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コトバのジュバク

言葉の呪縛、と書くとおどろおどろしいので、カタカナで書いてみた。そういえばこの新しいカテイカも、最初は「新しい家庭科」だったのだが、重すぎるねということでカタカナ表記にしたら、軽やかさが出た。

さて、今日の話は、家事におけるコトバのジュバク。
「手抜き」「ズボラ」という言葉がある。料理で言えば、レンジを使ったり、レトルトや市販の合わせ調味料を使ったりするとか、あるいはどこかでお惣菜やお弁当を買ってきてしまうこととか。私のスープも簡単なので、そういうタイトルがついた雑誌の特集で紹介されることが多い。

先日、阿古真理さんが新しいカテイカのコラムで「主人」という呼び方はやめませんかという話を書いていたが、「手抜き」「ズボラ」と言うのも、やめてもらえないかなあ、と思っている。
いや、ズボラや手抜きはどんどんやっていい。むしろ新しいカテイカには必要なスキルだから。言いたいのは、それをズボラや手抜きだと自分や誰かに向かって言葉にしないこと。

私ズボラだからお皿にアルミホイル貼って使っちゃったりするのよね〜と、自虐的に笑う。確かにその場は和むし、ちょっぴり気が楽になったような気がするけれど、同時に心にチャリンとコインが落ちる。小さなコインは本人が気づかないうちに溜まっていく。心がだんだん重くなったある日、ネクタイを締めた悪魔がやってきて、ごっそりコインを回収していく。そのときはじめて、何かが失われたことに気づく。

そのコインの名は、自尊心だ。

自虐はかなり高度な技で、本当に自己肯定感の高い人でないと使いこなせない。手を抜いちゃった、ズボラしちゃった、そのことを誰かと共有して気持ちを軽くしたいのはわかる。でも言い訳をした瞬間、それらは「ほんとうは回避すべきだったこと」となってしまう。言葉の恐ろしさだ。
悪魔がコインを回収すると言ったけれど、心に鈍感な人なら、回収されたこと、つまり自尊心が失われていることにすら気づかない場合もある。

忙しい現代人にとって、お惣菜も、冷凍食品も、レンジも、だしパックも、生活のために使いこなしたい重要なアイテムだ。それらを手抜きと呼ぶことは、仲間を馬鹿にするのと同じではないだろうか。敬意を持てないものをうまく使いこなすことが果たしてできるのか。自尊心の持てない家事を、やる気になれるのか。

こういう話をすると、すぐ別の言い方にかえて、という流れになるんだけど、それもなんだかなあと思う。ポジティブな言葉にするとしたら、手抜き=合理化、ズボラ=省力化。けれど、そんな説明、別にしなくてもいいんじゃない?
キャベツや豚肉や塩を使うのと同じように、カット野菜とサラダチキンとめんつゆを使えばいい。まずいと思えば次から食べなければよいだけの話で。

手作りがおいしいっていうのはある程度正しいけれど、それも環境次第だ。包丁が苦手な人はカット野菜や冷凍野菜を、味つけが苦手な人はキューピードレッシングやクックドゥを使ったほうがおいしくできるかもしれない。時間が全然ない人は駅から帰り道の間にあるコンビニで買い物をしたり、ドミノ・ピザを注文する。何を使い、どう楽をするかは、時間的、経済的、人的なリソースの組み合わせと、人がそのときに何を求めているかで決まる。

もう少し深読みすると、主婦たちの自虐とはゆるやかな下方修正でもあるので杓子定規に止めろというのも何なのだけれど、今のままでは根本的な解決にならないし、何より自分たちを傷つけるのはよくない。人にダメ出しをされることはあるけれど、自分からする必要はない。
自虐が芸風のようになっている人は別として、少なくとも若い方はあまりこのやり方に乗らない方がいいと思う。自分のためにも、もしいるなら家族のためにも。

簡素な家事へ、堂々と向かっていきましょう。

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缶詰や瓶詰、レトルト、もちろんだしパックもスープに使います。


読んでくださってありがとうございました。日本をスープの国にする野望を持っています。サポートがたまったらあたらしい鍋を買ってレポートしますね。