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「寝るのが好き」という人は、本当に「寝ること」が好きなのか?

かつて僕も言ってた気がする。
「寝るのが好きなんです」と。
けどそれって、どうもアヤシイ。
なぜなら、寝ているときに
「ああ、寝るって気持ちい」とか、
「ああ、寝るって素敵」とか考えていないから。

実は、寝るのが好き、という主張の本質は、
別のところにあるのかもしれない。

二度寝の気持ちよさ

二度寝のあのまったりとした感覚。
割と好きだというのは、僕だけじゃないと思う。
特に冬の寒い朝。
本当は、布団を押し上げて現実世界に降り立つべきだけど、
それを遮って、再び眠りに落ちる。

寒くない時だって、二度寝は安らぎである。
僕らは起きようとすると、眠りの中に引きずり込まれ、
その時のふわっと包まれるような感覚は、
誰だって抗うことはできない。

しかし、もう一度考えてみよう。
眠ってしまえば僕らは意識を失う。
つまり夢が支配する無意識の世界だ。
そこで
「ああ、この眠り、サイコー!!」
ととなえる自我を見つけることは、非常に難しい。

十分な睡眠をとれる幸せ?

眠っているときに、眠る幸せを感じることができないとすれば、
僕らはどこで幸せを感じるのだろうか?
それはおそらく「起きた時」に他ならない。

つまり、起きた時点で寝ている時間を振り返っているわけだ。
だから人は、「寝るのが好き」というよりは、
正確に表現するなら、
「良質な睡眠を取れたときの寝覚めが好き」
と言えるのかもしれない。

そしてそれを感じるのは、寝覚めの瞬間だ。
いい睡眠をとったのち目が覚めた際、
「ああ、いい睡眠だった」
こう思える瞬間を求めるのが、
「寝るのが好き」
という言葉の本質なのではないだろうか。

だから、睡眠の時間とか、頻度とか、そんなことは実はどうでもよくて、
単に寝覚めの良い、良質な睡眠が一定程度あればそれでいい、ということになる。

必要のない惰眠をもとめる

睡眠というのもある意味セックスと似ているのかもしれない。
あの絶頂の一瞬にむけて、おぜん立てをするのがセックスで、
目覚めの一瞬にむけて、求め続けるのが睡眠。

セックスも睡眠も、たくさんやったからと言ってその刺激が増すわけでもないし、
長時間やったからと言って、その幸福感が増すわけでもない。
ただ、そこには幻想があって、
何度もやり、
長時間やれば、
その先には満足があるんじゃないか、という幻想を見せられている。

そして僕らは「寝るのが大好き」といって、あの気持ちの良い寝覚めを期待して必要のない睡眠を、必要のない時間続けているのかもしれない。

それでも寝るならば

とはいえ、決して寝ることは悪いことではない。
だから、好きなだけ寝ればいい。
ただ気を付けたいのは、時間とは命そのもの。
そいつと引き換えに、僕らは眠っているということ。
時間というのはトレードオフで、何かにつかえば、別の何かに使えなくなる。

価値ある睡眠は、絶対取るべきだと思うし、
それを否定するつもりは一切ない。

ただ、「寝るのが好き」というのは、
場合によっては現実逃避への言い訳であることがないかを
確認しておいたほうがいいような気がする。

本来必要なレベルを超えて、睡眠という
ある意味無我の状態へと向かおうとするのは、
現実との対峙に疲れているとか、
そこから目を背けたい何かがある可能性があるのではないだろうか。

それを考えても一切ネガティブな理由などない。
そうであるなら、ご自分の責任において、
思う存分寝られればいいのではないかと思う。
しかし、何か引っかかるものがあるとしたら、
その闇への対処が必要なのかもしれない。

まずは自分の視界にも入らない暗闇に
光をともすことから。



こんな本、書いてる人です。
良かったら是非。


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