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二次創作と人形遊び

2023年6月20日のツイートに加筆修正したまとめ。発端は『ジゴワット・レポート』のこの記事を読んだこと。

まず「ジゴワット・レポート」という名称にニヤリとしてしまった。ジゴワットはよい……BTTFトリロジーと共に育ってきた当番のハートにその名称は刺さる>RT

二次創作も「その元作品は『どういう性質の作品』であるのか」によってだいぶ変わっていくと当番は思っている。筋らしい筋が存在しないキャラクターゲームであるのか、確かな筋がある物語であるのかによってもだいぶ違う。

それと二次創作の出力法でも変わる。概念アクセや概念香水も二次創作なので。

キャラクター主体の二次創作を「元キャラクターの私物化」と受けとる向きもあるとは思う。「所詮は原作者のいるキャラクターを使って原作に反した弄びかたをしている人形遊び」と批判しているツイートを見かけて当番は二重に傷ついたことだってある。当番は二次創作の民だが、比喩ではなくガチ人形遊びの民でもあるので

当番はリカちゃん人形に振袖や浴衣を仕立てては着せて遊ぶし、人形同士の関係性だって設定して遊ぶ人形趣味の民だ。当番にとってゲームキャラクターの二次創作は確かに人形遊びにとても近い。ちなみに昔の人形者(※にんぎょうもの。各種人形遊びや人形コレクションを趣味とするもの)もリカちゃんのイラスト描いて人形雑誌に投稿してたりリカちゃんのSS(※ショートストーリーの略)書いたりしてたんだぜ。

「タカラトミーのリカちゃんを買ってきて服を縫い着せ、状況設定を与えてストーリーのある遊びかたをすること」を通常「タカラトミーのリカちゃんの二次創作」とは呼ばない。シルバニアファミリーでも呼ばないし、トミカを並べてストーリーを作って遊んでいても「二次創作」とは呼ばない。

リカちゃんやシルバニアファミリーにはユルくキャラクター設定はあるが、それを厳密に踏襲して遊ぶこどもは少ない。ローカルネームを設定したりローカル人間関係を設定したりして「わたしのリカちゃん」「わたしのシルバニアファミリーペルシャねこ」として遊ぶのが一般的に許容されている。

当番がいま二次創作小話をつるつる生み出している某ゲームも「キャラクター個々の設定はあるものの、基本的にはプレイヤーが彼らを『自由に編成』してバトルに出すゲーム」。性質としては非常に「リカちゃん」「シルバニアファミリー」みが強い。坂本龍馬の佩刀と土方歳三の佩刀を同部隊に編成できるし。

最近は源氏の重宝と平家の守り刀を同部隊へ編成できちゃうしな!「歴史上の経緯が彼ら刀の化身にどう影響していようとも、『プレイヤーは彼ら刀剣男士の今代の主である』という一点を盾にとんでもない呉越同舟部隊を編成してタイムパトロールに送り出せる」わけで、いわばゲーム自体が歴史の二次創作なのよね。

当番はそういう意識で「当番の手元へ来たキャラクター」の性質をベースにした様々なifsとして二次創作の小話を書いているし、まあ人形遊びと誹りたければ誹りたまえよ。

だけどね。人形遊びガチ勢の当番からひとこと申し上げるならば。原作者から各プレイヤーの手元に届けられた時点で「きみが『公式設定』だと思うそのリカちゃんやピカチュウの設定だって、君の手元に来たらもう『原作者のリカちゃん・ピカチュウ』ではなく『きみのリカちゃん・ピカチュウ』なんだよ」

あるいは「君が『トイ・ストーリー』を観てウッディを好きになったから公式ストアのウッディ人形をひとつ買ったとして、それは『原作者のウッディ』でもなければ『アンディのウッディ』でもなく、『これからきみのウッディになっていく、 “とあるウッディ”』なんだよ」ってこと。

きみが気に入って買ってきたきみのウッディ人形は、「アンディのウッディ」ではないし、別の誰かのウッディでもない。原作者がいなければそこに存在しえないのがキャラクターだけれど、それでも「原作者のウッディ」と「その写し身のひとつが手元に来て『きみのウッディ』になった『とあるウッディ』」は違って当たり前なんだよ。

「たとえきみが『アンディのウッディであること』前提で『きみのウッディ』を愛でることを良しとしようとも、それは『きみが望む、きみのウッディとの関係性』であって『きみのウッディではないウッディと遊ぶ、きみではない子』が『その子のウッディ』とどう遊ぶべきか、きみに口出しはできないよ」

あるいは同じ「ゲームが原作である二次的作品」として昨今話題のD&D映画やマリオ映画を挙げてもいい(「同人作品」と「二次作品」は混同されがちであるが別物。某セクシーパラディンの出る映画は「同人作品『ではない』が、ゲームが原作の二次作品『ではある』」)。

TRPGのリプレイ(実際のゲームプレイを記録し編集したもの)も、創作ガチ勢が書けばものすごく面白い読み物になるし、それが商業出版社から出れば「ファンタジー小説」にだってなる。『ロードス島戦記』だとか。映画だったら『ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ』だとか。同人者がやれば同人作品だけど。

『ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ アウトローたちの誇り』だって、昨今実写リメイクされた『リトル・マーメイド』だって「『俺のパラディン』はああではない」「あれは『わたしのアリエル』ではない」人、いっぱいいたと思うんだよ。そういうものなんだよ。そう思うくらいに好くってことがあるのよ

かく言う当番だって「あれは『わたしのメアリー・ポピンズ』ではない」と思ったのだしね。大好きなジュリー・アンドリュースでも、どんなに美術と楽曲がよくても、やっぱりあれは当番が脳内再生した当番のメアリー・ポピンズではなかったんだよ(なお「原作者のメアリー・ポピンズ」でもなかった模様)。

それでも。原作者のメアリー・ポピンズと、ディズニーのメリー・ポピンズと、当番が思い描いたメアリー・ポピンズは違う。よしあしでもなく正しい間違いでもなく、ただ違う。当番のメアリー・ポピンズは当番のものとして大切であるように、他の人には他の人の感性に合うかたちのメアリーが大切なんだよ

リプレイ、リプロダクト、リクリエイトとはそういうもの。小説から演劇へ、映画へ、マンガへ、ゲームへ。あるいはマンガから小説へ、アニメへ、実写映画へ。自分の愛した「原作」の、100パーセント自分の気に入る「再生作品」は究極には自分で作る以外誰も叶えてはくれないもの。だから自分でやるのよ。

たとえそれが、いかにつたなかろうとも。

【2024年追記】
「たとえきみが『アンディのウッディであること』前提で『きみのウッディ』を愛でることを良しとしようとも、それは『きみが望む、きみのウッディとの関係性』であって『きみのウッディではないウッディと遊ぶ、きみではない子』が『その子のウッディ』とどう遊ぶべきか、きみに口出しはできないよ」

これを「『トイ・ストーリー』とウッディとアンディ」ではなく「『刀剣乱舞』と源義経と膝丸」でリライトするならば、「たとえきみが『源義経の佩刀・薄緑/膝丸であること』前提で『きみの膝丸』を愛でることを良しとしようとも、それは『きみが望む、きみの膝丸との関係性』であって『きみの膝丸ではない膝丸と遊んでいる、きみではないプレイヤー』が『そのひとの膝丸』とどう遊ぶべきか、きみに口出しはできないよ」になる。これは当番の自戒でもある。

当番は当番の膝丸をどう書くかについては誰にも口出しをさせないけれど、当番の側でも、よその主(ゲームプレイヤー/あるいは二次創作者)がよその膝丸をどう書く/描くかについて口出しはできない。よその膝丸は当番の膝丸ではないから。当番のリカちゃんがよそのリカちゃんではなく、よそのプレイヤーが連れているピカチュウが当番の育てたピカチュウではないのと同じ。

人形者としての当番が作ってた人形服、見る? 2010年代に撮った古い画像だけど。

浴衣
1/6サイズ振袖コレクション。オール手縫い
ホロスカート。ワンピースに見えるけれどツーピース
既存ドールをカスタムしてコスチュームを自作した

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