城崎0401

 城崎に来て8日が経った。ここでの「生活」がイベントじゃなく生活に落ち着いたようで、あふれ出す料理欲もおさまり、なるたけ簡単に済ましたい。温泉も、遠くのに入りに行くのが面倒くさくなってきた。

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 安田登『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』を読んでいる。KIACの「動く本棚」にあった。木村敏『あいだ』に続き、この本にもまた私が演出するときに考えてることが書いてある!
 以下、ピンと来た部分の、できるだけ引用しつつの概要。

  西洋音楽のリズムは、指揮者が「棒を振った時点で、そこにはまだ存在しない未来の時間が決まっている」「つまり、四拍子というのは、未来の時間をあらかじめ確定し、それを四等分すること。指揮者が一拍の長さを示すことで、それに続く未来が決まっていく」。
 「対して、「今」を刻むのが」能の拍子。「未来がどうなるのかはわかりません。拍子は、そのときその場所にいる人の呼吸で決まります」。拍子が基本になっている日本の歌の例として、鞠つき歌。「西洋音楽のリズムに慣れた今の子たちは、自分が決めたリズムに合わせて鞠をつこうとします。すると、鞠の弾み方が狂うと途端に鞠つき歌が歌えなくなったり、鞠を取り損なったりします。鞠つき歌の本来の姿は、鞠の弾みに合わせて歌を歌うことです。いうなれば、鞠つき歌をどう歌うかは、鞠が決めているのです。今とは違って、整地されていない地べたに向かってつく鞠です。未来の鞠の弾み方は、鞠をついている人にも予測はできません。「今」の弾みに合わせて歌を歌う。それが「今」を刻むということであり、「今」の連続が拍子をつくっていきます。拍子には、常に「今」の一拍目しかないということもできます」

 安田さんの書いていること、すごくよく分かる。西田幾多郎の「非連続の連続」というのも、こういうことなんじゃないか。創作の話だけじゃなくて、生きるというのはこういうことだと思う。あらかじめ確定された未来に上手にはまろうとすると、死んでいく。
 拍子はあらかじめあるものじゃなくて、「今」の連続で生じていくしかないもので、私はそれが生じていくように稽古場をつくっていきたいんだけど、「リズムに合わせて歌おう」としている俳優さんが、私の言葉を「未来の時間を確定していく指揮棒の一振り目」として聞いてしまうと、齟齬が生まれる。そしてそれは、返し稽古を重ねるほど開いていく。
 ……ということが、上手くいかないときに起こっているんだな、とこの本を読んで言語化された。どういうスタンスで生きるかということは、そんなに簡単に変更可能なことではないけど、少なくとも食い違ったまま食い違いを開かせ続けるのはやめたい。

 鞠つき歌の例でいくと、鞠をつきながら歌う人が俳優で、鞠とそれをつく環境・状況(デコボコの地面とか)を作るのが作・演出だろうか。私の中で、ベストのデコボコ感をあらかじめ定めるのは難しい。それは、俳優が鞠をついて歌ってるところを見ながらしか決まっていかない。
 鞠が戯曲にいちばん近い気はする。どんな鞠がいいかには、デコボコ具合よりこだわりを持ってしまいそう。だけどそれもやっぱり、俳優のつき具合を見ながらしか本当には決まっていかない気がする。「決める」ことが出来なくて、なんか自ずと「決まっていく」ときが、いい感じのときだ。
しかしそれを(鞠を)、作ろうというのが今回の城崎滞在なわけですが。

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 劇作と演出の関係性を、2013年にカトリ企画で岸田國士の『紙風船』を演出したときから考え始めた。考え始めて、私はどうも「劇作家」ではないみたい、ということでそう名乗るのやめよっかな、と思うようになったところで岸田戯曲賞にノミネートされて、あらーそしたらもう少し考えてみようか! と思った。で、考えは続き、今年もう一度ノミネートされ、3月にやった「鳥公園のアタマの中」展でも「劇作家として、自立した戯曲というのが私に書けるものかどうか試してみようと最近は思っています」とか言ったりして、それはそれで真面目に考えてるところでもありつつ本当は(「本当は」ってなんだよって感じだが本当は)どっちでもいいっていうか、私のいちばん興味があるところ、大切にしたいところではない。
 「作・演出というあり方がスタンダードになっていることは、日本の小劇場界のけっこう重要な問題なんじゃないだろうか?」ということも、わりと継続的に発言してきたんだけれど、(プロブレムというよりはトピックというか、生じているプロブレムにアプローチする切り口としてあり得るとは今も思っているのだけれど、)でも私自身はたぶん、作・演出家というやり方が一番しっくり来る。というか、私のやりたいことはその形態でないとやれないっぽい。

 再び、『あわいの力』(p.22~23)からの引用。

「能には古くから伝わる演目が数多くありますが、明治になるまでは、そうした作品の多くはアノニマスで作者性がありませんでした。誰も自分が書いたことを主張しないし、誰が書いたかなんて、誰も重要だと思っていなかったのです。作者が誰であるかに目が向けられるようになったのは、西洋的な批評的視点が持ち込まれた明治以降のことです。
 能の世界の超有名人といえば、間違いなく世阿弥です。
 世阿弥はたしかに実在した人物ですが、「世阿弥作」と伝わる作品が、本当にすべて世阿弥が書いたかというと、必ずしもそうもいえません。明治以降にわかってきたことですが、成立年代や作者性を評価した結果、これは世阿弥の作品ではないということが指摘されている作品もあります。逆にいうと明治以前の日本人にとっては、そういうものもひっくるめて、「世阿弥作」でまったく問題がなかったということです。そこには、「個人としての世阿弥」という観念はありません」

「世阿弥が書いたとされる『風姿花伝』も、父である観阿弥の言葉を世阿弥が書き写したものです。どこまでが観阿弥の思想で、どこからが世阿弥の思想であるかということはわからないし、はっきり区別する必要もなかった。自分の成果を気にしなくていいどころか、他者から完全に切り離された「個人」という感覚さえ、持ち合わせていなかったかもしれません」

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 作品がアノニマスな状態で存在し得るという状況を、いいな~と思う。私個人の名前でなにかを引き受けようとする態度というのは、本当に必要なんだろうか? 作品の評価とか責任とかいうことが誰に属するか確定させるということって、そんなに大事なことなんだろうか?
 これは、責任逃れしたいとかいうことでは、ないつもりなんだけれど。

 「書くことの権力性」みたいなことを、去年『ヨブ呼んでるよ』を書いたときに考えざるを得なくなった。今はまだ、そのことが自分のナイーブな階層、なにかとすぐ顔を出して考えたり言語化したりしてしまう位置にある。
 何かを本当に考えるということは、考えようとして考えるようなことでは届かないところに位置を占めることだと思うから、時間がいる。
 社会のことを考えるということも、分かりやすく社会的なテーマを扱うとかそういうことじゃなくて、そんな風に説明可能な形で応えることじゃなくて、もっと大事にできると思う。大事にできるというのは誰が、誰を(何を)かというと、作品をつくる人が、作品に登場する人や出来事も、「こんな作品になんの意味があるのかわからないんですけど(説明して)!」と問うてくる人も、つくる自分自身のわかりやすいわけではないあり方も、だ。
 方便はだめだ。一瞬は通りが良くなるかもしれないけど、かえって信じられなくなる。そしてそのよじれを回復するのに何倍も時間が必要になる。

 だいぶ前(調べたら2012年だった)に悪魔のしるしの『桜の園』(SAKURmA NO SONOhirushi に打消し線が引かれているのが正式な記載だと思うんだけど、ここには打消し線の機能がないっぽい)をトーキョーワンダーサイト渋谷で見たとき、そこで発語される台詞はほとんど『桜の園』じゃないのにものすっごく『桜の園』だーーー!!! と思って、そのあり方をすごくいいと思った。アフタートークで危口さんが、「署名のない作品をつくれたらいいなと思う」と言っていたのをよく覚えている。

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kaorinishio

コメント4件

考えていること、現在進行形の迷いも出ていていい文章ですね。
『あわいの力』の引用はクラーゲス『リズムの本質』という本で、拍子は精神活動の結果、リズムは生命活動と分けていたのを思い出しました。
クラーゲスのリズムが安田さんの能の拍子ということなのかなと。
それは『あいだ』の「生命一般の根拠」や「音楽の演奏の3つの契機の1.瞬間瞬間の現在において次々と音楽を作り出してゆく行為」ともつながっているようで、西尾さんの実現したいことが感じられます。
現場で生まれる生命体(そのアノニマス性)のようなことを考えながら鞠=戯曲を書くのは大変な作業でしょうが、ぜひ現場で発芽するであろう種子の入った鞠をつくって下さい。
木村敏、安田登と本の趣味が合う人だなと思ったら、KIACの「動く本棚」と趣味が合っていたのだなあ、ガックリ。でも西尾さん出会うべきときに出会うべき本に出会っているのだと思います。そういうことも才能ですよね。
『なぜ意識は実在しないのか』は、ちょうど2冊とは逆方向の本。しかし、意識の問題も言語と前言語性の問題、因果性の問題などと関係してくるので、時間をおいて再読をお薦めします。 斉同動詞
ご丁寧なコメント、ありがとうございます。クラーゲスは人からして知りませんでしたが、チェックしてみます。「現場で発芽するであろう種子の入った鞠」というのは、私のやりたいと思っていることをピッタリ言っていただいたような言葉です。木村敏は、私が持ってきた本なんです。でもKIACの本棚には、これも今回必要になりそうと思って持ってきた伊藤比呂美の『読み解き「般若心経」』や三木成夫などがあり、私は「動く本棚」とだいぶ気が合っています(笑)。『なぜ意識は実在しないのか』も、まだ読み返してはいませんが、時間を置いたらちょっとずつ分かったような感じも生まれてきました。また読んでみます。
一日おつかれさまでした。そして、返信ありがとうございます。
『あいだ』が西尾さんの本で、趣味が動く本棚とだけ合っているわけではないみたいでホッとしました(笑)。他にも持ってきた本を書いてくださったので、やっぱり三木成夫なのか・・・読まなきゃいけないなとか、般若心経!とか心の中でリアクションしてしまいました。『読み解き「般若心経」』と三木成夫は読んでみようと思います。今回の戯曲がどんなかたちになるのかはわかりませんが、『あいだ』や『あわいの力』で読み取ったものを活かすには演劇そのものについての本よりも三木成夫というのはわかる気がします。
西尾さんは「考えようとして考えるようなことでは届かないところに位置を占めることだと思うから、時間がいる」と書いていましたが、そういうことを考えている人の作品を観たいと心から思います。それは苦しいことも多いと思いますが、気持ちとしてはすごく応援していますので、よい実りが得られるようがんばってください。
「言葉からもれるもの」読みました。
何年も前から集団での制作のあり方、演出家としての自分の位置を考えてきたのだなとわかったし、言葉で言ってしまったからそうなってしまうこと(今日の主観→主体→国体も近い)への違和感やそれでも話していくことで開かれる窓など西尾さんの書かれることは創造の根幹に触れているようで、読んでて心がザワッとするし、刺激を受けます。
考え迷っても創作としては作り進み続けるし、進んでもブレずに根幹の地点に戻って考え続けていることも感嘆です。
そして集団制作について考えている人なのにWSのテーマは「ひとりで作る」なのも面白い。でも考えているうちに自分はWSの場の空虚な中心となって他者一人ひとりの力を伸ばすということなのだろうと思い至りました。WSでも稽古でも演出家としての西尾さんのあり方を見てみたいですね。昨年の手塚さんのWSから実験の流れにも参加者の自発性を感じられたし、それに乗せられ見学で行ってた自分も最終的には手伝ってしまっていたのだけれど、西尾さんの方法も興味深いです。見た時、一瞬参加する?と思ったくらいでした。
明日はオープンハウスですね、楽しんで育ててください。
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