見出し画像

何者かになりたい症候群が寛解した話

何者かになるよりずっと大事なこと

最初から何者かになることなんかに執着しない人が大勢いることは重々承知している
長いこと気付くことができなかった若輩者の記録としてふうんと笑ってほしい

noteと出会って割と相性がよかった私はそれなりに長い間文章を書き続けることができるようになった。日記もブログもすぐに忘れては書き始めを繰り返していたから無理なく続けられるプラットフォームに出会ってよかったなと進研ゼミの広告のように思っている
たくさん文章を書いているうちに何者かになりたいという気持ちが消え失せていることに気付いた

昔の文章を読む限り、間違いなく私にも何者かになりたいという願望はあったはずなのに丸ごと心の箱をひっくりかえしてトントン叩いたってカケラも落ちてこない
それと同時に消えた気持ちがある

同じく何者かになりたがるも努力も才能もまるで足りずに飽きっぽく色んなものに飛びついては忘れ去って志もなく聞こえの良い大きな目標だけを口にするワナビーへの優越感を含んだ蔑みである

ここまで憎しみがこもった表現をできるのだから本当はそんな気持ちが残っているのではないかと思われても仕方ないだろうが、本当に一切なくなったのだ。信じてほしい
世界の中の一つの属性をまた一つ愛することができるようになった
勝手に憎んで勝手に愛し始めてさぞ不快だろうが、害はないので安心してほしい

改めて「何者かになりたい」という願望について定義しよう
この「何者」とは周りから抜きん出た才能(特にクリエイティブ方向が多い)で社会から認められ、特別な存在として一目置かれてその才能をもってしてお金を稼ぐ
恐らくここまでは共通しているだろう
あとはファンに信奉されるとか書店に自分の名前が入った本が平積みされるとかテレビでしか見たことがないような人達に君付けされたりしてSNSの写真に上がるとか人それぞれ想像することは違うだろう
「何者かになりたい」とは、他の奴とは違う自分を可視化したいという没個性極まりない願望のことだ

昔の記録を見る限り、私はこんな陳腐な気持ちを持っていたらしい。昔の文章は大切だ。記憶力の悪い私たちは過去の自分との連続性を忘れて最初からこういう人間だったと思ってしまう。
この前、かつて未成年淫行で逮捕された知り合いの配信主がyoutubrとして他の同業者を告発する配信を売りにして正義を語っているインタビューを見た。ほら、人はこんなにも色んなことを忘れてしまう。勿論、過去の過ちがその人の全てではないけれど

高校生の私から未来の私へ向けた手紙をときおり取り出して見る
数学ができないけれど、生物が大好きだった私は「やはり私は昆虫が好きです。愛しています。だから向いていなくても理系を目指したい。生物系の学部にさえ進めれば何とかなるような気がしています。」と未来の私に訴えてくる。
我が過去ながらすごいと思う。何とかなったみたいだ。
16歳の私へ。学部では昆虫の研究をしたよ。ラットという昆虫くらい素敵な生き物と出会ったから今は大学院でラットの研究をしているよ。
残念ながら15歳の私からの手紙の「私は早ければあと3年、遅くともあと5年の間には大人になってしまう。だから子供の私を書き留めておきたい」という予想は外れた。24歳なのに大人という自覚は驚くほど芽生えていない。不甲斐ない話である。
未来の私へ。流石にあと3年、遅くとも5年後には大人になっているよね?

だいぶ話が横道に逸れてしまったが、かつてたくさんの満たされない悔しさを抱えて何者かになって力を渇望していたはずの今の私は心底何者にもならなくていいと思っている。
私の手元には何も残らなくていいとすら思う。大金もブランドも地位も名誉も。
支え合える信頼のできる人達と何かを面白がる気持ちと考え続ける誠実さとそれら全てを保つことができるだけのお金があればいい。

それだけのことでものすごく楽になった
楽になったことでずっと勝たなければいけないと思い込んで苦しかったことに気づいた。容姿も良くない、勉強もできない、色んなことができない弱い属性の私はそれしか幸せになれないと思っていた
走る必要のない道を幸せになるために必須のレースだと思い込んで成果を出しても加速するばかりの焦燥感に雁字搦めになっていたのだ

でも、創作は続けたいという気持ちはむしろ増している。メディアの形が多様になった今、音楽家、芸術家、作家、漫画家、タレントといった昔からのものに加えてインスタグラマーやyoutuberなど新しい何者職も日々増えている。
私はその中でも作家になりたかった。今取り組んでいるタレント業は望んで始めたものではあるけれど、本当は少し不本意だった。本を書くための一歩だと言い聞かせて苦手だけどやろうと腹を決めていた。あくまで陰気な私の性格によるものなのでタレントという仕事への反感があるわけではない。
何者にもならなくなった今も作家になりたい。そして今のところタレントも思ったより悪くないなと思っている。

何者にもならなくていいけど、何かいいものを残したいと思うからだ。
世界に優しいものが一つ増えたらいいと願っている。辛い人の辛い一日を乗り越えるために抱きしめるクッションが一つでも残ったらいいなと思う。

根暗な私は人前で話すことでそれができると思っていなかったけれど、それなりに仕事を任せてもらうということはもしかしたら意外と苦手じゃないのかもしれない
本とテレビで伝わる層は違うから両方から攻めるのは戦略として悪くないから頑張って行こうと思う

「何者かになる」という曖昧な願望に感じていた違和感は「何者でもよかった」ことなのかもしれない。何者かであるという評価は自分がどう思われるかに過ぎない。運良くゴールした後に残るのは虚無感だけだ。悲しいけれど、何者かだと思われることは不誠実に目立つことでもたどり着けてしまうし、それが目的であってはいけない

私が今いいと思っているものが正しい保証なんてない
同じように何かいいものを残したいと思い活動している人と私の考えているいいものが違うことなんてザラにある
私の方が正しいなんて言えない
私は、他者の無意味で身勝手な査定に苦しむ人がいなくなればいいと思う
それぞれの命が尊重され自らの多様性という美しさを愛すことが容易になる社会の一助となりたい
まだ魅力の伝わりきっていない色々なものの面白さを伝えていきたい
跳梁跋扈している誰かを傷つけるような不誠実さに怒り続けたい
そして、私自身がだれかに貼って剥がせずにいるレッテルを一つずつ剥がして行けるよう考え続けて行きたい

**私は何者でもないただの篠原かをりだけど、だからこそ書き続けていく **

この記事が参加している募集

noteでよかったこと

note感想文

いただいたサポートは今後の活動の糧になるように大切に使わせていただきます。