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心の火種を燃やし続けるということ。『バベットの晩餐会』

先日、こんなネットの記事が流れてきた。

「路上暮らしからミシュランシェフへ、戦地の青年がかなえたフレンチドリーム」 http://www.afpbb.com/articles/-/3162389?pid=19789979

レバノン人の青年・アランは、パリにやってきて職もなく、ピザの配達や皿洗いをしていたが、ある日店でシェフが調理中に怪我をするというトラブルがあった。

 「表では14卓あるテーブルでお客さんたちが待っていた。誰に頼まれたわけでもないが、代わりに料理をし始めた。皆さんに食事を出し、とても喜んでいただけた」

レバノンでの兵役中に料理を覚えていた、それも連隊長に気に入られ、お抱え料理人となったほどの腕前とセンスを持つ青年が、その事件が起こるまではただ皿洗いをしていたというのだ。

これを読んで思い出したのが、『バベットの晩餐会』(イサク・ディーネセン/桝田啓介訳)という短編小説。女中バベットは富くじで当てた1万フランを、彼女が仕えていた中年姉妹の祝祭ディナーのために全額(!)つぎこんで本格的なフランス料理を作る。そんな話だ。(この先、細かいストーリーに関する部分の記述あります)

バベットが仕える姉妹は牧師の娘であるから、日々の食事は、干物の鱈とエールとパンで作るスープだけ。とてもおいしそうとは思えないけれど、今風に言えばカリスマ家政婦のバベットは、この貧相、いや、質素なスープを魔法のように上手に作る。

富くじを当てたバベットが宴席料理のために注文した巨大な亀が家に届くくだりは、物語最大のビジュアル的インパクトのある部分。悪魔にのっとられるのではないかとおびえる姉妹のおろおろぶりが笑えてしまうのだが、その亀でバベットはすばらしい海亀のスープを作る。

ふたつのスープはこの物語の構造そのものだ。鱈と海亀、日常と祝祭、生活と芸術。
バベットのアーティスト魂が、長い灰色の日々の中に封じ込められずに、ふつふつと燃え続けていたということに、驚き、憧れる。
そして心の火種は、日常をきっちり生き抜いた人だけが守れるのだということに気づく。レバノンからパリにやってきて長く皿洗いをしていた青年アランも、きっとそうだったのではないかと思う。

自分の心の奥でくすぶり続ける火種を決して消さないこと。これは単に、チャンスをつかむ日が来るまで我慢して待てというだけの教訓ではない。この物語は心の火種そのものが将来のためでなくまさに今、田舎町の女中だったり皿洗いのアルバイトでしかない小さな人間の自尊心を守る最大の武器であり、また人を内側から輝かせ続ける熱源であるということを伝えているのだ。

バベットが最後に姉妹に対して語った言葉は本当にしびれるものなのだけれど、それは本を読んだ人のお楽しみに。

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物語でバベットが姉妹のために作った、干し鱈とエールとパンのスープ。作ってみました。干し鱈は、たまたまもらったのがあったんですよね。エールは家になかったので、黒ビールです。




読んでくださってありがとうございました。日本をスープの国にする野望を持っています。サポートがたまったらあたらしい鍋を買ってレポートしますね。