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ぼくがラジオから離れた理由


1 長い

 まずひとつめの理由として、これがありますね。眠くなる。ラジオ番組のゴールデンタイムは深夜とされていますが、基本単位が2時間。ってことは夜中の3時まで起きとかなきゃいけない。それも毎週、感性によっては毎日。

 こんな生活、まともな社会人はできないですよね。ていうか学生の時でもできてなかったです、ぼくは。
 チャンチャチャン!チャンチャカチャン、チャンチャチャン!の時は起きています。ビタースイートサンバの時です。でも、だいたい途中で眠りに落ちて、明け方に謎の宗教放送みたいなのとともに目が覚めてうんざり、山上な気分で起床って感じ。

 ただ、これはぼくが中学校の技術の授業で作ったラジオで聴いていた頃の話ですし、いまは違います。radikoとかYouTubeとかで聴いているリスナーが大半でしょう。ぜんぜん違います。
 ぼくが作ったお手製ラジオは充電が切れるとハンドルを回して発電しなきゃいけない代物でしたが、radikoにも YouTubeにもハンドルは、ない。「ならばどうやって電力を!?」と疑問にお思いでしょうが、それはちょっとわかんないですね。

 そうそう、ぼくが途中で寝ちゃってた理由のひとつにハンドルがあったんでした。ラジオが電力不足で止まりそうになったとして、お布団から出てハンドルをぐるぐる回すの、無理でしょう。できるひとはいないと思います、ひとりも。焦り気味に補足しておくと、めちゃくちゃ回さなきゃ受信できません。パチンコの1000以上回ってるハマり台くらい。しかもそこまで回して、単発程度の電力です。

 その点、radikoなんかはいいですね。UXがダメですけども…使いにくいでしょう。あれ、猿みたいなやつらが開発したんじゃないかと睨んでいます。枝を持って、地面に図面引いて、どんぐりをついばみながら、森で。

 YouTubeは違法聴取となりますが、これに関してはですね、ぼくはセーフです。なぜならradikoの課金をしているからです、それもアカウント2つぶん。ここまでくるとYouTubeでラジオを聴いても合法でしょう。
 先に書いたとおり、radikoは聴く気しないんですよね。テンション上がらないっていうか、うきうきしない。ぼくが思うに、radikoで聴いていることを表明しながらradikoに文句をつけていないやつはYouTubeで聴いています。確定演出です。


2 忙しい

 1でもちらっと書きましたが、深夜ラジオは基本的に学生のものでした。これは生活スタイルに由来します。3時まで起きてて7時には家を出て出勤とかね、できないですから。

「リアタイします」という宣言をするひとたち(すこしきもちわるい)が現れ出したのはいつからか?radiko以降です。SNSの隆盛ともリンクしていますね。
 リアタイ宣言ってSNSでしかやんないわけです。いくらすこしきもちわるいひとたちだからといって、お母さんに宣言しているわけじゃないでしょう。

 しかし、もともとラジオはリアルタイムで聴くのが主流だったのです。これは価値観の変化などという抽象的な話ではなく、単に技術的な問題によります。
 リアルタイムで聴くことの利点は「いまここ」のライブ感がありまして、これは「寝てしまったら終わり」という取り返しのつかなさ、それが反転してクローズドな結束と優越感を生み出していたのです。

 技術の発展は広がりを作るので功罪相半ばといったところですが、いずれにしろ時計の針は戻りませんから、リアルタイムで聴くことの特権性は減ったままでしょう。録音でかんたんに聴ける世界になった以上は。

「それなら『忙しい』というのはラジオを離れる理由にならないのでは?」とお思いでしょうか。ぼくは思いました、いま。よって、2は撤回させていただきます。

3 広がり

 みなさんは選挙に行くのでしょうか。行くとして、その場合は各政党の政策をチェックしたりするでしょう。その際に「ふーん、なかなか良いマニフェストだな…でも公明党かぁ」みたいな時もあるかもしれない。選挙の場合はこっそり投票できますけど、だからといって声を大にしてSNSで「公明党最高!」とは宣言できないものです。これは逆にお母さんには宣言できるかも。2世って場合があるんで。

 ぼくは閉鎖的で古いラジオリスナーとはいえ、ラジオ番組の裾野が広がることにやぶさかなタイプではないですが、だからといって変なやつらが聴いていることがわかると「こいつらとおなじ信者だと思われるのはきついな」という排他的な自意識が発動しますので、慌てて明確な線引きをしたがるのです。

 2の項で「技術は広がりを作る」と書きましたが、たとえば産業革命以降、帝国的な植民地主義が加速しました。年末、甥っ子が通っている進学塾の参考書を読んで学んだのでまちがいありません。
 しかし、イギリスがマオリ族とかを支配した時だって、英国紳士はマオリ族と同一視されることは嫌がっていたと思います。ひどいやつらですね。

 200円で販売しているという、オードリーのラジオから離れた理由というnoteをぼくは読んでいませんが、おそらくこのようなことを書いているんだと思います。「オードリーのラジオはさぁ、ジェントルマンたちが聴いていたのに、マオリ族どもがやってきて野蛮になってさぁ…勘弁してほしいよ、臭いしさぁ。そうだ、ハンティングしよう!毒矢で!戯れに!」って。もしまちがっていたら頭を下げる準備はできていますが、大意は当たっていると思います。こんな戯言で金を取るとはなにを考えているのか。野蛮なのはおまえだ!


4 ネタ

 ハガキ、メール。だいたいメールですけど、ぼくも多少はネタを送ったことがありまして、こういう時期はですね、ラジオへの傾倒の角度がおかしくなりがちです。読まれるかなぁ?って楽しみになるからです。

 ぼく個人の話になりますが、メールを送った時期というのは人生で3回あって、1回目はラジオの聴き始め、中学から高校くらいのあいだ。2回目は大学の卒業間近、3回目は仕事を辞めて次の職に就くまでのあいだ。要するに、だいたい暇な時期ということです。

 なんだか知りませんが、ずっと送るひとたちっているでしょう。「ずっと暇な時期なのか?」とも思いますが、違います。いや、本当にずっと暇なのかもしれませんが、ああいうのは送ることが日常に組み込まれているのです。毎朝うんこをするように、ネタを送っているのです。ですが、ぼくにとっては非日常的な行為なので、ずっと送るというのは無理なわけです。

 それに、読まれるかどうか楽しみとは書きましたが、これも最初の頃だけでして、読まれることに慣れてくると飽きてきます。読まれたかどうかを気にするより、寝ることを優先するようになってしまいます。

 なんだかラジオから離れた理由が眠気ってだけになっている気がしてきました。5で挽回します。


5 人間性

 最近はあんまり言われなくなってきたような気がしますが、芸人がラジオをやっていると素の人間性が出るのが良い、という点があります。

 これはたしかにそのとおりで、ラジオにハマるにはパーソナリティのひととなりに好感を持てないと厳しいです。ちょっと聴くだけならどうでもいいですが、何年も聴くとなると、やっぱ「こいつやだなー…生理的嫌悪感がとめどなく溢れてくるなー」となれば、無理。

 この場合の好感というのは一般的な有名人に対するそれとはすこし違っていて、スキャンダルを起こしたから嫌いになるなどという話ではありません。ひとは良いところも悪いところもあるので、それらを引っくるめて許容する、業を肯定するような強めの好感です。

 これはしかし、そのラジオリスナー以外とのギャップが生まれます。何年か前の岡村の風俗がどうのという発言がわかりやすいですが「ダメな発言をしたからダメ」(世間)と「ダメな発言だから怒るけど、許そう」(矢部とリスナー)に別れます。ここまでは落とし所を見つけられるのでいいとしても、問題はリスナー内でも分断があり「ダメじゃない発言なんだからダメじゃない!」(原理主義リスナー)という者たちがいるのです。

 ぼくは90年代の松本信者なので、いまだにナイナイのことはチンカスだと思っているわけですが、あの発言以降、岡村のことは好きなチンカスになりました。原理主義者たちとは相容れないものの、まったく擁護できないようなダメなところがある人間だということを知れて、逆に好きになったのです。

 話が逸れますが、いつからかM-1がやたらと人生とか言うようになったでしょう。あれ、ぼくは嫌なんですけど、なにが嫌ってサクセスストーリーの陽の部分が強すぎるところが嫌なのです。
 こないだのM-1もそうでしたが、毎年のように1組ないし2組、めちゃくちゃすべってるやつらがいます。なんで年の瀬にいたたまれないような気持ちにならないといけないのか。

 お笑いファンのひとたちはお笑いのことをよくわかっていないひとたちなので、なんとも思わないのかもしれませんが、ぼくはすべってるやつらを見るとめちゃくちゃいらつきます。最近のぼくは加齢のせいか独り言が多くなっているので「死ねよこいつら」とか言っています。
 それは言い過ぎにしても、M-1の決勝ですべるようなやつらはとっとと荷物まとめて田舎に帰ってほしい。すべって人生が変わったやつらがいてこそ、優勝して人生が変わったやつらが映えると思います。

 ついでに書いておくと、ミルクボーイの劣化版みたいなネタをしてすべってたコンビがいたでしょう。名前も忘れました。M-1なんですから誰もがミルクボーイを連想してしまうのに、あいつらはなにを考えていたんでしょうか。あのひとたち、ちょっと頭が変だと思います。
 審査員の松ちゃんもミルクボーイの名前を出して評していましたが、甘すぎます。ぼくの海馬で仮想生命体として存在する90年代の松ちゃんは「ミルクボーイのチンカスみたいなもんでしょ」と評していました。ぼくもそのとおりだと思います。


6 エミュレータ

 ついさっき、鬼越トマホークのYouTubeでランジャタイの伊藤が出ている回を見ました。この3人は同い年なのですが、ぼくも彼らと同年齢です。
 鬼越のふたりに関しては、同い年のわりに同世代の感覚がなかったのですが、伊藤にはありました。特に、松本信者であり「松本が自分の考えていることと同じことを言っている」という話はよくわかります。

 ビートたけしのオールナイトニッポンのヘビーリスナーだったナンシー関が「たけしの語りは視点だった」とどこかで書いていたんですが、これは松本信者にも当てはまることでして、松ちゃんの発言から視点を逆算し、物事を松ちゃん的視点で捉えることが可能になるのです。だから、松ちゃんが自分と同じことを言うように感じるのは当然で、5で書いた仮想生命体松本90sのようなエミュレータも存在するのです。

 ナンシー関の文体はたけしの語りを文字に落とし込んだものであるように、ラジオリスナーはそのラジオのパーソナリティのパーソナルを模倣する部分があります。語り口を真似するほどのことはなかなかないにしても、価値観を共有するところはある。
 本当はただ模倣しているだけなのにもかかわらず、あたかももともとそのような価値観だったかのように自分自身さえも騙し、自分とパーソナリティの共感を捏造するようなふるまい。

 中高生くらいの年頃なら、ラジオパーソナリティに限らずミュージシャンなり漫画家なり、こういうふるまい自体は珍しくもないでしょう。ただ、当然ながらラジオだけを聴いてひとは生きるわけではないので、ほかの媒体から影響を受け、エミュレータにバグが発生する時が来ます。価値観が変化する時がある。
 その時に、自分が変わったにもかかわらずパーソナリティが変わったと誤認するひとがいます。信者がアンチに変わる時はそういう時です。


7 最近のラジオ事情

 ここまでの話は、ほぼ思春期的な話でしかないですね。ぼくはもう40歳の背中も見えてきたほどなので、こんな話は良いも悪いも、すべてどうでもいいのです。それに実のところ、ちょっとはラジオを聴いているのでタイトル詐欺でさえあるわけですが、すべてがどうでもよくなると「ちょっとはラジオを聴く」という結果になるのでしかたない。

 さらにいえば、芸人以外のラジオも聴いています。ラジニケとか。これは競馬中継なんですが、すべてがどうでもよくなっているぼくが真剣に耳を傾ける唯一の番組かもしれません。冬でも冷や汗をかくくらいです、自分が買った馬の名前がぜんぜん呼ばれない時とか。
 言葉が聴こえないのに感情が動かされるという、ラジオの意義に反しているのにラジオの効果だけは受け取れてしまう番組です。

 細野晴臣のDaisy Holidayもたまに聴いています。この番組はぼくが高校生くらいの頃から放送されていたと思いますが、細野というひとも穏やかかつ淡々としていて、なにもかもがどうでもよさそうです。
 ただ唯一、むかしレイハラカミという40歳くらいで夭折したミュージシャンがゲストに来た時、ハラカミが「細野さんの曲カバーさせてもらいました!」などと話していて、普段は優しい細野が「ふぅん…ありがとう、聴いてないけど」などといじりだして、ハラカミも「ちょっとー!」みたいなリアクションをしていました。その回は、なぜか細野がずっとその調子でいじりつづけ、そのあとすぐハラカミは死にました。

 ミュージシャンでいえば、ちょっとだけAdoのオールナイトニッポンも聴きました。Adoって公称21歳らしいです。でも、声はおばさんみたいだった。ていうかおばさんでしょう。すこししか聴いていないにもかかわらず「34歳だ!この声は34歳だ!」と完全に見抜きました。先日の紅白歌合戦で、はじめてAdoの話し声を聴いたひとも多いでしょうが、そのひとたち全員が「えっ?こいつ34歳?」と疑問に感じたことかと思います。そうです、34歳です。


8 クイズ

 長々と語りましたが、そろそろ課金させないといけません。

2024年になり、ぼくが初めて食べた料理はなんでしょうか?

 ヒントは、チキンライスを卵で包んで、そのうえにケチャップをかける料理です。タダというわけにはいかないので、答えを知りたい方は課金しないといけません。

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