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帝王の降誕祭

もうそんな時期か。

十日間の海外出張から戻ってみると、車窓から見えるセントラルの街が様変わりしていた。街路樹を煌めかせるイルミネーション、各種趣向を凝らしたツリーやリース、花壇を鮮やかに彩るポインセチア、店先から流れてくるBGM、どれもがクリスマス仕様だ。

「そういえば、クリスマスまで一週間ですね」

リムジンの後部座席で横に座る、秘書の鈴木がつぶやいた。彼の眼鏡のレンズにも、星屑のごとくイルミネーションが映り込んでいる。

「一週間か……」

暮れも押し迫っての海外出張は気乗りがしなかったが、今回は海外拠点の視察や新規の業務提携先とのトップ会談が複数重なったため、どうしてもCEOの圭騎自身が足を運ばなければならなかった。プライベートジェットで空港に着いた瞬間から隙なくみっしりと詰まったスケジュールを分刻みでこなし、十日ぶりに帰国したら、街が様変わりしていたというわけだ。いや、もしかしたら、出立前にすでにこうだったのかもしれないが、あまりにも慌ただしかったせいで、周りを見る余裕がなかった。

ほどなくタワーマンションの車寄せでリムジンが止まる。運転手が先に降りて後部ドアを開けた。コートを手に、圭騎が下り立つと、反対側のドアから降りた鈴木が車体を回り込んで、傍らに立つ。

「長期間の海外出張、お疲れ様でした」

「おまえも長旅ご苦労だった」

運転手がトランクから、小型のスーツケースを取り出し、運んできた。残りの荷物はのちほど別便で送られてくる手はずになっている。

「お部屋までお運びいたします」

スーツケースに手を伸ばした鈴木に、圭騎は首を振った。

「これくらい自分で運べる。おまえも疲れているだろうし、タイムラグもあるから、明日は午後からの出社でいい。私もそうする」

「ありがとうございます。ではそうさせていただきます」

一礼する秘書にうなずき、踵を返す。スーツケースを引きながら、圭騎は現在の住居である高層マンションのエントランスを目指し、歩き出した。

ゲートを抜け、足を踏み入れたエントランスロビーにも、巨大なモミの木が設置されている。見上げるほどの高さがあり、ガーランドとオーナメントで華やかに飾りつけられた、なかなか見事なツリーだ。飾り付けは毎年変わり、テーマカラーがあるようだが、今年は赤らしい。赤いライトがピカピカ光るツリーの下で、覚えず足を止める。

(理玖にも見せたかったな。きっと目をキラキラさせて……)

輝くような笑顔を想像しかけ、頭をゆるく振って残像を追い出した。〝If〟を考えたところで仕方がない。理玖は二ヶ月前にマンションを出て行き、今は孔王邸に身を寄せている。主の李里耶から定期的に届く報告によれば、はじめこそ食欲もなく伏せがちだったが、孔王邸のスタッフのきめ細やかなフォローのおかげで、徐々に元気になりつつあるようだ。

そう聞いて、心から安堵した。どうやら環境が変わったことが功を奏したらしい。同じオメガであり、アルファ社交界で生きる李里耶の存在も大きいのだろう。理玖を引き受けてくれた親友には、いくら感謝しても足りないくらいだ。

「首藤様、おかえりなさいませ」

フロントデスクで出迎えたコンシェルジュに目礼で応えた圭騎は、ロビーを横切り、ペントハウス直通のエレベーターに乗り込んだ。最上階まで上がって絨毯敷きの廊下を歩き、辿り着いた部屋のドアをカードで解錠する。玄関で靴を脱いでいると、奥からぱたぱたと誰かが駆け寄ってくる音が聞こえてきて、ぴくりと肩を揺らした。反射的に顔を振り上げたが、もちろん、そこには誰もいない。

ふっと自嘲の笑みが浮かぶ。

(幻聴が聞こえるとは……よほどだな)

人感センサーで明かりが点く廊下を通過して、リビングダイニングに入る。ここも圭騎の入室を察知してパッと明かりがついた。……どう考えても、一人暮らしには広すぎる部屋だ。

以前、同じように一人で暮らしていた時は、さほど広さが気にならなかった。これでも実家の首藤邸よりはだいぶコンパクトだからだ。

だが、理玖がいなくなった今は、無意味に広いと感じる。不在中もクリーニングスタッフによる清掃が行き届き、何もかもが整然としているせいで、余計に寒々しく感じた。

スーツケースをリビングの真ん中に放置して、腕にかけていたコートをダイニングの椅子の背もたれに投げかける。脱いだスーツの上着はソファに投げた。ネクタイを解きながらキッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出す。バキッとキャップを開け、立ったまま、ごくごくと喉に流し込んだ。このところ、きちんとグラスに注いで飲むのが億劫で、ついペットボトルから直飲みしてしまう。こんなところを母に見つかったら、マナーに厳しい彼女は狂ったように怒るに違いない。

『首藤家の跡取りともあろう者が、なぜそんな下品な真似をするの!?』

甲高くヒステリックな声が聞こえるようだ。

手の甲でぐいっと口を拭い、煩い母親を脳内から閉め出して、ソファにどさっと腰を下ろす。中途半端に解いてあったネクタイの片端を引っ張り、首元から引き抜いた。ネクタイは床に投げ捨てる。これでようやく、部屋が少しだけ雑然とした。シャツの第一ボタンを外してほっと息を吐く。

二ヶ月前、新しい感情を知った。理玖が出ていった夜、この部屋に帰ってきた瞬間に沸き上がった未知の感情。

孤独は知っていた。誰とも分かち合えない──兄弟でさえ──首藤家の跡取りという「孤独」とは、幼少時から馴染み深かった。

だが、今抱いている感情はそれとは違う。

(寂しい? 私は寂しいのか?)

いい年をして、子供のように?

これが寂しいという感情ならば、目下のところ紛らわす術はない。比較的有効な対処法は一つあるが、それは自分から切っていい切り札ではなかった。

トラウザーズのポケットからスマホを取り出した圭騎は、理玖のアカウントページを開く。

『今度は僕から連絡してもいいですか』

先日、ひさしぶりに聞いた理玖の声が脳裏にリフレインした。

『もっと話がしたいです』

しかし、そう言ってくれたからといって、こちらから連絡を取ることは許されない。

『……正直なことを言えば怖いです』

『今はまだ会うのは怖い』

あんなことを言わせてしまった自分に、そんな権利はないのだ。

(待つんだ)

理玖が、自分から会いたいと言ってくれる日まで。

(何年でも……何十年でも待つと決めただろう?)

もうすでに何十回と繰り返したかわからない自戒の言葉を、またしてもおのれに言い聞かせつつ、ソファから立ち上がる。スマホを片手に、リビングの一面を占める窓に歩み寄った。都心を一望できる夜景が、このマンションの最大の売りだ。ライトアップされたタワー、ネオンサインや無数のビルの明かり──圭騎にとっては見慣れた風景だが、街路樹のイルミネーションのせいか、いつもよりパワーアップしているように感じる。

「クリスマスか……」

ひとりごちた直後、出張先の商談相手とのランチミーティングでの会話が蘇った。仕事の話ではなかったので、適当に聞き流していたが、確か今年は家族に何を贈るかという話題で盛り上がっていた。

ふと、思った。

理玖にクリスマスプレゼントを贈るというのはどうだろう。

一度、そう思ってしまうと、その考えが頭から離れなくなる。

これまで理玖に何か特別な贈り物をしたことはない。同居に当たって家具を設え、衣類、小物などもひととおり揃えはしたが、あれらは生活必需品であり、プレゼントとは意味合いが違った。

(もし贈るとすると、何がいいだろう)

是非を判断する前に思考が先走る。

こんなことなら海外でみやげを兼ねて何か買ってくればよかった。だが、実のところそんな余裕はなかったし、悔やんだところで今更だ。

過去、誰かにものを贈る必要性が発生した場合は、鈴木に任せていた。自分には圧倒的に時間がなく、鈴木はああ見えて贈り物のセンスがある。いつもツボを押さえたものを手配してくれて、先方にも評判がよかった。

そう思った瞬間には鈴木に電話をかけていた。ツーコールで『はい、鈴木です』と、先程別れたばかりの秘書が出る。

「私だ」

『何かございましたか?』

やや緊張した声音で尋ねてきた。プライベートで電話することは滅多にないので、トラブルかハプニングではないかと危惧したのだろう。

クリスマスプレゼントなんだが……と口に出しかけた言葉を寸前で呑み込んだ。

理玖は、他の誰とも違う。鈴木に任せれば間違いないとしても、それは鈴木のチョイスであり、本物の贈り物とは言えない。

こればかりはきちんと自分の頭で考え、選んだものを贈るべきだ。

「……なんでもない。夜分にすまなかった。休んでくれ」

『は、はい』

困惑が伝わってきたが、「おやすみ」と強引に通話を切った。

スマートフォンを片手にリビングを歩き回りながら、プレゼント候補を脳裏でピックアップする。できれば身につけられるもので、実際に使うものがいい。

指輪……はない。(そんなものを贈る間柄ではない)

首輪……もない。(そんなものを贈ったら引かれるだけだ)

バッグ類はリュックもショルダーバッグも持っていて間に合っているだろうし、靴も充分揃っている。万年筆は、おそらく使わない。デバイス類やイヤフォン、PCアクセサリーは各自の好みがある。

女性と違ってジュエリーに逃げられないので、意外と難しかった。

眉間に皺を寄せていてふっと閃く。

(……時計は?)

携帯で代用できるが、例えば試験会場などにスマートフォンは持ち込めない。自分の経験上も、いざという時のためにそれなりの腕時計は持っていたほうがいい。

答えが見つかり、一気に気持ちが明るくなった。

「よし、時計だ」



翌朝、馴染みの百貨店の外商部に「腕時計を集めてくれ」と声をかけ、まだ開店前の本店に車で乗り付けた。通された特別室で、いわゆる有名ブランドの高級腕時計を三十本近く見たが、どれも今ひとつピンとこない。それに、高校生が身に帯びるには高額すぎる。こんな宝石と張るような値段の時計を嵌めていたら、犯罪に巻き込まれる可能性が大だ。飾っておくだけの装飾品になってしまうのでは意味がない。

「ありがとう。だが、求めているものとは少し違うようだ。今日のところはこれで失礼する」

「本日は、ご要望に応えられず大変に申し訳ございませんでした」

「こちらこそ突然すまなかった」

「外商部一同、首藤様のまたのお越しを心よりお待ち申し上げております」

百貨店を出ると、車を駐車場に止めたまま、その足で街を見て回ることにした。携帯で検索し、ファッションビルの時計ショップや時計専門店を虱潰しに当たる。車を使わずに自分の足で街を歩くのは、かなりひさしぶりだ。それなりに顔が知られているせいで、勝手にプライベート写真を撮られるトラブルも多く、いつからか、人通りの多い繁華街や人混みを避けるようになっていた。

のべ百本はくだらない時計を見たが、どれも派手すぎたり、デザインが勝ちすぎていたり、繊細すぎてすぐに壊れそうだったりと、これといったものに出会えないままに二時間が過ぎた。

会議が始まる午後一時には会社に戻らなければならない。さらには雪がちらつき始めた。

今日はもう諦めて撤退するか……そう思いかけた時、裏通りにひっそり佇む小さな個人経営らしき時計店が目に入った。かなり年季が入った店構えで、狭い店内に足を踏み入れると、見るからに実直そうな店主がショーケースにはたきをかけていた。

「いらっしゃいませ」

来客に気がつき、五十代後半くらいの店主が挨拶をしてくる。圭騎を見て、丸眼鏡の奥の目をわずかに見開いた。こういった店は常連客が多く、飛び入りの客はめずらしいのだろう。手を止め、はたきをカウンターに置いて近づいてくる。

「何かお探しですか?」

「学生がしやすい時計を探している」

「……ということはプレゼントですか」

「ああ」

「女性でしょうか?」

「高校三年生の男子だ」

「なるほど。ちょっとそちらに座ってお待ちください」

指示どおり、店の一角に置かれた古いソファに腰掛けた。店主は、ビロードが張られたトレイを手に店内をぐるりと一周し、いくつか時計をピックアップして戻って来る。

ローテーブルに置かれたトレイを、圭騎は覗き込んだ。

「このあたりがご希望に添うかと思います」

腕時計が四本、並んでいた。どれも浮き足立っていない硬質なデザインだ。

「なかでもオススメはこちらです。ベゼルやリューズもシンプル、文字盤も見やすいですし、インデックスや針、カレンダーも飽きがこないデザインです。制服着用時につけても浮きません。意外に頑丈で、修理もしやすいです」

一推しの時計を手に取ってみた。

「軽いな」

第一印象を口にする。

「時計自体の重量も日常使いする上での大切なポイントです。いろいろな部品や飾りがついていて重いと、結局しなくなってしまうんですよね」

店主の説明を耳に、この時計が理玖の手首に嵌まっているところを想像した。ほぼ黒に近い濃紺のケースは、白い肌に映えそうだ。繊細な文字盤は、生来の気品を引き立てるに違いない。細い手首にしなやかに巻きつく革ベルトも悪くない。

「ただ、個人の工房で作られている一点ものですので、見た目の印象よりも価格が張るのが玉に瑕で。もう少し安価なものがよろしければ他にも候補が……」

「いや、大丈夫だ。これにする」

即決に、店主が一瞬驚いた顔をして、だがすぐに微笑んだ。

「そうですか。いや、とてもいい選択だと思いますよ。おかしな話、私もすごく気に入っている時計なので、良い人の手許にもらわれていって欲しいなんて勝手な願いを抱いていましてね。お客様が贈られる方ならばきっと大切にしてくれそうで……うれしいです。……すみません、余計なことを。プレゼントでしたよね」

「ああ」

「では、そのようにお包みします」



帰宅後、自室のライティングデスクに向かった圭騎は、万年筆を手に取った。今、圭騎の目の前には、銀色のりぼんがかけられた濃紺の箱がある。

『メッセージカードをおつけしておきますね』

店主の好意のカードを開き、真っ白なスペースを前にしばし沈思黙考した。

書きたいことがたくさんあるような気がしていたが、いざ白地を前にすると何も浮かんでこない。というより、本当に伝えたいことを伝えるには、このスペースでは足りない。

結局、十分近く思い悩んだ挙げ句に記したのは、【Merry Christmas】という芸も捻りもない一行のみ。そこに【首藤圭騎】と署名を書き添える。

我ながら愛想のないカードだと呆れた。だが、今はこれくらいでちょうどいいのかもしれない。まだ赦しを得られていない自分が、出過ぎた真似をするべきではない。

そもそも、受け取ってもらえない可能性だってあるのだ──。



「それで私を呼び出したのか?」

アルファ専用ラウンジのバーカウンター。定位置に腰掛けた親友は不機嫌だった。

「そうだ。これを理玖に渡して欲しい」

一枚板のカウンターに時計の箱を置く。ちらっと横目で箱を一瞥した親友が、「自分で渡せ、サンタクロース」と突き放すように言った。

「そのほうが理玖君も喜ぶ」

「……そうとは思えない。いまだに理玖から連絡はないからな」

「まあ、まだ心の整理ができていないんだろう」

親友が肩をすくめ、少し考えたのちに口を開く。

「クリスマスイブの夜、夕食会のあとでまずは私のプレゼントを渡す。使用人たちもどうやら何か用意しているようだ。理玖君は人気者だからな。彼らがプレゼントを渡し終わって、おまえの番は最後だ」

「それでいい」

うなずくと、親友がギムレットのグラスを口に運んだ。

「おまえには、アルファ校でずいぶん世話になったからな。私が無事に卒業できたのも、守護神を任じてくれたおまえのおかげだ」

「李里耶」

「とはいえ、忙しい中を呼び出されたんだ。今日はおまえの奢りだ」

「わかっている。好きなだけ飲んでくれ」



クリスマスイブ当日。朝からなんとなく落ち着かない気分で過ごしつつも、イブなど関係なく、圭騎は仕事に明け暮れた。

鈴木を含めて社員たちを帰宅させ、ひとり執務室に残り、書類に目を通していた圭騎に、李里耶から電話がかかってきた。

『今どこだ?』

「会社だ」

『イブのこんな時間まで働いているアルファはおまえくらいだ。今頃みんなパーティ会場でへべれけだ』

「さっきから酔っ払いから何十件とメッセージが届いている」

『うんざりだな』

「うんざりだ。それより……」

『わかっている。約束どおり渡した』

「そうか。ありがとう」

仕事をこなしながらも、頭の片隅でずっと時計のことが気にかかっていたので、ほっとする。拒絶されなかっただけで充分だ。

『嵌めているところを見せてもらったが、とてもよく似合っていた。成金趣味のブランドものよりずっといい。おまえのセレクトか?』

「ああ」

『なかなかいい見立てだ』

「たまたまいい店を見つけたんだ。よければ今度紹介する」

『そうしてくれ。報告は以上だ』

通話を切る間際に李里耶が『メリークリスマス』と言った。ふっと片頬で笑って「メリークリスマス」と返す。

通話終了ボタンを押し、ふーっと息を吐いた瞬間だった。ブブッとメッセージの着信音が響く。またか。

(しつこい……)

心からうんざりして、酔っ払いからの着信を無視しようとした圭騎は、ホーム画面に現れた名前にどきっとした。

理玖からだ。

あわててタップしてメッセージを開く。

【ご無沙汰しています。先程李里耶さんに、圭騎さんからのクリスマスプレゼントを渡していただきました。思いがけない贈り物にびっくりしましたがうれしかったです。いただいた時計、早速つけてみました。軽くて手首にぴったりフィットして、つけやすいです。文字盤も見やすく、夜の空みたいな濃紺に銀色の針が映えて綺麗です。李里耶さんにも似合っていると言っていただきました。大切に使います。お気遣いありがとうございました】

【僕からも贈りものをしたいのですが、圭騎さんはなんでも持っていると思いますし、何がいいのか少し考えたいので、しばらくお時間をください】

【忙しい圭騎さんも年末年始はゆっくりできますように。──おやすみなさい 江森理玖】

理玖らしい誠実さと思いやりが滲み出ている文章を、繰り返し、読み返す。じわじわと胸の奥が熱を孕んだ。

返礼などいらない。

贈り物もいらない。

自分が欲しいのは、この世でただひとつ。

(おまえだけだ──)

今はまだ言葉にできない想いを噛み締めながら、圭騎は囁くような声で「おやすみ」とつぶやいた。