「君たちはどう生きるか」感想


 まったく宣伝をせず事前情報がない、というのは映画においてあまり意味がなく、予告編なり監督のインタビューなりがあったとしても結局は観終わるまでは評価を保留するしかありません。本質的に賭けでしかないので、映画。

 ただ、宮崎駿が80歳を越えた老人であることはあらかじめわかっているわけで、そのうえで観に行って欠点を指摘するのはシンプルに敬老の精神が足りないのです。じじいなのだから欠点などあるに決まっている。それを得意げに指摘するのは、足が不自由な後期高齢者が横断歩道を渡っている途中で赤信号になり、鬼の首を取ったかのようにクラクションをかき鳴らすような真似であって、それが本当に君たちの生き方か。
「耄碌してるだろうけど、多めに見てやるから気にせず続けて続けて!」という寛容な度量をもってして映画館へ足を運ぶべきでしょう。デイサービスの運転手のような気持ちで。

 おもしろい/おもしろくない、という基準に則れば、おもしろくはない。とはいえ、誰もいまさらラピュタのような物語を求めて足を運んではいないでしょうから、そんなのは瑣末なことです。しかしそうなると別の基準を導入しなきゃいけません。

 映画のメインとなる舞台は、時空の概念が歪んで金玉と子宮の機能を兼ね備えた駿の内面世界といった趣なので、シンエヴァを評価する時のものさしを持っていくのがいいと思います。「シンエヴァなんて観てない!ほかのものさしをよこせ!」という方もいるでしょうから解決策も提示しておきます。まず旧エヴァからのすべてを観たうえで「君たちはどう生きるか」を観に行ってください。

 ぼくは芸術云々については疎いのでわかりませんでしたが、物語を借りて駿からのメッセージがあるとすれば「もうこれでワシは終わりなのじゃ」であって、内容としては陰気です。

 タイトルを借りてきた「君たちはどう生きるか」という小説は戦時中に書かれた人生読本で「少年少女たちを時勢の影響から守りたい」「希望を次の世代に賭けたい」という、つい反発したくなるほど正しすぎる思いから書かれたものです。
 著者はTwitterが凍結されたことでおなじみ「世界」という雑誌の初代編集長であり、当然のことながら左翼的でヒューマニズム的で日教組的な内容で、駿が好きそうなのはよくわかりますし、なにより戦時中とは思えない明るさと前向きさです。

 しかし本映画のメッセージとは相容れぬ内容なので、ここでこのタイトルを持ってくるというのは、駿がシニカルな気分になっているのだと思いますし、じじいのくせに拗ねるな、とも思います。

 クリント・イーストウッドが「グラントリノ」を撮った時は80歳近い年齢で、内容を観ればわかるとおり、イーストウッドは明確に映画人生の終わりを意識していました。なにせ死ぬので、最後。その前の「ミリオンダラーベイビー」はじじいが若者に意思を託そうとして看取る映画で、その次が「グラントリノ」ですから、この頃のイーストウッドは自分の最後について考えていたのだと思います。

 しかし近作である「クライマッチョ」では、齢90を越えているにもかかわらず、死への意識が忘れられていたのです。主演のイーストウッドは当然よぼよぼなのですが、知人からの依頼で子どもを助けるためにマフィアのもとへ向かい戦います。頼むほうも頼むほうですが、いずれにしろこの映画でのイーストウッドは、せいぜい40代〜50代くらいの設定じゃないと通用しない内容になっています。というか、本当に40歳だと思い込んでいる。痴呆なのでしょう。

 そういう痴呆的映画というのは、意外とありません。年寄りになっても監督をさせてもらえるというのは、類稀な実績を残した者だけの特権であり、それはおのずとまわりからの忠言ももらえないということでもあります。いくら下っ端が「え?馬に乗るって…死ぬんじゃないの?」と思ってもイーストウッドに言えないでしょう。イーストウッドが乗るって言ってるのだから。

 黒澤明の「まあだだよ」という遺作も、いまの駿とおなじ、かつ「グラントリノ」の頃のイーストウッドあたりの年齢で撮られてました。
 この映画は作家の内田百間と太鼓持ちの手下たちがつまらない飲み会をしたり、飼い猫がいなくなって悲しんでいるだけの映画で、全編を通して開いた口が塞がらない内容なのですが、そもそも黒澤に「ウケる映画を撮るぞ」という意識自体がなく、ただただ自分が撮りたいであろう画を撮っているだけ、しかもなぜそれを撮りたかったのか一切わからないし、それを伝えるつもりさえあるとは思えない、いくらなんでも開き直りすぎだろうということで、こっちの口が開いたままになる映画です。
 断言しますが「まあだだよ」を撮った時の黒澤は観客のこともスタッフのことも興行収入のことも一切なにも考えていません。

 その点、駿の映画は言いたいことがわかりますし、この絵を描きたかったんだな、というのも伝わってきます。観客へのサービス精神もあります。
 あまり希望はない映画ですが、現時点で黒澤的な開き直りの域に到達できなかったのなら、もはやイーストウッドのような加齢による痴呆に賭けるしかない。「クライマッチョ」のイーストウッドは前向きで「明日から俺はどう生きようかな?」と未来に向けて自問自答しているかのようでした。明日どころか5秒後に死にそうな老体なのに。

 最後になって急に思い出しましたが、石原慎太郎が死ぬ間際、たしか文芸誌の「群像」で、やたらと弱気な泣き言を語っていたことがありました。あの石原慎太郎がなよなよしている!?とびっくりしたのですが、やはり死が目前に迫りつつ、しかしいつ現れるかはわからない、となるとたいていみんな憂鬱になるのでしょう。ぼくは老人じゃないのでよくわかりませんが、イーストウッドを見る限り、それは一過性かもしれないので、いまは駿も拗ねているかもしれないけど、あと十年くらい生きてみればいいんじゃないでしょうか。





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