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17年の「いた日々」と1年の「いない日々」

スマートフォンの画面に人差し指を置き、上から下へと引き下ろす。
液晶の中の小さな写真が滑らかに流れていく。
それが止まる前に、また指をツイッと引き下ろす。
画面が流れていく。また指を滑らせる。
それを何度か繰り返し、ふと思う。

「あの日々が、もうこんなにも遠い」

その途端にほんのり寂しくなる。
寂しくなりながら、また指を滑らせる。
何度か同じ動作を繰り返し、やっと目的の場所に辿り着く。

17年の長くて短い夢の時間。

17年の「犬のいた日々」と1年の「犬のいない日々」

「大きくなるまで遊べないよ」と言われ、子猫が大きくなるのを待っている柴子

「猫の日(2月22日)」は、私の愛犬・柴子の命日だ。

事情を知らねば「犬の命日が猫の日」は滑稽だろうが、事情を知っていれば "狙いすました正確さ"ととれる。
何しろ柴子は、3匹の猫に教育され、複数匹の子猫の遊び相手を務め、2匹の保護猫の友だった。
他の犬に対して警戒を示す野良や半野良猫までもが、柴子には鼻先で挨拶をするのだから「犬の皮を被った猫」と呼んでも差し支えないだろう。

そんな風変りな彼女について、今後ちょっとずつまとめていくつもりだが、今回は「犬と過ごした17年」と「犬がいなくなった後の1年」について思うところを語りたい。

■犬がいた夢の17年

1年前、長らく一緒に暮らした愛犬を亡くした。
死因について、特筆すべきことはない。
柴犬で17年と7カ月。
病気らしい病気をしたことがなかった犬は、柴犬の平均寿命を超え、全体的に年相応に老化し、その末に旅立って行った。

昔から犬が好きだった。

猫を数匹飼っているせいで、周りには根っからの猫好きで犬は後付けだと思われているが、実はそうではない。
猫を好きになったのは、30年前に初めて猫を飼った時からで、それ以前は好きでも嫌いでもなかった。
だが、犬だけは物心がつく前から好きだった。

好きな理由はあげ始めたらキリがなく、つまりそれは「特に確固たる理由はない」と同義だ。

それでも子供の頃は色々な事情があり、中々飼えない。
そして、やっと飼えても長生きしないか、諸事情により人に譲ることになる。

数匹の犬と出会い、別れる中で「犬が天寿を全うするまで傍にいたい」と思うのは、割と普通の流れだろう。
あまりにも普通すぎて当時は気付かなかったが、思えばこれも子供の夢の一つ、願いの一欠片だったのだ。

だから愛犬の死は、喪失と共に切実な願いが完遂された瞬間でもあった。

そのせいか、寂しさはあっても、あまり悲しさはない。
もちろん、飛び上がるような達成感はないし、「まったく悲しくない」と言えば嘘になる。
悲しさ半分、やり切った感半分というのが妥当だろう。

2009年3歳の冬

■犬のいない1年

犬が亡くなった直後から、悲しさも寂しさも強烈なものはない。
特に悲しさはあまりなく、代わりに今もほんのりと寂しくなる。

特に冒頭のスマートフォンのアルバムのエピソードが、日々感じる「寂しくなる瞬間」だ。
画面を流す手数が増えるほどに、犬のいた日々の上に降り積もった時間を感じる。
1年、2年と数字で見る以上に、指先で距離を感じる。

だが、私はこの「ほんのりとした寂しさ」が、案外嫌いではない。

そりゃまぁ、寂しくないに越したことはないけれど、それは犬猫に永久に生きろというようなものだし、そんなのは不可能だ。
それに「寂しいのが私で良かった」と思う。

動物に人と同じ感性はないが、動物にも動物なりの精神は有り、彼らも寂しがる。

あなたは、主を亡くした獣の姿を見たことがあるだろうか?私は、ある。
悲しいことに、そのような猫に会ったことがある。
猫は、故人の家族が引き取り大事に育てたが、それでも猫の眼から壮絶な悲しみが消えることはなく、結局主を追うように早世した。

その事を思い出すと、17年の上に降り積もる寂しい日々も悪くはないと思う。

何しろ私は人間だから、犬や猫よりも寂しさには慣れている。
どうにも寂しい時も誤魔化す方法などいくらでも知っている。
だから「寂しいのが私で良かった」と思うのだ。

■居場所を持っている間は飼う

ペットが亡くなると「再び飼うか否か」で迷う人は多い。

もちろん、中には年齢的に厳しく断念する人もいるのだろうが、飼う人は高齢でも飼う。飼わない人は若くても飼わない。
どちらが良い悪いでもないし、同じ飼う・飼わないでも、一人一人理由は違うだろう。

特に「飼わない派」の中には、亡くなった子に操を立てたり、またその子への対応の後悔から「自分には生き物を飼う資格がない」と思ってしまう人まで様々だ。

私は今のところ、飼うことがあっても老犬よりの成犬以上の保護犬にすると決めている。
自身の年齢的なものもあるが、特に子犬から飼う必要性を感じないからだ。

さらに私は柴犬が好きだが、別に柴犬以外が嫌いなわけでもないし、血統至上主義でもない。
確かにビジュアル面で言えば、マズルが長くて耳の立っている「The犬」というフォルムは好きだ。
だが、それ以外が嫌いというわけではない。

「●●でなければ嫌だ」と思う人は、そのような犬を探して飼えばいい。
そんなところに差別だ、なんだと言っても仕方がない。
どうしたって好みも相性もある。
私の「老犬~成犬の保護犬」も条件なのだから、他人の希望にジャッジをつける権利はない。

豪邸ではないが犬が飼える家がある。私も若くはないが犬の散歩もできないほどには老いてない。
そして基礎より少し高度な躾もできる。
だったら、それを遊ばせておくのは勿体ない。
妙な見栄や拘りで無駄に遊ばせておくくらいなら、必要な誰かにシェアするのがいい。

ここでこうして、誰の役に立つのか分からない文章を書いているのも同じ事だ。
自分が気持ちを吐露して満足したいだけなら、友人に愚痴って自分の手帳にでも書いておく。
でも、人の経験談は意外なところで誰かの役に立つ。
だから、駄文を承知で書いている。

私は17年、自分にあつらえたような犬と暮らした。
出会いは偶然だったが、運よくサイズも性格もオーダーメイドのように我が家にピッタリとハマる犬だった。

だから、残りの人生の何年かは、困っている犬にあげたってかまわないのさ。

人の寿命は犬より長い。
慣れるまで待ってやることもできる。
何とか金は稼げるから、暖かい寝床とそこそこの飯を与えられる。
器用な手があるから、ブラシをかけて撫でることもできる。

人には、犬にできないことができる。
それを私がするから、犬は犬にしかできないことをすればいい。
もちろん、腹を見せて媚びなんて売らなくていい。

ただ機嫌よく、日々を過ごすだけでいい。
毎日、私を散歩に連れ出すだけでいい。
一緒に季節の移り変わりを感じて、私が喋ることをさも分かった風に目を細めて聞いていればいい。

それだけで私は勝手に満足する。

そんな簡単な仕事をしてくれればいい。
簡単だけれど、犬にしかできない仕事だ。

「口不器用」なので、持って来てはくれるが途中で落としてくる

■犬のいない春に

17年ぶりに犬がいない1年を過ごした。

まだ気配が残る春が訪れ、
雨を気にしない梅雨を抜け、
去年よりも電気代の安い夏を過ごし、
キュウリの犬猫がしなびた頃に初盆が終わって秋が来る。

赤柴色の秋は愛犬の毛ほど短く、
追い立てるようにやってきた年末は犬に出会った季節。
そして気付けば今年も2か月を過ぎ、犬のいない1年が巡った。

梅は散り、いつも並んで散歩をしていた公園の木蓮は、今年も沢山の蕾をつけている。
もうすぐ春だ。春が来る。

明るくて華やかで、
犬のいない、少し寂しい春が。

2022年16歳の春に。

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