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何者かにならなきゃ症候群

何者かにならなきゃいけないと思い込んでる若者たちを一つの壺に放り込んで共食いさせて、残った者が神霊となるワナビー蠱毒が社会のいたるところにある。
ネットの世界を一歩踏み出すと自意識をこじらせて文芸でも音楽でも様々なものをつまみ食いして、これでもないあれでもないと自分の居場所を探しては亡霊たちが彷徨いている。

かつて私も何者かにならなければいけないと強く思っている若者の一人だった。物心ついたときからずっとそうだったから若者はみんな自分をなんらかの才能を持った何者かだと思い込んで、それを他人にも認めてもらうために必死になっていると思っていて、何者かになることを目指していない人が大半だって知った時には驚いた。

何者かにならなくても十分満ち足りていて、誰に勝たなくても幸せだってもっと早く教えてくれればよかったのに。

最初から何者かになる必要に追われない人もたくさんいたけど、何者信仰がこれほどまでに蔓延するくらいには何者信者たちは溢れている。

人がこれほどまでに追い求める何者とは一体なんなのだろうか。明確な姿を思い浮かべられる人は少ないだろう。明確に思い描けるものは夢だからだ。何者信者はなれるものならなんだっていい。小説だって詩だって音楽だって映像だって。最近だとユーチューバーなんかもすっかりこの何者職の一つだ。

何か伝えたいことがあるわけでも作りたいものがあるわけでもないのだ。何者信者にとって必要なのは、自分に才能があって他の有象無象どもとは違う才能がある確証。そして、それを他人に見せられる形にすることである。要するに才能手形だ。

私が何者かにならなければいけないと思い込んでいた理由は考察するまでもなく浅薄なものだ。
悔しい思いをしてきたのだ。

ブスだったから、男に馬鹿にされてきた。勉強ができないから、学校に馬鹿にされてきた。私の価値は周りの子よりずっと安く見積もられてきた。他人にとってはただの足りない女でも、私にとっては掛け替えのない大切な自分だったのに、私の市場価格はとても安かった。
だから、私に低い値をつけたやつに何者かになって、お前よりずっとずっと価値のある人間だって才能手形を投げつけて一回ぶん殴ってやりたかった。
本当はただぶん殴ればいいだけの話だったのに、才能手形がないとぶん殴るのが怖かった。

似たような道を辿って何者かにならなきゃ症候群に罹患した人は少なくないと思う。馬鹿にされた度合いは違っても、自分の待遇に100%満足できる人はほんの一握りの幸福な人だ。

私の周りにも何者かになりたがる人が多くいる。多くは同じくらいの年だけど、中には年齢を詐称して何者かにならなきゃ症候群を拗らせている人もいる。何故、年齢をごまかす人がいるのかというと可能性だ。若さには可能性がある。遅咲きの花なんて探せばいくらでもあるけれど、年をとって就職や結婚を経るとある程度答え合わせがある。人生に正解はないし、どんでん返しだっていくらでも起きるから各予備校が解答速報を出すようなものに過ぎないけれど。年をとるごとにこの先、自分がどんな人生を送ることになるか大まかに予想がつくようになってくるのだ。だから、何者かにならなければ症候群は高校生から大学生と比較的若年層での罹患が多い。

私は20歳で本を出して以来23歳までに自分名義の本を5冊出して、書き仕事もメディア仕事も結構こなしてきた。身の回りの患者の中では、唯一何者っぽくなった人間だと思う。運良く希望が満たされてわかったことはこの病は百害あって一利なしということだ。

何故か患者たちはクリエイティブな仕事こそが何者かに必要だと勝手に思い込んでいるが、全く関係はない。今の仕事を天職だと信じ愛しているけれど、実際についてみるとただの仕事の一つにすぎないことがわかった。ただ人数が少ないだけだ。

何者かにならなければ満たされない気持ちは、選ばれて勝ち続けることでしか救われない訳が無い。そんな少ない人しか救われない訳が無い。何者かにならなきゃ症候群は、何者でもない自分を愛せるようになることでしか治癒しない。

小さい頃、母親に勧められて「たいせつなきみ」という絵本を読んだ。木彫りの人形の国が舞台で彼らはお互いにシールを貼りあって生きている。いいなと思った人形には金ぴかシール。ダメだなと思った人形には鈍い色のダメ印シールを貼った。ダメ印シールばかり貼られていた人形はある日、ダメ印シールも金ピカシールも貼れない不思議な人形に出会う。
ざっとこんな話だ。ぜひ、読んで欲しい。小さい頃読んだ感想は「よく分からない」だった。ダメ印シールはない方がいいけど、金ぴかシールは貼られてもいいんじゃないの?と思っていた。

23歳になってようやく分かったのは、他者からの評価に依存すると幸せはとても不安定なものになるということだ。幸せは自分の中だけで完結しなければならない。

他者にダメ印シールをつけられて悔しい思いをしていた頃、大出世してもっと多くの人に金ピカシールを貼ってもらわなければいけないと思っていた。でも、今は違う。エッセイが評価されている私が良いんじゃなくて、傷ついて傷ついた挙句、自分の考えを言語化できるようになった私が良いのだ。他者の評価に依存した幸せは、評価され続けなければいけないと怯えて暮らすことになる。次から次へと新しい才能は生まれて来るし、あまりにコスパの悪い執着だと思う。一方、評価者が自分であれば、自分のしたいようにすれば良いだけだから永遠に幸せであり続けることができる。

勝手に値踏みされただけで私の価値が消えたわけじゃない、そう分かっていたからこそ自信を失うことなく金ピカシールを目指したはずなのに、私はいつの間にか自分の価値を見失ってしまっていた。

何者でもない自分を愛することは諦めではない。最初からずっと変わらない自分自身の価値をもう一度信じることである。23年も生きてきたけれど、まだ23歳なのでこれからもなんども悔しい思いをするだろう。また、他者に評価されることでしか自分を保てない日が来るかも知れない。それでも、やっと見つけた何者でもない自分自身を絶対に手放したくないと思う。

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