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令和の五人組!?不寛容な社会の歩き方

制服を着た人が勤務中にコンビニを使ってはいけないとか、
ドライバーはイートインスペースで休憩していてはいけないとか、
誰でも起こしそうな問題をおこした有名人をトコトンこき下ろすとか、
なんだか世の中棲みにくくなったなぁ、という人は多い。

そんなニュースを聞くたびに思いだすことがある。
それは歴史の時間に習った「五人組」という制度。
結論から言うなら、不寛容社会は「かつての価値観を維持したい人による、ムラの秩序を守ろうとする活動がベースにある」と考えている。

五人組という治安維持機構

はるか昔の記憶だが、五人組という制度を習った記憶がある。デジタル大辞泉の解説がシンプルなので、以下に引用する。

江戸幕府が町村に作らせた隣保組織。近隣の5戸を一組とし、互いに連帯責任で火災・盗賊・キリシタン宗門などの取り締まりや貢納確保・相互扶助に当たらせたもの。

要は、連帯責任で、ムラの秩序を守れ、というわけだ。
連帯責任の岸のむこうには、「村八分」という制度がある。
秩序を守らないと、仲間外れにするぞ、というわけ。

では、この制度と、近年の「不寛容社会」とにどんな関連性があるのだろうか。

みんなおんなじ、という価値観

そもそも五人組が成立する背景には、みんなが同じ価値観である必要がある。江戸時代であれば、たとえば「キリシタンはダメ」という基本があって、その定められた価値観を相互監視する機能を有していたと考えられる。

これが昭和、平成と、日本人はそこそこ共通の価値観を持ってきたのではないかと思う。たとえば、不倫をしてはいけないとか、学校にはちゃんと行かなければならないとか、しっかりと定職について働かなければならないとか。そういった「普通」の生活をすべく、僕らは相互監視の中生きてきた。

例えば、僕の世代でいうなら、20歳代、30歳代において、普通のサラリーマンをしていなければ、社会的な落伍者と判断された。会社にも勤めず、ギターをいじっていたとすれば、完ぺきなおちこぼれだ。
昭和の時代は、みんなと違うことはすなわち悪であり、社会全体でその悪をはじいていた。「腐ったリンゴ」理論がまさにその典型で、異質なものは排除せよ、という五人組的価値観がいきていた。

そして、五人組の重要な機能は、村八分を発動させることではなく、村八分を起こさないために、構成員が「外れたことをやらかさないこと」「腐ったリンゴにさせないこと」が重要な機能だったのだと想像する。基本は、抑止力なのだ。

五人組の抑止力の決壊

しかし、今は例えばユーチューバーだったり、その他さまざまな方法で稼いで、生活を成立させている人たちがいる。また、義務教育でさえ受ける必要があるのか?的議論がけっこう大っぴらにあったりもする。

5人組の相互監視機構が抑止力としての機能を失いつつある。五人組の基本は連帯責任だ。その中の一人が、ルール違反を犯せば他の四人も罰せられる。

しかし、江戸時代とは違い、五人組を管理する部署は今やどこにもない。知らぬ間に、自治組織化している五人組は、日本という国全体を一つのチームとしての感覚を醸成したのかもしれない。そのなかで、古い価値観を守ろうとする人たちと、そこを破って飛び出す人たちに分かれ始めた。

そして古い価値観を守ろうとする人たちは、SNSを通じて、相互監視機能を発動する。だから、有名人に浴びせられる批判の多くは、昭和的な香りのするものが多い。

さてこの相互監視機能を守り続ける守り人は、かつて五人組の時代は自分達も罰せられる恐怖がその原動力だった。しかし、今の守り人の原動力はいったい何なのだろうか?

価値観が変わって困る理由

僕は、昭和的価値観を人に押し付けようとする人たちを突き動かすのは、「嫉妬心」じゃないかと思っている。抜け駆けは許さないぞ、ということだ。自分はそういった新たな価値観を背負う勇気はない。しかし、自分を置いて、お前だけが新しい世界に行くのは許さない。

このムラにとどまれ。

まさにそんな主張ではないかと思う。
少し意地悪な表現をすれば、

俺を置いていかないで

という主張。

たぶん、無意識では自分が時代から取り残されつつあることはわかっている。わかっているからこそ、自分を大切にしてもらいたいのだ。
しかし、誰も振り向いてはくれない。
そりゃそうで、そんな面倒な奴の相手は誰だってしたくない。
だからさらにかたくなになり、ガンコになる。

一人村八分を演じる彼らとどう対峙するか

こういった人たちは、嫉妬心と、寂しさを感じてるわけだ。
静かにしていただくには、話を丁寧に聞き、共感してあげる必要がある。
なるほどおっしゃることはごもっともです。
気をつけますね、と。

しかしいちいちそんなことは面倒くさい。
なにしろ、リスクを負って前進する「プレイヤー」と、
それをリスクをとらずはたから見ている「観客」という関係の中にある。
プレイヤーはたいてい、自分のことで忙しい。
一方、観客(ヤジを飛ばす人)は、自分のことは置いておいて、他人の批判に忙しいことが多い。

時間の使い方、命の使い方がまったく違うのだ。

そう考えていくと、プレイヤーは舞台に立ち、
観客は客席にいる。
その境目があいまいになっているから、観客の声がプレイヤーに届くのだけど、
やはり最善の方法は、できるだけ観客のヤジは聞かないようにする以外にはないのかもしれない。

彼らは、自分が取り残されるのがイヤで、
プレイヤーは、ムラの中で生きるのがイヤなのだ。
もともと手をつなげるポイントはない、と言えるのではないだろうか。

そして大事なことは、古くからのムラはもはや崩壊を始めている、ということ。
その取り残され勘が半端ないからこそ、ムラの底から足を引っ張る人がたくさん出てくるのだ。



コラムとは全く関係ありませんが、こんな本書いてます(^^)/




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