09/01-07


09/01(金) アフターコロナの過ごし方

コロナ禍が人類の黒歴史として刻まれることは確定しています。トイレットペーパーを買い漁り、学校が休みになり、店を開ければ闇営業と陰口を叩かれ、みんな家に籠る。あの騒ぎはなんだったのか。

現在進行形で生きているひとびとがコロナ禍をどのように総括しようとも、どうでもいいのです。コロナ禍の最中からぼくが気にかかっていたのは、まだ存在しない未来の子どもたちからの視線です。完膚なきまでにバカにされるでしょう。

ぼくが子どもの頃、ジジイババアは戦争を経験していました。これはわかります。空から爆弾が降ってきて降らせてくるような世界となれば、物資がなくなるのも、疎開するのも、闇市が開かれるのも、防空壕に籠るのも、納得ができます。ジジイババアが戦争経験を披露する語り部の職に就くのも当然です。しかし、修学旅行のしおりにコロナの語り部が載ることは未来永劫ありません。

コロナはインパクトが弱い。現行世代は強く感じたとしても後進世代にはぴんときません。コロナは、スペイン風邪やペストと比べれば数字が足りず、エイズやエボラ出血熱と比べれば症状が軽い。

個別にみれば大変だったことはあると思います。
ぼくも、ホテルに隔離されていた完治後の父親を車で迎えに行った際、ぜんぜんまだまだ余裕で咳き込みまくっていたので「こいつ、なんらかの方法でいますぐひとがいないとこに捨てなきゃ!海とか山とかに」と海千山千の知略を練るくらいにはコロナを避けようとしていました。
ですが、未来の子どもたちにディティールなんて伝わりません。数字と症状と、集団ヒステリーを起こしていた社会のことが大雑把に伝わるだけなのです。

そんなに騒いでいなかったぼくまでもがアホの世代にカウントされるのは遺憾ですが、それはそれで時代の宿痾として甘んじて受け入れるしかありません。騒いでいたひとびとを糾弾するつもりもないのです。
ぼくが提案したいのは、もっと建設的な、未来の子どもたちへの対策です。恥、かきたくないでしょう。集団でヒステリーを起こすことができるのなら、集団で力を合わせることもできるはずです。みんなで偽史を捏造するのです。

まず、コロナの症状は盛ります。
味覚どころか五感のすべてがなくなることにして、発熱のデフォルトは50℃。
感染したら9割が死ぬことにします、2分以内に。かろうじて生き残った1割も死より残酷な苦しみを味わいますし、そのあと仮に百寿まで生きたとしても最終的な死因はコロナによる遅効性の毒である、ということにします。コロナはひとを2度殺す能力が備わっていた、がキャッチフレーズ。

しかし、そうなると問題は死亡者数です。感染者数との辻褄が合いません。数を改竄するのはむずかしいですし、どうしたものか。
これは言葉を変更することで乗り切ります。癌も心疾患も老衰も、コロナと呼ぶことにします。実際の死因が様々なのは変わらないですが、お医者さんが死亡診断書に記す言葉のうち8割は「コロナ」となります。いますぐ偽造してください。
コロナによる死者数そのものは増やせませんが、机の上では増やしていきます。未来の子どもたちが歴史を習うのは机の上ですから問題ありません。

コロナによる社会の狂乱に関しては、過剰申告するか過少申告するか微妙なところです。ここまでの疾患に襲われて、騒いでいたことにしたほうがリアルなのか、うろたえることなく動じなかったことにするか。
前者を採用する場合は、未来の子どもたちをびびらせつつも惹かれてしまう、人心掌握できるようなエピソードを用意したいところです。

まず、県外ナンバーの車を発見した際は自治体に報告すると爆破処理してくれていた、ということにします。
マスクにも手入れしなきゃいけません。アベノマスクではなくアベノガスマスクが配布されたことにし、医者はすべてペスト医師がつけてた鳥の頭みたいなおそろしい仮面をつけていたことにします。
トイレットペーパーは不足してしまった影響で1ロール200万円を記録、うんこが拭けないため必死に芸をして紙を貰おうとする西浦教授の絵本も作ります。未来とはいえ、うんことハゲに心が躍らない子どもはいません。

コロナ禍での生活もごまかさなければいけない。
まだばりばりコロナ禍の真っ只中に鬼滅の刃の映画が公開され、大量のひとびとが映画館に現れていました。
当時、鬼滅ファンのひとが「これでコロナが大流行したとしたら世間は俺たちのせいにするんだろうな」みたいな心配をしていたのを覚えています。おまえみたいなもんが批判されて傷つくことなんかどうでもいいのです。未来のみんなが背負ってしまう重たい十字架のことを心配すべきだと思いました。

未来の子どもたちに、コロナの脅威を盛りまくって語り「あぁ、自粛生活もやむなしだったんだな」と信用させることに成功したとします。
しかし「でもまぁアニメ映画が公開されたらめっちゃ外出して密集してたけどね、しかもみんな漫画で読んですでに話を知ってるやつ」と言った瞬間、積み重ねてきた欺瞞は崩れ、子どもたちからもブーイングの嵐でしょう。
しかたないので、本当に鬼が現れ、それを滅するためにキモオタたちが武器を手に取り集結したことにします。お医者さんが死亡診断書に書く残りの2割は「鬼」にしてください。

今年生まれた子どもが10歳になった時、まだぼくたちは生きていることでしょう。このままだと「コロナってぜんぜんたいしたことないのに、なんでそんなに騒いでいたの?」としたり顔で指摘してくる若者たちに「あ、あれは経験したものたちにしかわからんのじゃ!」と焦りながら逆ギレする老害と化す未来しか待っていないのです。未来、変えていきましょう。


09/02(土) 水島新司も出ていた

世の中に対するアンテナ感度が強いぼくは知っているのですが、ゴールデンカムイが実写化されます。ゴールデンカムイのラスボスのやつとか、再現度が高いって騒がれていました。

漫画やアニメの実写化に対して文句をつけるひとたちがいるでしょう。ぼくとしては「そんなことよりバイトでも探してくればいいのに」と思いますが、最近はそういう声も少なくなってきました。なぜなら、忠実な実写化がなされているから。

実写版ワンピースもコスプレをがんばっていました。なぜかルフィがメキシコ系でしたが、これはおそらく、メキシコ系役者=麻薬カルテル物=悪=海賊、という差別的等式で選ばれたのだと思います。
ちなみにぼくは、ルフィは金髪碧眼の白人でよかったです。リバーフェニックスみたいな、かっこいいやつ。
基本的に日本の漫画キャラは白人の顔立ちと体型をモデルとしています。純日本人的キャラを描いた大友克洋が評価されたのは、そのような日本人を白人っぽく描くメソッドが浸透しきっていたからです。だからフェニックス。
原画に似てなくても映える役者を選べばよかった。どうせ嘘なんだから。

もはや漫画が実写映画化された時の評価基準は「そのキャラにどれほど似ているか」「原作のストーリーやセリフとどれほど一致しているか」というものになっていると思います。それならもう漫画を読んでればいいのでは、と思いますが、映画制作者たちもお金を稼がないと生きていけないですから、そうもいきません。

加山雄三のブラックジャックとかハリウッド版ドラゴンボールとか、いまだに話のネタにされることがあります。これらはなにひとつ忠実さはありませんし、大コケもするわけですが「原作無視にも程がある馬鹿げたC級作品」として、ひとびとの記憶には残りました。でも、そんな記憶は金になりません。

原作を無視していつまでも批判される映画、原作に忠実だが2時間かけて再確認するだけの映画。
どちらを選ぶかといえば、儲かるほうを選ぶのは制作側としては当然です。しかし、ぼくは制作側ではないのでそんな事情は知ったことではない。原作に忠実な映画は、金をプラスして笑いをマイナスしたものまね紅白歌合戦って感じです。
だからといって、ブラックジャックやドラゴンボールのような映画に対して、むかしの映画秘宝的マインドで、失敗作をバカ映画としてあえて愛でるような鑑賞法をするのも苦手なのです。

なら中間。適度に原作を無視し、適度に原作に忠実な映画がいいと思います。たとえば実写版ドカベンです。
原作では、最初のうちは柔道をやっています。で、そこは映画版でもそのままで、ほとんど野球のシーンはありません。岩鬼の再現度も群を抜いており、ちゃんと葉っぱも咥え続けています。
しかし、原作を無視するところは無視します。殿馬役は川谷拓三ですが、当時36歳だったらしい。「そうは言っても、多少は高校生に見えるように努力しているだろう」と思いながら登場を心待ちにしますが、現れるのは学ランを着た36歳です。しかし殿馬の喋り方はしっかり再現しようとしており、その原作への忠誠心が負の方向へ作用して狂人にしか見えず、観てる側に残された反応は笑う以外になくなるのです。
そして、コカコーラの宣伝も作中で行っていました、唐突に。スポンサーだったんでしょう。興行成績としては失敗したようですが、そうやって金の回収を忘れないしたたかさも備えていたのです。

原作と違うなどと文句を言うやつらを黙らせつつ儲けるるには、原作どおりの作品にする以外にも方法はあるのです。怒っている相手に笑顔を強制するのもひとつ、広告モデルもひとつ。
映画制作者たちは実写版ドカベンを参考にしてほしい。ぼくは心から、そう願っています。


09/03(日) 脱出できず皇帝ペンギンも皇帝ペンギン監視係りも

地球温暖化の影響で南極の氷が溶けて皇帝ペンギンの雛が一万匹近く死んだ、というニュースがありました。イギリスの謎めいた研究チームが繁殖地をずっと監視していて、そのひとたちも「溶けるの急すぎ!」ってびっくりしてました。たしかにぼくも、謎めいた研究チームが撮った衛生写真を見ましたが「急だな!」と思いました。

ただ、それよりもぼくが印象に残ったのは、世の中には南極のペンギンたちを監視する仕事がある、ということです。楽そう。ずっと監視していたとはいえ、四六時中モニターを見ているわけでもないでしょうし、目を離してフィッシュ&チップスを食べたりシャーロックをシーズン1から見直したりしていたわけでしょう。びっくりしていたのともつじつまが合います。シャーロック、ひとつの話が1時間半もありましたから、だから。それにFire Stickについた油も拭け。

おそらくですけど、給料は良いと思います。研究しているひとびとって国からお金が出たりするじゃないですか、ペンギン眺めてるだけでも。どういう面接するんや?野鳥研究会のサークルに入ってましたとか嘘ついたほうがいいのか?
あんまり転職とか考えたことないですけど、ペンギン監視はしたいです。永久雇用でいいです。

しかし、ちょっと不安もあります。
こないだ、ドリュー・バリモアがトーク番組中にいきなり観客の男に話しかけられて「おーまいがぁぃっっっせぇいいえぇすっ!?」って叫んで、秒で逃げていました。タモリの冷静さとは大違い。

おしなべて外国人はオーバーリアクションですから、イギリスの謎めいた研究チームも雛たちが海の藻屑と化した時には得意げに叫んでいたはずですが、それはちょっとぼくできないです。恥ずかしい。しかも温暖化はぐいぐい進んでいくでしょうから毎年やんなきゃいけない、それ死ぬまでずっとってのは厳しいです。3年目くらいからうそのびっくりになるだろうし。

あと、少なからず情も湧きそう。うちの父親も子どもの頃にニワトリを可愛がっていたのに、じいちゃんが絞めて食卓に供してしまったせいで鳥肉が食べられない男になっていました。
だけどまぁそれは情けないですね、ペンギンならまだわかりますけどニワトリは食べ物ですからね。

今日は国際的なダイアリーになりました。


09/04(月) 調味料使わなくなるせいで健康になるのでは

ひさしぶりに餃子の王将へ行ったらすべての調味料が引き上げられていました。店員さんに言えば持ってきてくれるシステムに変更。餃子のタレの瓶に小さい虫が混入していた動画がSNSで拡散されたことを受けての対応ですが、当時は王将サイドを責める声が多かったです。

ですが、はっきり言ってぼくはあんな動画を撮ってSNSにあげたやつを責めます、断固として。
なんでおまえみたいな俗物が自分の醜い承認欲求を満たしたいがために、こっちが一手間をかけるはめにならなければいけないのか。おまえがその場で店員さんに一言「た、たれに、む、むしがはいっでまずよ、どゅふふっ!」と伝えれば済む話であり全店で撤去しなくて済む話でありおまえを出禁にすれば済む話である。なんでおまえがさぼった一言のせいで、未来永劫こっちが一言を伝え続けなければいけないのか。

そもそも餃子の王将は、そういう店なのです。虫、入っているのです。告発者のあいつは自分に酔ってTPOがお留守になっていたのです。
餃子の焼き加減はアルバイトにより当たり外れがあり、調味料の底はこぼれたタレのせいでトレーと一体化し、店の床は油でぬるぬる…いや、いま思えば油ではなくローションを撒いて意図的にぬるぬるにしていたのではないかと思いますが、餃子の王将は、そういう大雑把かつ徹底した品のなさを売りにして巨大飲食チェーンへと成長したのです。

「ち、ちいざいむし、みつけた!こ、これは、ばずるじょ!どゅふぅっ!」と興奮したせいで自制心を失ってツイートしてしまったのでしょうか。こんなにも自分をコントロールできない人間は間違いなく前科がありますし、今後も罪を犯します。
「お、おでは“持っている”おとこだじょ!」とでも思ったのでしょうか。持っていません。持たざる者が勘違いすると、調味料が奪われたこの世界のように、すべてが不幸に陥るのです。

ぼくは世界の幸福を考えています。自分にとってちいさなマイナスだったとしても、全体としておおきなプラスとなるのなら、それを選ぶのに迷いはないのです。
翻って、持たざる者のおまえは?え?おまえの行動で、誰が幸せになったのか?客も店員も手間が増えただけ。われわれの時間を無駄に減らし、労働量を無駄に増やし、誰ひとりとして幸福にならない不幸を産む機械、それがおまえだ。ダーティーでイリーガルな雰囲気をまとっていた社長が殺されてしまったのが口惜しい。存命のままなら、こんなやつはかんたんに闇へと葬っていたはずです。

ぼくは餃子の王将に行くと、雑に遊び半分で調味料を使います。気分によっては、からあげにラー油をかけたりもします。
でも餃子を頼んでいないのに「私にラー油をいただけますか?」とは言いにくいです。「?おまえ、ぎょうざないのに、なんでラー油がいるんだじょ?」と店員さんに言われてしまいます。それでも言うべきか、どうか。この逡巡も持たざる者のせいなのです。

ここまで語っても、ぼくの味方になる者はいないでしょう。だけど、ぼくはひとりでも戦います。小さな虫が入ってた餃子のタレをツイートしたあいつを、絶対に(絶対に!)許しません。


09/05(火) 名前をてきとうにつけるあたりも良い

「大江健三郎文庫」というのが東大に開設されるそうです。文庫と名がついていますが、自筆原稿なんかが研究者向けにアーカイブ化されるだけみたい。なんで文庫なんや。

東大ではないぼくは大江健三郎全集を買い集めていたのですが、途中でやめてしまいました。なんでやめたか、それは後期の大江が初期と比べてぴんとこないからですが、ということは初期は「ぴんとくる!」と思っていたということです。

どこまで初期なのか、ぼくは研究者ではないのでわからないのですが、ノーベル文学賞の決め手となった「万延元年のフットボール」までが初期、とぼくが決めました、いま。
このちょっと前から小説内に障害者の子供は出てきますが、まだ大江はキレキレの頃なので「障害のある子供きついわ…育てるか、もしくは首を絞めて殺すか…?」みたいなことを書きます。もっと初期にさかのぼると、黒人を飼って最終的に殺してたし、こいつ、本当に憲法9条を守る会の発起人なんか。

「万延元年のフットボール」でいえば書き出しからガチ感があり、冒頭から尻にきゅうりを挿して自殺した友人の話から始まっていました。そのあとも、スーパーのオーナーやってる朝鮮人から略奪するためにフットボールチームを組織したり、知的障害のある妹を強姦して自殺に追い込んだり、そもそも初期の大江の小説はオナニーやセックスの描写も多いし、全体的に性と暴力ばかりでうんざりします。うんざりしたいなぁ、という時に読むにはちょうどいいと思います。
そしてノーベル文学賞の受賞決定は、それらの極地のような「万延元年のフットボール」が決め手になっていたらしい。どのツラ下げて受賞会見してたんや。

後期に関しては褒めるひとも貶すひともいますが、むかし読んだ際、ぼくにはそれすらも判断できませんでした。ぼくの頭では、後期大江を読み解くためのなにかが決定的に足りていないということなんだろう、と。後期に入るとむずかしいんですよね、初期のようなキレキレ感もないし、なに書いてあるのかもよくわかんない。
ただし、これは死ぬ間際の大江も反省していました。「あの頃はむずかしく書きすぎていた」って。もっと早く言え、俺バカなのかなって心配になってたんやぞ。

でも、なんだかいまのぼくは後期もわかるような気になっています。そろそろ足りているのでは!?と。やっぱ足りてなかった!ってなるかもしんないですが、まぁ。


09/06(水) あいつはでかいだけ

バスケットボール。ワールドカップなんですかね、あれは。アナウンサーも「五輪出場を賭けまして!」とか言うし、けっきょくなんなのかはわかんなかったですけど、やってました。

日本代表のなかにホーキンソンっていう外国人選手がいて「ずるじゃん」って思いましたけど、よくよく見ているとホーキンソンは最初から最後まで一生懸命がんばっていましたし、そもそも日本国籍もちょっと前に取得したらしい。ずるしてる!と思ってすみません。
それにひきかえてNBAでプレイしているという触れ込みのワタナベという巨人は、なんだかコート内をうろうろしているだけでした。おそらくNBAって嘘だと睨んでいます。「でかいだけじゃん」って思いましたし、見終わったあとも「でかいだけじゃん」って思いました。

しかし、小学校や中学校の休み時間にプレイしたことがあるバスケ経験者のぼくからしますと、一見バスケにおいて「でかい」というのはプラスかのように見えますが、実はそうでもないです。でかい小学生っていましたけど、べつにうまかった印象もないです。バスケにおいて重要なのは、でかさでも技術でもなく気合いです。

ぼくが子どもの頃にやっていた時は、トラベリングとかなかったです。トラベリング!って知ったかぶって言うやつはいた気がしますが、なんていうんですかね、ほとんど適用されたことがない法律ってあるでしょう。決闘罪とか国旗を破壊する罪とか、そういうの。トラベリングも含め、バスケのルールって全部それなんですよね。
とりあえずダムダムッてしながら突進、投げる!これです。要するに、どういうことかおわかりでしょうか。気合いが大切ということです。

その点、ホーキンソンは気合いが溢れていました。あと監督。タイムアウトした瞬間に怒っていました。カメラで捉えられているにもかかわらず、いまどきあんなに怒るやついますかね。こわいです。
そういう時、ワタナベは場の中心に居座っていまして「あ、こいつは怒られ役ってこと?的がでかいから殴りやすそうだもんな」と思っていたら、監督と対等な感じでなにか答えていました。おまえは口を開く前にやることがあるんじゃないのか?
先に書きました通り、バスケは無法の世界です。その世界で生きるためには最低限の気合いは持ち合わせていないとダメなのです。


09/07(木) 考えたら寿司はよく食ってる

宮台真司っていう、ちょっと前に刺されていた社会学者のひとが炎上していました。トリチウムが生体濃縮される、っていう珍説を披露して。おかげで、ぼくはトリチウムが生体濃縮されないことを知れてよかったです。処理水トークの際に恥をかくところでした。

知恵が足りないぼくが判断するに、どうやら処理水は科学的に問題ない。まともで賢そうなひとたちがそう言っていました。
そういうひとたちのなかで、あまりまともではなさそうな三浦瑠麗がおさかなの写真をたくさんあげていまして、しかしどれもこれも金持ち感が溢れ出る絵ばかりでした。フカヒレとか。
「処理水は問題ないのだ」ということで、おさかなパクパク運動を意図しているのはわかりますが、その写真では意図がずれて伝わるのでは?と思います。処理水云々より格差を意識せざるをえない写真。パクパク運動をしたいのなら、タラタラしてんじゃねえよを食べるべきじゃないでしょうか。

処理水の話ですが、ぼくが思うに1ヶ月もすればみんな忘れていると思います。その程度の記憶力のやつら、仮に毒のおさかなを食べたとしてもべつにいいのでは、とも思っています。
そもそも30年くらいかかるらしいです、処理水の処理。そこまでおさかなパクパク系の舌をしていないぼくでさえ、30年もゼロパクパクはちょっもきびしいものがある。というか、こないだもワンスシスシを食べたところですし、いまもスリータラタラを食べたところです。

最近、会社の売店にタラタラしてんじゃねえよが大量に置かれています。処理水問題が政争の具となり、それによる混乱への反射としての、おさかな食べようキャンペーンということなのでしょう。
さっきは三浦瑠麗に「フカヒレばっかり食うな、タラタラも食べなきゃダメだろう」という気持ちでしたが、なんだかうちの会社が恥ずかしく思えてきました。三浦瑠麗の夫もおなじ思いのはずです。いま、ぼくは彼の気持ちがすべてわかりました。

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