめに殴ってやれ。

本当に成果のない努力を自慢するのは恥ずかしいのだけれど、私は3万のストパーをかけた、コスメフリークでかなり化粧の上手い女だ。私の顔は否定してもいいけれど、私の努力と技術力だけは褒めてほしい。ここで褒めなかったら、あと褒めるところないから。

脱線して長くなってしまったけれど、何度でも言いたい。ある程度しょうがないと割り切って生きることは本当に大事なことだと思う。初期パラメータが違い過ぎるんだから、人生にどうしようもない理不尽なことがあふれているなんて当然なんだ。ゲームだったらバグだらけで販売中止になって、後に一部界隈でカルト的人気を誇るようなソフトになったと思う。

私はまだ22年しか生きていないけれど、どうしようもないようなやつが取り立てられたり、どうしようもないところで揚げ足をとられたり、本当に理不尽なバグの連続で私の人生ひとつもいいことがねえと叫ぶ夜もある。私自身がどこかの誰かにそのどうしようもないのに取り立てられてるやつだと思われていることだってあるだろう。望んでいた勧善懲悪のストーリーなんてどこにもない。

「しょうがない」と思えずに理想郷のような完璧な人生を求めては、足りないものに苦しんでいる知人友人は多くいる。むしろ、明確に足りないものをリストアップできるような多くの物に恵まれている人だったりする。いっそ私くらい足りないものが多すぎると、ハンバーグを作ろうとしてたけど、ひき肉も玉ねぎも買い忘れたから今日はおにぎりで!みたいに諦められるのだけれど、卵だけ忘れたとかだとなんとか完全なハンバーグを作れるんじゃないかと思い、諦められなくなってしまうのかもしれない。

私の親しい友人にとにかく完璧じゃない人生を受け入れられない人がいる。それはその人個人のメンタリティーだけの問題じゃなくて、周りの環境とかたくさんの要因があるのだろうけれど、他人から見た完璧な人生に極端に固執し、実際、途中までは順調に理想通りの人生を歩んでいた。けれど、ある日、「どうしようもない」がやってきて、レールから足を踏み外した。それ以来何年にもわたって彼女は死にたがっている。それはもう毎日のように死にたがってたくさんあったはずのアイデンティティーを死にたいという言葉に食われている。

いい学校にいったり、いい企業で仕事をするのは数ある人生のうちのほんの一つのパターンで会って決してそれが正解というわけではない。

もしそれができなかったからと言ってそれは間違えた人生ではない。

真っ当な異性と相思相愛で結婚して子供をもうけて暮らすのは誰かにとっての正解の一つではあると思うんだけど、そうじゃないからといって不正解じゃない。

責任といえば、切腹することだった時代があるように世間的な「正しい」さえも割と流動的だ。緻密に組んだ人生設計なんて、台風のような「どうしようもない」事柄の前には塵のように無力な存在である。

「どうしようもない」ことが多すぎるから「しょうがない」と思って生きるしかない。全ての理不尽にしょうがないと思って耐えるばかりが人生かというとそうでもなくて、他の対策もあるにはあるらしい。私は最近一つだけ隠しコマンドに気付いた。

持たざる者は最初から頑張るだけ無駄と思う人もいるかもしれない。自分の力じゃどうしようもできないことばかりだからこそ、より一層頑張ることに確実な価値が生まれると思う。

努力は報われるか分からないが、成功したやつはみんな努力をしている。とよく聞く事がある。あれは嘘だと思う。浅薄なパフォーマンスで動物好きをアピールして生物に関わるいくつかの法律を破っているようなやつがそれをアピールポイントにして奨学金を手にするのをこの目で見た事がある。ちなみに私は落ちた。

ただ、努力していれば、自分自身に言い訳ができる。人事を尽くして天命を待つのだ。報われるか報われないかなんてそもそも我々が殆ど介入できない事象である。頑張っていれば、報われなかったことを自分のせいではない、他の要因のせいにできる。頑張ったけど、こればっかりはね…と全力で善き人生を生きたように見せられるのだ。前述の可愛くなるために努力すればいいのにと言ってくるような奴を蹴散らせる。例え、聡明さ故に努力する前からこのブスはどうしようもないなと分かっていて効率化のために努力を省いたとて、ただの怠惰のせいと揚げ足を取られる可能性があるのだ。それはあまりにも忍びない話ではないか。

努力というと圧が強い言葉だけど、自分の信念を損なわずに生きるということもひとつの努力だと思う。学歴とか経歴みたいな付属パーツじゃなくて、もっと太くてぶれない芯のようなものがいい。

すごく耳障りのいい事を言ってしまったけれど、短期的なメリットで分かりやすくいうと嫌いな奴と同じことをしさえしなければ、そいつが運よく報われて世の中で取り立てられたりした時に正義面してめちゃくちゃ悪口を言う事が可能であるということだ。そして、なんとなく勝った気分になる。是非、ご活用いただきたい。

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