週末思想彼女

「ねえ、また一つ世界の真理に気付いたよ。」


朝起きて恋人からこんなLINEがきていたら、どうするか。スピリチュアルな何かに傾倒しているだけならまだマシな方であぶない終末思想をもつ宗教に入信したんじゃないかと思う。一人暮らしをしている娘から久々に送られてきたLINEがこれだったらどう思うか。確実に合法でない薬をやっているんだなと思うだろう。


残念なことにこのLINEを送ったのはまぎれもなく私である。


酔っていた訳でもなければ、スピリチュアルな感じになった訳でもないし、非合法なことはしたことがない。朝、文鳥の声で目覚めて、布団の中でじっと自分の気に食わない人について考えていたら、突如として、愛が芽生えてきたので誰かに伝えようとLINEをしたのだ。語れば語るほどドツボにはまっていく気がするが、本当にシャブはやっていないのである。noteのエッセイも毎回また世界の真理に気付いたと思って取り憑かれたように書いている。みんなとうに知っていることかもしれないが、私はほんの少し前に気付いたばかりのほやほやなのである。今回気付いたことはこれである。


世界でも有数の大切なことは他人を見下したり、馬鹿にしたりせず慈しむこと


私、実は今までこれに気付いていなかった。言い訳をさせてもらうと育った環境がいけ好かない金持ちキャラしかいない序盤で主人公の学校と対戦する敵チームみたいなところだったせいでナチュラルに人を見下すことを学んだのだ。小中高と続くお嬢様学校なので、エリートは7歳でマウンティングかますことができた。優しい子も普通の子もたくさんいたが、とにかく世間知らずに育った。似たような環境で育った人もどことなく同じ感覚をもっていた。


世間知らずに育つと何がいけないかというと世間を舐めるのだ。


高校受験もしないから優秀な公立高校の存在も知らずに公立はスラム街のようなものだと思っていた人が掃いて捨てるほどいた。内部進学で慶應経済学部に進学した知人は就活に失敗したら国立の医学部に編入しようと考えていた。その知人は慶應であれば特に勉強しなくてもどこの医学部でもいけると信じていた。

私自身は、十分に努力していなかった人間は辛い時に辛いという権利がないと勘違いしていた。ブラック企業に入って苦しんでいても、そんなところにしか入社できないくらい頑張れなかったのに文句をいうのは傲慢だと本気で思っている、情のない人間だった。

私は貧乏以外の弱者の要素を思いつく限り集めて構成された生まれついての弱者だった。それを努力だけで越えていく快感は次第に努力を崇高な唯一神へと仕立てあげた。私は努力して結果を出す人が世界で一番偉いと思っていた。それだけなら、まだ個人のポリシーで済むだろう。しかし、私は私自身の努力や能力、考えに価値や根拠を求めるために私より努力が足りないのに愚痴をこぼす他人を見下したり、バカにして、そうでない自分は価値があると断定しようする癖があった。男に頼ってすぐ泣く女が守られるのも苦々しいし、大した仕事もしていないのに疲れた病んだとこぼす人間が憎かった。つまりは、私の努力や我慢が全て身を結んでそうではない人は間違っているのだから致命的に失敗して後悔しますように…というアリとキリギリス的な結末を常に求めていたのだ。

こんなケースはいくらでもある。例えば、本当は承認欲求が強いのに理性で押し込めることが正しいと思い、日々実行している人は結構な人数いると思う。承認欲求を恥ずかしいと思い隠すことを選択するのは、その人の正義だと思う。無駄に攻撃されるリスクも減る。承認欲求をひた隠すのはこじれた承認欲求の二重構造にすぎないけれど、自分のはち切れそうな承認欲求を自分の思う正しさで押し込める姿を私は尊いと思う。ただ、普段は我慢できていても、承認欲求を全面に出す人を見てしまうと自分は我慢しているのにと思って攻撃してしまうことがある。そんな努力不足の乏しい能力や稚拙な制作物で承認されようとするのは悪だと思ってしまう。我慢していることに価値を求めたいのだと思う。正しいと思って我慢しているのに、本当はそれが価値のないことなんて思いたくないのだ。でも、一人じゃ自信を保てないから、誰かをバカにする。時には似た考えの人で徒党を組んで。

認められたい時は認められたいって大声で叫んでもいいし、叫ばない自由もある。この図式だと勝手に我慢して攻撃してくるやつが悪いとなってしまいそうだけど、自分より頑張っている人や能力があるのに謙虚でいる人の目の前で褒めて褒めてと叫ぶのは多少気が回らないかなと思う。どちらかが悪いわけではないし、どちらかに揃えられない以上、どちらも正しいのだ。承認欲求を隠す健気さも承認欲求を押し出す無邪気さも愛していきたい。

このような嫌悪反応は思考放棄につながり、本質の問題を見ないまま、対象を攻撃してしまうことにつながる。私が嫌悪していた男に頼ってすぐに泣く女はそんな分別のつかない女に漬け込む男の方が問題だったりする。一応、18歳を越えれば自由恋愛ではあるけれど、彼女達の思考能力や精神は本当に7歳レベルだったりするのでそれを利用する男は犯罪にならない犯罪者だと思っている。早く法律で規制してほしい。

一番重要だと感じるのは、大した仕事もしていないのに過剰に仕事アピールし、疲れたと愚痴る人に対する嫌悪である。なんせ、私は、母親が私を出産時に疲れたとこぼしたら、出張から帰ってきた父親と「お前の疲れ方と俺の疲れ方は違う」と喧嘩になったという折紙付の業を背負った女だ。「私の方が疲れているからお前は疲れたとか言うな問題」を考えるために生まれてきたといっても過言ではないかもしれない。私は長らく、承認欲求のために大したことない仕事量で騒ぎやがってと思っていた。しかし、それは違う。

自分より少なく見えようが、他人の頑張りは他人の頑張り、他人の疲れは他人の疲れで真実なのだ。

定量化できるものでもないし、する必要もないと思う。ただ、一度他人にそんな程度で弱音を吐くなと思ってしまうと自分自身の頑張りや疲れを認めてあげられずに働かせ続けてしまう。

この問題の本質は自分より頑張っていないから評価に値しないということではなく、限界まで頑張ることに自分の価値を依存してしまう、登場人物全てだ。頑張っていることや疲れていることをアピールすれば手っ取り早く、他人が褒めたり労ってくれたりするけれど、それが癖になると泥沼だ。疲れること・無理な仕事を背負うことは決して褒められることではないし、人は自分の限界をうまく知ることができない。ここまではセーフ、ここからがアウトという紙一重のラインをそんなに簡単に見つけられたら、私はこんなに泥酔して翌朝みんなに謝っていないのだ。人間無理はしないに限る。

努力しない人や能力のない人を見下していると、自分がそうなった時に壊れちゃうから、悪いことやずるいこと以外の全てを受け入れて全部愛して生きていこう。

他のエッセイで何度も言っているように正しければ、能力が高ければ認められて成功するものではないし、理不尽で吐きそうなくらい辛い時もある。

だからこそ、他者の評価に左右されない自分だけの価値観を掴み取っていく必要があると思う。

私の愛してやまないヒモは休憩をとりつつ17時に帰れる人間関係に恵まれたデスクワークであろうが、激務と騒ぐ。そんなの激務なんて言ってたら生きていけないよ。○○さんは終電帰りだって。といっても、「ワイが激務だと言ったら激務なの」と一歩も譲らない。私は誰にも崩せない対外的な根拠のないその自信を好きだなあと思った。


いただいたサポートは今後の活動の糧になるように大切に使わせていただきます。