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家はレストランじゃないと週に一回ぐらいは言い聞かせよう、自分に。

一生懸命作った料理が、家族に全く興味を持たれず大量に残って落ち込むことは、家庭料理あるあるだ。

知り合いの主婦たちはよく「(家族が)食べてくれないのよね」という。私はこの言い方にいつもひっかかる。毎日のごはんは「食べてもらう」ものなのだろうか?

食べる量や味の好みはとても個人的なものだ。家族だからといって合わせられないし、「この味が標準だから納得してね」みたいなことでは納得できない。

これが店だったら、味が合わなければ客は二度と訪れないだろう。それは双方にとってある意味幸せなことだ。合わなかったね、これでおしまい。
でも、家族はそうじゃない。味の好みが合わなくても、食べさせる相手は変えられないし、食べさせてもらう相手も(自分で料理をやる以外に)変えられない。関係は固定化され、その輪はきわめて小さい。

家族が残したり不満を言ったりするのは、出てきた料理がおいしくないからではなく、単に「味がわからない人たち」だからかもしれない。そんなとき、味のわからない方へ合わせていくというのも妙な話なのだが、多くの主婦はそうしてしまいがちだ。

なぜなら、愛情が料理のおいしさをカバーすると思っているから。そして「自分の努力がまだ足りない」という呪いを自分にかけてしまうから。この二つが重なると、思い込みにがっちり外せないロックがかかる。

元の形がわからないほど真っ黒に焦げているとか、塩小さじ1をカップ1とまちがってしまったような料理は別として、努力や料理の腕と、家族の満足度は、それほど関係ない。出来合いの調味料でチャチャっと作った料理を夫や子供たちが大喜びで食べるようなこともよくある。

家族を責めると家庭内はトゲトゲするし、自分を責めても辛い。家族の食欲にまで責任を感じるような真面目な人にとって必要なのは、ごはんを作るというミッションを遂行しながらも、自分の能力や家族の好みについては、どこかで「あきらめる」「切り離す」という、気の持ちようを変える作業だと思う。

料理自体は本来楽しいものだから好きでやるのも、家族に食べさせるためにはりきるのもいい。でもそれはあくまで、おまけ。
家はレストランじゃない、ときどき口にしてみると効果的だ。

まあ、おいしいものを食べさせたい!という気持ちもわからないではないので、そのうち家族が喜んで食べる食卓のワザなんかも、紹介したい。

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書き終わってから思い出したけど、うちの夫から「おいしい嫌いなものより、まずい好きなものが食べたい」という名言(迷言?)が出たことがある。妻である私が翻訳するなら「おいしい筑前煮より、まずいカレーがいい」ってことだと思います。

読んでくださってありがとうございました。日本をスープの国にする野望を持っています。サポートがたまったらあたらしい鍋を買ってレポートしますね。