私はただ「可愛くない」だけ

私はただ「可愛くない」だけ

「ブス」
年頃の女性に投げかけるのにこれ以上不適切な言葉があるだろうか。

私は小中高とお嬢様女子校(可愛い)で育ち、サラサラの黒髪と美肌(可愛い)を持ち、慶應義塾大学(可愛い)で本の執筆(可愛い)をしているブスだ。
それまでにどれだけの可愛いを積み重ねても本体がブスであるだけで食べることができない毒物と化してしまう。
極上の大トロを泥水の中にぶちまけてしまった悲哀がそこにはある。

ブス、倫理観のかけらもないこの2文字は大量虐殺兵器ばりの破壊力をもって若き乙女の心を粉砕する。人道的な理由から禁止がなされる日が待たれる。
どんな理由があろうと使用してはならない。
たとえ、黒目が極小のひどい三白眼であっても、鼻が団子鼻であっても、どんなに僧帽筋がモリモリであってもだ。

私は21年間の人生で平均値よりかなり多くのこれらの言葉を投げかけられてきた。
正確には6年ほどである。女子校で育った私はそんな心ない言葉から無縁の生活を送ることができていた。
私が「ブス」の烙印を押されるようになったのは私の人生がXY染色体と交わってからである。
高校生クイズに美人姉妹と3人チームで出場した時に男女の世界の真理を知った。私自身、自分が大凡「可愛い」には括られないことくらいには気がついていたが、それがまさか批判の対象になるなんて思ってもいなかったのだ。親には絶対にネットで私の名前を調べるなと懇願した。

「ブス」と「可愛い子」の間に一体どんな違いがあるというのだろう。
もし、これが腕力のある女が求められるシンプルな世界であれば納得もいっただろう。腕力のある遺伝子と掛け合わせれば、将来強い子供が生まれる確率があがるからだ。
ブスと可愛い子でいうと、種類にもよるがどちらかというとブスの方が生命力に溢れ、体力的には強そうな傾向にあるというのになぜなのだろうか。

私の疑問の答えは生物学ですでに提唱されていた。
過去記事でも取り扱ったランナウェイ仮説だ。
その形質が生存に有利か否かは関係なく、モテる形質をもった個体がモテるのだ。大きな黒目も細く通った鼻筋も華奢な体格も何一つ生存に有利に働くわけではないが、それがモテる形質として集団内で認知されている以上、その遺伝子を受継げば、次世代もモテる形質を受け継ぐ可能性が高く、結果的に遺伝子を残しやすくなるのだ。
私の遺伝子が今、まさに淘汰されようとしていると気が付いた時の絶望は初めてブスと言われた時の比ではなかった。
しかし、遺伝子の乗り物である人間が自分の遺伝子を残すために可愛い子を求めてしまうのは自然の摂理である。私が可愛くないのも遺伝子のちょっとしたいたずらにすぎない。この時点では加害者はどこにも存在していないのだ。

問題はブスを糾弾してもよいという風潮だ。
「ブス」という響きがまず殺しにかかっていると思う。容姿の悪さを形容する以外に使われるとしたら、鋭い刃物を突き刺す時の効果音のみだ。響きだけで凶器なのである。しかし、「ブス」の代わりに「ふわふわ」とか呼ばれたらもっと腹が立つと思うから「ブス」はせめてブスのままでお願いしたい。
でも、「アヴァンギャルド」などなら中々悪くないと思う。ブスじゃなくてちょっと顔がアヴァンギャルドなだけ。今は少し前衛的だが、理解できないお前らが悪い。いつか評価された時には土下座を強要したい。

そもそも「可愛い」の対義語として「ブス」は本当に必要なのだろうか。「可愛い」だけで十分成り立つ概念なのに、なぜ、あえて可愛くない状態を「ブス」と形容し始めたのか、ブスという言葉を生み出した人間を小一時間問い詰めたい。しかも、ブスの語源は猛毒植物のトリカブトである。ブスは毒物とでもいいたいのか。

可愛い子がいるのは認める。可愛い子が好かれるのも認める。

しかし、ブスをブスと呼ぶことは絶対に許さない。ただただ可愛くないだけなのだ。同じ顔ばかりだったら美人の輝きも失せるというもの。私の同学年にあたる芸能人でいえば、川島海荷さんや渡辺麻友さんが存在するが、彼女たちが可愛くあるための礎として私は誇りをもって可愛くない女としての人生を送っているのだ。感謝こそされても批判される筋合いなんてこれっぽっちもないのだ。

私がどれだけ声を張り上げてもブスを取り巻く環境は少なくとも私の生きている間には改善されないだろう。
だから、もし、私と同じように自分が可愛くないことに悩んでいる人がいたら、競技を変えてみることをおすすめする。テニスでは全然芽が出なかったけれど、陶芸に鞍替えした結果、類稀なる才能を発揮する可能性は十分にあるのだ。可愛いのフィールドでリンチされている女性は一旦降りてみるのも手だ。

どうか心無い他者の下す可愛い判定に踊らされて傷つき、自分自身を嫌いになることがないように。可愛いなんて意外と大したことがないんだ。若き乙女たちは可愛くないだけで人生が終わったように感じでしまうけれど、可愛い子は可愛い子で可愛さを持て余して大変さとメリットが釣り合ってるか怪しいくらいなんだ。
人を可愛いとか可愛くないで持て囃す輩が一体何をしてくれるのいうのだろう。
それよりも幹事が得意だとか折り紙が得意だとかそんなものでいいんだ。自分で愛すべき点があれば、愛す可しと読みくだして広義の可愛いにいれてしまえ。
あまりに大きな市場すぎてそれしか見えなくなってしまうことが多い「可愛い」だけど、他にいくらでも市場はある。

最近、私が注目しているのは「強い」市場である。年収が高ければ強い、権力があれば強い、口が達者なら強い、いろんな強いが混在しているが、あまりにも扱っている商品の幅が広い上に大抵後天的な努力で賄えるから、熾烈な争いを極めるレッドオーシャンに見えてまだまだ未発展のブルーオーシャンである。私はまだ絶対にブスといってきた男たちを許すつもりはない。強い年収で目潰しをくらわしたら許してやろうと思う。

そんな健気な恨みを持ち続けて、可愛いに未練たらたらな私を誰一人可愛いと評価してくれなくても私は私なりに可愛いと思う。

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