09/08-14


09/08(金) 終わったあとに話し出す

京都みなみ会館というミニシアター系の映画館が閉館するということで、惜しむ声が続出していました。「なくなることが決まってから騒いでも遅い」というのは正論ですが、その正論が挙げられたのが惜しむ声が挙げられたあとである以上、その正論は二歩も遅いのです。
ぼくはそこまで惜しくも思っていないのですが(ほかにも映画館はあるので)、あの映画館に携わっていたひとたちは(配給会社に勤めていた同級生とか)知っているので「たいへんだなぁ」とは思います。

ミニシアター系と書いたので、おしゃれな単館系の映画館を想像するひともいるかもしれませんが、まったくちがいます。少なくともぼくのイメージとはちがいます。
wikipediaのトップに載っている写真は公共施設のような立派さですが、これは近年になって建て替えたあとのものです。もっとボロかったし、おしゃれでもなかったです。
どのくらいボロくておしゃれ感がなかったかというのは、そもそものはじまりがパチンコ店の2階に作ったという事実だけで充分でしょう。

ぼくが足しげく通っていたのは15年から20年くらい前の話なのですが、その頃にも椅子の入れ替えがありました。「椅子入れ替えました!!」と大々的に言っていた気がします。館が。
たしかにクッション性があがっていましたが、その頃はオールナイト上映が頻繁に行われており、それに耐えられるほどのクッション性ではなかったです。眠くならないのが利点。三か四、そのくらい連続で映画を観るとなると、観たくない映画も一か二はあるので眠くなるのです。それに夜中だから、オールナイトっていうのは。

そのあと、ぼくは大阪の中心部に根城を構えることになるので、京都みなみ会館にはほとんど行かなくなりました。単館、空中庭園にあるから、梅田の。綺麗だし、背も高いし。パチンコ屋の2階とはちがうのです。逆に毎日放送の近くにある単館は違法賭博感がありましたけど…客層のツラがまえもそんな感じだったし、それはそれでまぁいいでしょう。

今回の閉館は、ぼくが行かなくなったあとにろくな映画を配給できなくなったり、建て替えたのにコロナ禍が直撃したり、なんだかそういう理由があるらしい。どうせ金がないんなら、ぼくは建て替えなくてよかったと思います。
老朽化していたらしいですが、京都みなみ会館に通うような人間は上映中に地震が起こり死んだとしても本望だったはずです。ぼくはいやですけど、ほかのひとはそうだったはずです。そんなツラがまえをしていました。
それに、公民館っぽくなると逆に行く気なくなるというか、勉強しに行くみたいでしょう。社会見学み。

なんにせよ、終わるものは終わるという話でした。


09/09(土) 回避不可能

京都みなみ会館で観た映画の話を始めますが、タイトルは「福田村事件」。関東大震災直後に香川からやってきた薬売りの行商が千葉の村人たちに虐殺された話です。

くわしくはネットで調べてくれればいいんですが、もしぼくが香川の薬売りだとしたら回避不可能ですね。ろくに武器もないし、子連れだし、そんな状態で旅をしていたということは平和ボケに近いはずで、士気も低いでしょう。手持ちのアイテムも正露丸では、そんなのでは。

しかし、千葉側だとしても回避不可能だったと思います。虐殺を止めるひとになれたならかっこいいんですが、ぼくにそんな胆力はないです。
殺したい気持ちは生まれないまでも、まわりの村人たちは殺気をまとってカマを素振りしてるわけですし、ぼくはぼくで「ゔおおおっ、ごろぜぇぇぇぇっ(たくさん濁音を使って朝鮮人ではないことをさりげなくアピール)」と叫びながら、うしろのほうでクワを素振りしていると思います。

どちらにせよ回避不可能ということです。
個人単位でいえば殺した側が裁かれるのも、殺された側が慰霊されるのも当然ですが、集団単位でいえば回避不可能でもあります。去年、韓国で群衆雪崩が起こっていましたが、ああいうのって限りなく災害に近い人災って感じで、巻き込まれた時点で自分の意思に関係なく加害者と被害者を兼ねてしまいます。

回避不可能な事柄を回避可能と判断された時、攻撃が起こります。ハラスメント被害に対して「嫌だと言えばよかっただろう」とか、痴漢被害に対して「夜道をひとりで歩くからだ」とか。
おそらく、福田村のぼくに対しても「いや、クワあるんならそれを使って殺しを止められたろ?」とか言うやつはいるでしょう。でもぼくは綿密なシミュレーションをしているのでわかるのですが、こんなにも濁音を使わないやつは当時の福田村では秒で川に流されて終わりです。

本当はジャニーズの話をしたかったんですけど、うまくつながらなかったので今日は寝て終わりです。


09/10(日) 増殖

ちいかわのキャラ増えすぎじゃないでしょうか。
以前から怪しんでいましたが、作者はとんでもない銭ゲバだと思います。こないだ熊本に行った際も、あんな人類未踏の僻地にもかかわらず、ご当地ちいかわたちとエンカウントしました、ひとよりも多く。作者よ、落書きで食うメシはうまいか?

しかし生き馬の目を抜く現代社会、たとえ人倫にもとる悪どいやり方をしようとも金を稼いだ者が笑う、それが世の常です。
悪が負けることもあるにはあるでしょうが、金は幅です。金があれば自由も可能性も選択肢も、幅が広がるのです。金がすべてではない、という文句はそのとおりではあるのですが、金がちょっとしかなかったらちょっとだけ幅が残っているという話でしかありません。
つまり、金があればあるほど負けた際のリカバリやリスクヘッジも容易であり、実質的に負けが負けでなくなることを意味します。

貧すれば鈍する、という言葉があります。貧しくなると頭も鈍くなるし、ひととしてもろくでもなくなっていく、という意味ですが、金がなかったら単純に物理的な動きも鈍くなります。どこにも行けない/行かないので。
ただ、ネットが基本インフラとなった現代、動かぬ貧者たちはネット上でぐちぐち言うことが可能です。むしろそれしかすることないから。毎秒のようにネット上で発言してるひとびとが鈍の者しかいないのは、要するにそういうことです。
お金はあればあるほど、鈍から敏な思考に近づくのです。

「でもちいかわの作者も毎日のように更新しているし、鈍でもないし、ましてや貧じゃないし」と、そんな声も聞こえてきます。きました、いま、ぼくの脳に。
それに対してのぼくの反論は「むむむ…」ですけど、まぁあれはあいつの内職ですから。あと発言なんかろくにしないし。ていうか生身で発言するのがダメなんじゃないのか、と思えてきました。おじさんが言うとアウトだけど、ちいかわに言わせるとセーフってことはあると思います。ちいかわはまともに言葉を発しない、めちゃくちゃ鈍の者ですけど。


09/11(月) スポーツ浸透案

ラグビーワールドカップ、日本vsチリ。見てると、金髪のちいさいやつがいて「部外者が勝手にグラウンドに入っちゃダメだろう」とワールドのみんなは思いこんでいましたが、どうやらラグビー選手だったらしい。
すべてのラグビー選手は黒髪短髪ずんぐりむっくりであり金髪のチビなんて存在しない、というのはカビの生えた常識なのです。めっちゃ走るの早かった。ラグビー選手が走る時の擬音は「どたどた」のはずなのに「しゅばばっ」って鳴ってました。

バスケにサッカーにラグビーと、なんだか最近スポーツづいていますが、代表戦というのは非日常的なお祭りですから、それが終わると何事もなかったかのように消えていきます。日常に、お祭りが座る椅子はない。

あるスポーツが世に浸透し金になるには、いろんな要素がありますが、ひとつは肉体への負担量があると思います。見られる側と見る側の。

選手がどのくらい試合数をこなせるかというのは、そのスポーツがひとびと日常にどれくらい浸透してるかに関係してきます。見る側の負担は、スポーツの内容に関係します。

野球が市民権を得られたのは、スポーツとは思えないほど選手の肉体的負担が少なく試合数をこなせて、観客目線では間が多くてだらだらと見られるからです。
意識して見てみるとわかりますが、野球をプレーする選手たちは試合中のほとんどの時間を静止して過ごしています。おそらく、試合中の彼らの運動量は交通誘導の警備員とおなじくらいのはずです。

しかし「ヨーロッパで浸透しているのはサッカーじゃないか!」という意見もあると思います。たしかにサッカーは肉体的負担が大きく、選手は動きっぱなしなので見る側も目を離す隙がありません。ですが、見る側の負担が大きいとは言えないです。
サッカーはルールが単純です。適切な訓練さえ施せば、おそらくオフサイド以外のルールは霊長類なら理解できるはずです。肉体的制約を除けば、知能的にはアシカくらいでも理解できると思います。
サッカーは走りっぱなしなので、ずっと見てなきゃいけないですが、単純すぎるルールは観戦者の処理能力の負担を和らげてくれます。テトリスを延々とプレイできるのとおなじ理由です。

日常に浸透しないスポーツは、選手に対しても観客に対しても負担が大きいところがあります。
ラグビーなんて選手への負担が大きくて試合数をこなせないし、見る側も休むひまないし、ルールに関しては処理能力以前に意味不明なレベルです。選手本人もわかっていないでしょう。
あるスポーツを世に浸透させたいのなら、そのスポーツへの負担を調整する必要があります。あまりに減らしすぎずてはダメ、でも増やしすぎてもダメ、適切な負担量を設定。

具体的な案は思い浮かびませんが、まず最初に話した金髪のチビは角刈りと黒染めをし、肉をたくさん食うことです。ステレオタイプな認識は、見る側の負担を和らげます。ラグビー選手は黒髪短髪ずんぐりむっくりというカビの生えた常識にハイターをぶっかけるような真似をする必要がありません。紋切り型があるのなら積極的に紋を切っていったほうがよいでしょう。


09/12(火) ババアすぐ去ってった

スーパーに買い物へ行ったら、ババアに話しかけられました。「味つけ海苔どこですか?」って。ぼくを店員さんとまちがえているか、ボケているか、現代社会で生きているとは思えないフレンドリー感覚の持ち主なのか。
とりあえず探しに行きました、味つけ海苔。

むかし、さまぁ〜ずの大竹が「はじめて行ったデパートでもトイレの場所がすぐにわかる」と言っていて、そういうの、なんとなくの経験則でそれなりの精度を持って当てられるというのはわかります。

だからぼくも味つけ海苔の発見くらいはお安い御用だとばかりに、パーティにババアを加えてアイテムの探索をしたんですけど、これがですね、まったく見つからなかったです。

途中から「ていうか味つけ海苔ってペラペラの乾燥させたやつだよな…ごはんですよ的な佃煮のことじゃないよなぁ…でも一般的にそうだとしても、ババアは佃煮のほうを味つけ海苔と言っている可能性ある。だってババアだし、ファミコンもプレステもピコピコって認識するのがババアだし」などと思考を張り巡らせつつ、自分の勘の悪さと、このスーパー独自の商品設置法則にげんなりしました。

ふつう、乾燥わかめのとこか、せいぜいふりかけのとこあたりにあるんじゃないですかね、ペラペラの乾燥のやつ。スーパーのパートに入ればまず「味つけ海苔は海のとこ!」って教えているはずでしょう。朝礼でも復唱しているはずです、みんなで。

ババアが怒り出さなかったのがせめてもの救いってとこです。ただ、ドラクエでパーティの仲間とお話しできる機能がありましたけど、このババアもよく喋ります。こっちは機能使ってないのに。子どもや孫のこととか話してました。
孤独で貧乏なボケたババアの可能性大と判断していたのですが(知らないひとに平気で話しかけてくる行動原理と見た目で)、フレンドリー型ババアだったみたいです。孫たちがどうこうってのも妄想の可能性はありますが、ただまぁ会話はしっかりできていたので。

結果的には…ああいうとこ、なんていうんですかね。平置き?平積み?目玉商品を置くポップ付きの特等席といいますか、本日の主役として抜擢される場所といいますか、商品棚を上から見て長方形とした場合の短辺にあたる部分に置いてました。
元々のポジションにもちょっとは置いとけよとは思いつつも、安心しました。あそこに置かれると法則性の外側です。ぼくの勘が悪かったわけではないのです。今日の朝礼では「味つけのりは主役の場所!」ってみんなで叫んでたんでしょうけども、ぼくはそこのパートさんではないのでね。

09/13(水) ぼくは怒っています(漫画に)

Twitterのトレンドにあがっていた「東京最低最悪最高」という、Twitterのトレンドにあがりそうな漫画を読みました。

旧来の価値観に支配されている地方と自由で進歩的な都市とか、そこからくる男尊女卑とか、もはや古典レベルの題材を工夫もなく適当に煮詰めただけで、それ以上のものはなにもない漫画でした。その手のTwitter漫画を切り貼りしただけのような感じ。作者のスクリーンタイムはTwitterで埋まっていることでしょう。

お絵描き素人がTwitterに載せてるぶんには「この程度がバズるにはちょうどいいか」って感じの話ではあるんですけど、これ、ネットとはいえ一応は商業誌レベルで発表されているんですよね。
さすがにこれを通すのは編集者がなめすぎサボりすぎ考えが足りなさすぎだと思います。マシリトなら燃やしていたところです、原稿と作者を。

いま、この手のテーマの漫画は本当に多いですが、それでも採用するというのなら、もっともっと練らないと見てらんないです。手塚文化賞を獲った「女の子がいる場所は」ってありましたけど、ちゃんと角度を変えたり趣向を凝らしたりしているのがわかります。

SNSでバズるためには、ステレオタイプで、どこかで見たことある表現を再確認させるだけの漫画が手っ取り早いのかもしれないし、実際トレンドにあがっている以上は勝ちなのかもしんないですけど、いくらなんでも志が低すぎます。

ぼくはジョジョシリーズだと「6部つまんないなー、読み直すたびに風水ジジイあたりでだるくなる…」と思いますし、ジョジョリオンもクワガタを戦わせるところ以外は「いつまで経ってもぜんぜん盛り上がらない…」って感じでしたけど、荒木はちゃんと志を持って描いているのが伝わります。
ていうか数十年も連載してたら、そりゃつまんない時期もあるでしょう。6部の頃なんかはスランプだったんじゃないかと思います。
しかし、それでもぼくが新シリーズのジョジョランズを手に取るのは「荒木は常に本気で描いているはずだ!」という信頼と「おまえが本気なら、こっちも本気で読むぞ!風水ジジイの時みたいなノリになったら…まぁ適当に読むけど…」という気持ちがあるからです。

漫画はフィクションであり、元も子もない言い方すると嘘なわけですけど、本当のことじゃない以上は本気で描かないとダメですね。
商業誌ベースである以上は金を稼がないといけないのはいいとして、だからといって適当に時勢に乗っただけの手抜き漫画を出していい理由にはなりません。そんな人間たちはおしなべて信用できないし、すべきではない。ああいう漫画は、はっきりとNoを突きつけて速やかに駆逐すべきだと思います。

文句ばかり言ってても悲しくなるので、おなじようなテーマでのおすすめも書いときます。
「凪のお暇」という漫画がありました。「東京最低最悪最高」が三万いいねなら、二京いいねはつかないとつじつまが合わない漫画です。
長期休載していましたが再開したといううわさを聞きました。こういう冨樫イズムは「本気で描かないとダメ」という話と矛盾しそうなのがこわいですけど「いや、冨樫は本気で下書きを載せているし、本気で休載もしているんだ」という理屈で乗り切ります、ここは。


09/14(木) 京都のやつもオーバーツーリズムを我ごとのように語っていた、修学旅行生ばっかりなのに

ベネチアが入場料を設定するらしい。街のです、街の入場料。街に入るのに800円くらい必要になるのです、オーバーツーリズム対策の一環で。

とある場所が観光地、もしくは観光スポットになるために必要な条件というものがあります。でかさです。その場所が観光地になるか否か、それはすべて「でかいか、ちいさいか」。この一点だけです。

自由の女神にせよスカイツリーにせよエアーズロックにせよ万里の長城にせよ、なぜひとが集まるのか?単にでかいからです。物理的なでかさだけじゃなく、時間の積み重ねというのも、広い意味でのでかさの範疇に入ります。

観光地とまではいかないまでも、行楽地でも考えてみてください。海とかキャンプ場、ここにひとが集まる理由はでかいからなのです。動物園の花形はゾウやキリンであり、プレーリードッグが葉っぱ食ってるとことか…まぁいちおうは見ますけども、そんな下等生物は入園直後のウォーミングアップアニマル、もしくは箸休めでしかありません。

逆に、がっかり観光スポットに挙げられる小便小僧や人魚姫、マーライオンなどはすべてちいさい。ちいさいがゆえにがっかりなのです。
小便小僧が高さ300メートルだった場合、がっかりスポットになんてなりません。がっかりなんてするひまもなく、この世のすべてを泡沫に帰すかのような大量の小便に畏敬の念を抱くはずです。

ベネチアには年間に550万人もの観光客が訪れるそうです。ちょっと前に炎上していた、オーストリアのハルシュタットという人口700人ほどの山と湖の街は、多い時には1日に1万人ほどが訪れることもあるらしい。

観光地は観光が資金源です。観光客がいないと困る。しかし、あまりに多く来られると、もともと住んでいるひとびとの生活が脅かされますし、ひとびとを惹きつける固有性があるからこそ観光地化されたにもかかわらず、多様な観光客に合わせた街づくりがなされてしまうと平均的な街に近づいて固有性が損なわれる危険性がある…と、かしこそうなひとが言ってました。

ぼくも負けじとかしこいことを言いますが、オーバーツーリズムの問題は、でかさが足りていないからなのです。わかりますか?かしこくないひとたちのためにもっかい言いますが、でかくないから!です。

面積と人数の塩梅が適正量から大きく外れているからです。単純にひとがいっぱいいると問題も発生しやすくなりますし、将棋倒しが起こるのも、そういうことです。
そうなると答えはひとつ。論理的に考えて、ベネチアやハルシュタットを広げるしかありません。ろんりてきにかんがえて!です。

ヨーロッパの地図を開いて、イタリアやオーストリアを指さすことができるひとは多いと思います。イタリアは長靴のかたち、オーストリアは魔法のランプのかたち。
しかし、ベネチアやハルシュタットのかたちを思い浮かべられる日本人は少ないと思います。ハルシュタットにいたっては場所さえ怪しいのではないでしょうか。
ちなみに、ぼくもいま調べましたけど、ベネチアもすこし靴っぽいです。イタリア、なんでこんなにも靴にこだわるんや。

かたちがわからない、ということはかたちを変えてもわからないということです。ベネチアの近くにある島もベネチアにすればいい。観光客たちにはバレないでしょう。飛行機に乗って連れられていくだけですから「ここがベネチアだ!」と言われれば「ここがべねちあなのだ!」と思うだけです。
ハルシュタットへ向かう客たちにいたっては滋賀あたりに連れてってもバレないでしょう。ありますからね、山と湖。

オーバーツーリズムは観光客がオーバーしているということですから、場所をオーバーさせれば解決する。ヨーロッパたちはシンプルな思考を持ち合わせるべきなのです。


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