音楽:私の牢獄、私の自由

音楽。限定して言えば、クラシック音楽。

私は2歳から17歳まで、常に音楽と生きていた。私は音楽の虜だった。

音楽を演奏することは、私の苦しみであり喜びだった。
苦しみは、産みの苦しみだった。喜びは、自由の喜びだった。


私の幼少期で1番幸せな記憶。

私はCDプレーヤーの前に座っている。窓はあいている。カーテンを揺らしながら入ってきた暖かい風が、幼い私の肌を撫でる。レースカーテン越しに、太陽の柔らかな光がピアノの漆黒を包む。そこには幾ばくかの小さな埃が付いていたかもしれない。

私はドビュッシーの「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」をかける。春風のように暖かく、それでいて流れる川のように速い。

私はその当時ピアノをやっていた。バレエの衣装を嫌がったズボン派の私は、ピアノを習うことで落ち着いたのだった。

ドビュッシーの音楽が、私の体内を駆け抜ける。文字通り、ドビュッシーの音楽は私の肌を撫で、私の血管を通り、私の髪を揺らし、私の眼を湿らせた。
私はリビングで独りだった。静かな午前中。私はドビュッシーの世界にいた。
ドビュッシーがフランスの人であることも、そもそもフランスがどこかも知らなかったであろうあの頃。


その記憶は、私の心の引き出しに埃まみれで眠っていた。それが何かの拍子で出てきたのだった。

私にとって音楽は、牢獄であり自由だった。



10歳で、私はフルートに転向した。
「ピアノは独りでしょう。私はオーケストラに入ってみたい」

今なら、私は自己完結的なピアノを選ぶかもしれない。でも、私はフルートを選んだことを後悔していない。
音楽経験者はわかってくださるだろうが、ピアノは舞台で横向きなのだ。つまり、客席が横にある。一方で、フルートは客席を目の前に演奏する。私はそれがたまらなく好きだった。

私には、音楽の才能があった。
これは紛れもなく事実であった。

私には、音楽の才能があった。

私の演奏を聴いた誰もが、感嘆した。
プロの演奏家や先生方も、私には才能があると言った。

私の言い方は傲慢に聞こえるかもしれない。それでも敢えて私がはっきりと、傲慢にさえ聞こえる物言いをしたかというと、その才能が消え失せたからだ。いや、正確にいうと、最早何の意味もなさないからだ。

私は17歳の時、高校を辞めた。
それと同時に、フルートを辞めた。

フルートを辞めるということは、ただ楽器の演奏をやめるということ以上の意味をもっていた。


私は音大志望だった。
実際、藝大にも努力すれば入れるし、現段階(高校2年)でそれ以外の大学には入れると先生から言われていた。

私は、吹奏楽部に所属していた。
吹奏楽部の練習は、あまり意味がなかった(ように当時の私には思えた。雑音が多すぎて、自分の音の細やかな調整ができないからだ)。
だから、私は吹奏楽部2時間+自宅で1時間半練習していた。音大志望としては足りなかったかもしれない。しかし、私が要求されていた水準をクリアするのは容易だったし、私は満足していた。

私は、正直に言って吹奏楽よりクラシック音楽(一人で演奏する又はオーケストラ)が好きだった。
私は音大のジュニアオーケストラに、エキストラとして入っていた。弦楽器は全員子供達で、管楽器は音大生という仕組みだった。そこに、数人高校生がいた(1年目は私だけだった気がするが、2年目には3人になっていた)。
私にとって初めてのオーケストラだった。

私は幸せだった。

難しいソロの練習をしながら一人泣くこともあった。それでも私は、昔夢見たオーケストラの一員になっていることを嬉しく思った。

私は、自分の演奏に確固たる自信を持っていたし、それは実際私の努力と実力によって裏付けされていた。
私は音大の先生に習っていた。先生は親切だったし、教え方もとてもうまかった。

私は幸せだった。

先生に褒められるたびに、自分が難しい曲を完成させるたびに、いや、演奏している一瞬一瞬が、幸せだった。

そこに暗雲が立ち込め始めたのは、高1と高2の境目くらいだっただろうか?



私は精神のバランスを崩した。

精神のバランスというのは、身体のバランスに関係する。
そして、身体のバランスは、呼吸に直結しているのである。

フルートを吹くためには、健康な体と、安定した呼吸が必要だった。
そして、それは徐々に失われていった。海辺の砂が波にさらわれるように。

私は練習ができなくなった。いや、していた。けれど、それは前のように喜びに満ちたものではなくなっていた。それは、苦痛だった。私の身体は、フルートを吹くことに耐えられなかった。

それに伴って、レッスンも苦痛になっていった。私は結果が出せなかった。
私は、暗くなった音大の前の通りを、泣きながら帰った。電車で涙が止まらないこともあった。

どうして、ただでさえ辛いのに、音楽さえ奪われなければならないのだ?

私は腹を立てた。私は結果を出したかった。私は必死だった。私は文字通り「命をかけて」いた。

私は、音楽という牢獄に閉じ込められていた。

それも、進んで閉じ込められていた。私は、牢獄から出たくなかった。鍵を外に棄てた。
牢獄での生活は辛く、苦しい。それでも私は出られなかった。



舞台に立つことは、麻薬だ。

一度舞台に立つ喜びを知ってしまったら、もうそこから逃れられない。

私は地味な人間だった。私はつまらない人間だった。私はどこに行っても邪険に扱われた。

でも、舞台では、舞台の上だけでは、私は主役だった。

私は、実力で聴衆をねじ伏せることができた。実際私には、聴く人に「おっ」と思わせる何かがあった。
私は、出られる舞台があれば全てに出た。何でもよかった。私はどこに行っても褒められた。当然の話であるが、小さい規模であればあるほど、私は驚嘆された。

私は舞台の上で、自由だった。

私は自分が理想とする音を、1mm違わず現実世界に放出することができた。
私は自由だった、私は翼を広げて飛んでいた。私が奏でる音は楽園の音だった。ピアノ伴奏と競うように、私は天まで届きそうなほど高く飛んだ。

ある時、おばあさんに終演後話しかけられた。

「あなたの演奏は、若くて力があった。とても素敵だった」

その人は、私の知らない人だった。全くの他人だった。しかし、私にわざわざ話しかけてくださった。そして、褒めてくださった。

私は、褒められ慣れていた。生意気だが、本当に、褒められ慣れていた。

しかし、全くの無関係な人に、わざわざ、話しかけてもらってまで褒められたことはなかった。

私は、私の演奏で誰かの心を震わせたのだ。

私は嬉しかった。

大げさではなく、私はそこに

生きる意味を見出した。



私は、17歳で舞台を降りた。
足を洗ったのだ。
それが正しい選択だったのかはわからない。
私にプロになる才能があったかなんて、それはifでしかなくて、辞めてしまった今そんなことを語るのは無意味である。
しかし、正しい選択であったとしても、正しい道のりではなかった。

私は、しばらくクラシック音楽を聴くことさえできなかった。

私は、自分が演奏したかった楽器を吹いている人間を恨んだ。
私は、自分が立ち続けたかった舞台に立っている人間を直視できなかった。

私は最近になって、やっと「音楽鑑賞」というものをするようになった。
嗜好も変わった。ラヴェルやドビュッシーは今も変わらず好きだが、当時は毛嫌いしていたバッハやベートーベン、モーツァルトの美しさに気付き始めたのだ。

私は、牢獄から出て、自由を失って、地上に降りてきた。

私は、「地に足をつけた」のだろう。
若い夢を捨て、現実を見始めたとも言える。

今の私にとって音楽は、過去の幸せと不幸せと、それに付随する思いを思い起こさせるものだ。
それは時に私を慰め、涙を拭う。それは時に刃となり私を傷つける。柔らかく、それでいて鋭い爪をもつ猫のように。


これは、一般的に見れば「音大に行って音楽で食べていきたかったけれど諦めた人」という一種の典型的パターンかもしれない。
けれど、私は気づいたのだ。
典型的パターンのケース1、ケース2、全てのケースに、「個人的物語」が存在するということ。
その「個人的物語」は時に、その人の人生を「選択」以上のものとして変えうる可能性を秘めているということ。

そして、これが私の個人的物語であった。

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10

佳織

19歳、旧 薫
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