10/15-21


10/15(日) これ頭にかぶるようなのでは

数日前、ポストに紙が入れられており、読んでみると「近くの神社でお祭りするから来てね!抽選でお米や野菜が当たるかも!だから来て!」と必死な筆致で書いており、はしっこに大きく「329」と記してありました。これがお米や野菜がもらえるかもしれない数字らしい。
とりあえず神社へ行きました、ひとりで。

その神社はちいさいのですが(どのくらいちいさいかというと、ファミマ4軒分くらいです)、ひとはたくさん来ていました。
こんなにもお米や野菜を欲しがるもんかね野人どもは…とうんざりしましたけど、ぼくも「オコメ…ヤサイ…」と独りごちる野人なわけですし、おとなしく抽選が始まるのを待ちました。

結果をいえば、当たりました。お米が3kg、あとおおきいかぼちゃ(どのくらいおおきいかというと、ファミチキ30個分くらいです)。しかし、だいたいのひとに当たっていたようです。
ぼくの数字は329でしたが、さすがに数百人も来ていたわけではないですから、そりゃまぁ当たるんでしょうけども、じゃあ神社サイドはどれだけのお米とかぼちゃを用意していたんだ?という疑問も残ります。
ですが、野人のぼくにその疑問を解決する術は持たないので、お米とおおきいかぼちゃを持って帰りました。恥ずかしかったです。

で、これどうしたらいいのか。特にかぼちゃ、おまえや。途方に暮れています。


10/16(月) 公に認められていないようなやつが公式マークつけてる時点で信用できない感じ

Twitterで、スイスのとある風景がドンキーコングに似ている、というツイートがバズってて「画像生成じゃん」って叩かれていました。

まず本当か嘘か以前に、さな姉なる者が語る言葉すべてが嘘っぽいという問題があります。ひととして信用できない感じのアカウントってあるし。それがさな姉、おまえだ。

さな姉なる者は「AIで加工された画像じゃん」と叩かれており、それはまぁかわいそうだな、でいいんですけど、さな姉なる者にも落ち度はあります。ツイートをする前に「私のようなごりごりの承認欲求を感じさせる人間がこんなん貼っても信じてもらえないよな…よし、死のう!」と、自省と自制をしながら辞世の句を述べるべきでした。

バズっているツイートが本当か嘘かを判断する絶対的な基準はないですが、ひとつあるのは発信しているアカウントが「バズろうとして必死になっているか」という点です。バズろうという気持ちが希薄なほうが信用できます。
さな姉なる者は、バズろうと思って必死な、アテンションエコノミーの落とし子たちって感じのアカウントなわけですから、そんなのが発信したところで疑われて当然なのです。

さな姉なる者の話が長くなりましたが、さな姉なる者はどうでもいいのです。ドンキーコングの生成画像なんかもどうでもいい。
イスラエルとパレスチナの件でも偽画像が出回っていましたが、フェイクが跋扈する世界では、むしろ原始的ともいえる信用の問題、つまり「なにを言うか」ではなく「誰が言うか」が重要になってしまうということです。いちばんかんたんな判断基準ですから。
ぼくもさすがにさな姉なる者は信用しないですけど、BBCと称されたら「これは本当なんだろう!BBCが何の略かも知らないけども!」と信用してしまいます。

というか、先に「イスラエルとパレスチナの件でも偽画像が出回っている」と書きましたが、ぼくは見ていません。「偽画像が出回っている」という情報が耳に届いただけで、偽画像自体は目にしていない。みんな、どこで偽画像を見ているのか。
こういうことってよくあるんですけど、こういう時のぼくは、さも偽画像を見たかのように話します。気をつけてくださいね。


10/17(火) くちひげのせいでもある

谷村新司を悼む文章が各所メディアで書かれ、まじめな媒体ではアリスやサライという言葉が、ふまじめな媒体ではビニ本やオカルト陰謀系の言葉が、それぞれ踊っていました。ただ、後者のどすけべ関連エピソードの踊りがもっとも激しかったです。

ひとはひとに忘れられた時に死ぬ、という言い回しがありますけれど、谷村への追悼を眺めていると「ビニ本みたいなもんでも集めとくものなんだなあ」と思います。残念ながら、アリスやサライについて語っているのは堀内や加山であり、軟派なネットメディアには谷村のどすけべエピソードばかりが流れている。
谷村もみんなに語られたいがために集めていたわけではないでしょうが、結果的には5000冊のビニ本が5000をゆうに超える言葉を生み出したのです。

子どもの頃、谷村新司と山本晋也監督とのちがいがわかりませんでした。たしかにいかにもまったくもって、このふたりはすけべそうなツラがまえをしています。すけべそう、っていうかそのものずばりなんですが。

イラストを自動生成するようなAIが人類の叡智を超える時…シンギュラリティの時。それは「すけべそうな顔」を入力して谷村=山本のような顔が生成された時であり、その時こそ人類は終わるのだと考えています。

ちなみに、すけべヅラの日本代表は谷村=山本ですが、海外だとニコラス・ケイジなので、こちらと海の向こうでは終わりの時は微妙に変わります。


10/18(水) 実質は猿の惑星

大阪の天王寺動物園からチンパンジーが脱走したニュースがありました。捕まえるために休園したらしい。
わずか20cmの隙間から逃走したとのことで、園側は「それはないわ!想定してへんわ!」と謝罪、客は客で「せっかく来たのに、休まれたら冷めるわ…」って落ち込んでいました。
能天気に思うでしょうか。しかし、天王寺という場所自体が動物園とボーダーレスな街なのでしかたありません。

チンパンジーは逃しちゃダメですね。あいつらはめちゃくちゃ凶暴なうえに、それなりの知能とパワーを持つ、本来ならどこかの離島に隔離すべき生物です。
人間の三歳児がおもちゃを買ってほしくて駄々をこねている場面を想像してください。親は叱るかもしれませんし、まわりのひとは微笑ましく眺めているかもしれません。しかし、その3歳児の肉体に、大人の頭を地面に叩きつけて殺しきるようなパワーが宿っていると考えたら、そんなのんきな風景は失われます。

くり返しますが、チンパンジーは逃しちゃダメです。まだキリンを逃してしまうほうがましだと思います。まず、めちゃくちゃ目立つから天王寺のアホたちも「あっこにおるで!なんやわからんけども!」と見つけやすい。

でかさは恐怖ですね。
ただ、ぼくは天王寺動物園にて至近距離でキリンを見たことがあるのですが、あいつらが目の前に現れた時にいちばん印象に残るのは、首の長さより足の長さです。あれ、まったく小回りはきかないでしょう。反復横跳びみたいな感じでキリンを幻惑するステップを踏めば余裕で逃げられるはずです。首をきょろきょろまわして三半規管もつぶれそうだし。

でも、チンパンジーはダメ。勝ち目ないです。はっきり言いまして、パワーだけじゃなく知能指数も、天王寺の民たちより上です。つまり天王寺の民は、腕力は人間並み、知能はチンパンジー並みです。今日はこれだけ覚えて帰ってください。

10/19(木) アゴの映画

「アントニオ猪木をさがして」という映画を観ました。
ぼくはアントニオ猪木が好きでもないし、尊敬も憧憬もなにもないです。「喋り方とか顔がちょっとおもしろいかな?アゴとか」くらいの感じ。そもそもプロレス自体もくわしくないのですが、観ました。

どうやら評判が悪いらしい。たしかに、ぼくもピンとこなかったのですが、それはぼくの無知によるものであろう、と考えていました。
「猪木ってサトウキビいじってたよな、あとアゴも出てる」くらいの猪木知識ではピンとこないのも当然だな、と思っていたけれど、どうやら猪木信者たちも「ピンとこないよ」と言っていました(存分にアゴをしゃくれさせながら)。

おそらく、いろんなひとが口出しした映画なんだと思います。だって微妙に支離滅裂というか、単純に構成がよくないというか、一貫した指揮のもとに作られた感じがしなかったです。
ただ、それは猪木に対する気持ちが各々で強すぎるせいなのではないか、と思います。猪木には多面性があり、どの面を偶像崇拝するかは信者たちに任されている。信じるひともいれば、敵視するひともおり、そのあいだをいったりきたりするひともいる。タイトルの「さがして」は、そういう意味では正しい。「俺はサトウキビの面を崇拝している!」「ぼくはやっぱりアゴだね」。踊る会議が目に浮かぶよう。

しかし、ぼくが思う猪木の魅力はサトウキビでもアゴでもなく、醜聞も敗北も、情けないところもかっこ悪いところも、すべてを魅力に収斂させるところだと思います。


10/20(金) 本当に小学生は論破番組を見ている

ひろゆきが出てるような論破番組があるでしょう、Abemaかなんかで。しっかり見たことはないので曖昧ですけど、ディベートするやつですね。で、小学校四年生の甥っ子が「義務教育は必要か?不要か?」という回を見ていました。

「こいつ、不要側の理論武装を固めていっている…」と不安に駆られました。甥っ子は、なにせ勉強ができず隙あらば授業放棄を画策するような、思想なき全共闘といってもよいくらいアンチ学校なのです。ひろゆき=毛沢東だと思っているのです。
しかし、最近はどうやら塾に通わされている様子。しかも私立中学を目指すような子たちが通うような塾に、週二で。低学歴のバカしかいないといわれているAbemaTV視聴者に対してハードル上げすぎなのでは、と思いましたが荒療治を施すなら早いうちのほうがいいのかもしれません。

子どもの頃は大人が「勉学に励め」と要求してくることに対して反抗心を抱きがちですが、大人になるとわかります。学歴がすべてだとは思いませんが、ないよりあるほうがよい。こんなものは積めるだけ積んどいても荷物にはなりません。

学歴の重要な効果は、プラスを増やすというよりマイナスを減らす点です。リスクヘッジ。
人生が順調に進むのなら、中卒でも大卒でもたいした変わりはありません。ただ、それぞれが学校を卒業して働き続けるぶんにはいいとして、なんらかのアクシデントが起こり30歳でクビになった時、再就職の難易度はかなり変わってきます。

硬直化した地方では高卒が多く、流動性が高い都市部では大卒が多い、という話は順調さを手に入れるための、および不確定要素を減らす難易度のちがいです。
学歴がなくても安定するようならそれでよし、しないようなら積んだほうがよし、という話です。

話を戻して、大人が子どもに勉強させたがるのは、大人の不安からでしょう。
「人生はなにが起こるかわからないので、転ばぬ先の杖はあったほうがよい、何本でもだ!」その結果が週二で進学塾です、とりあえず二本の杖を持たせるところから、という話になる。
極端に教育熱心な低学歴の親が生まれるのは、不安を呼び起こす閾値が高めだからです。そして、たまに殴り殺されたりするのです、杖で。武器となる杖を自ら渡してしまっているわけですから、しかたありません。

長々と話しましたが、けっきょくのところ、あまり不安になってもしかたないし、だからといってなにひとつとして不安がないからなにもしなくていい、というわけでもない。様子を見つつ、適当に、そこそこ良ければそれで良し、くらいの。
なので甥っ子も、塾には行かせてAbemaの討論番組は(バカが見て、よりバカになる番組でしょう、これは)取り上げるのが良策でしょう。


10/21(土) 菊花賞予想

◎タスティエーラ
◯ソールオリエンス
▲ドゥレッツァ
☆ハーツコンチェルト
△ウインオーディン
△トップナイフ
△マイネルラウレア


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