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芸人になりたかった東京のバーテンのはなし

友人がこんど東京を案内してと言うので、わたしが知る限りのコアな東京をさんぽに出かけたいと思い、販売員時代にたまに行った道玄坂のバーを調べたら既に閉業となっていた。⁣

そこでは芸人を目指して地方から出てきた、霊感が強くてひょろっとした、指の細いお兄さんがバーテンをやっていて、入店したわたしを見るなり今日はおじさんが憑いてる、だの
そこの坂の下で哀しい女の人をつれてきちゃったの、などと言うので、じんわりと嫌な気持ちにさせてくれた。(その人曰く、わたしはつれてきやすいタイプだったらしい)⁣

芸人(になりたい)といえば、こちらからすれば
そちらはユーモアセンスの塊であると思うし、
もっともはなし上手で当たり前であろうと思うものだが、そのお兄さんは口を開けば幽霊の話ばかりで髪型だってちゃんとしていて、普通。
存在感も、普通。
全然笑えなくて、つまりすごく普通の人だった。⁣

だけどしんとした薄暗い店で怖い話をする時の顔と、声のトーンにわたしたちは大いにビビらされ、異世界へとつれだされた。 芸人よりも怪談師になった方がその頭角を表すだろうと思ったが、わたしには人の人生に容易に口を出す権利もなければ、わたし自身当時接客業をしていたためにバーテンと客のラインはしっかりわきまえていた。⁣

あのお兄さんは地元へ帰っただろうか。今のところテレビでは見かけていない。
どんなタイミングでお店に行ってもカウンターの向こうでグラスを拭き、その細い指の間に挟んだ氷を砕いていた。店内が薄暗くて、もはや真っ暗で、カウンターに何個かの青いライトがぼうと申し訳無さそうに灯っていた程度だったからまともに顔も覚えていない。たぶん向こうも客の顔を覚えていないだろう。⁣
怖い話も佳境に差しかかると、最後にだいたい仕事が決まらない苦労話に変わるお兄さんの相方は国語の教師になりたかったそうだ。わたしたちの知らない相方の話をするときに、もっとずっと低くなる声は、今でもすこし耳を触る。
あのバーのトイレの前のあたりに体育座りをしているとされた、女の人の幽霊はどうしただろうか。例え店が無くなっても、ビルが壊されなければそこに居られるのだろうか幽霊は。そのせいでわたしは、バーのトイレには一度も入れなかったんだ。帰りに渋谷駅近くのトイレで用を足すしかなかった。あのドアを開けることももうない。新宿の街で出会った当時の連れも。
思いだすと時間とともに通り過ぎただけだった。⁣

お化けよりも人間の方がはるかに怖いよ、と。
だから大丈夫だよと、お兄さんが低い声で言ったのは、もう何年も前の出来事だった。

近々わたしは東京へさんぽに出かけようと思う。友人を連れて。道玄坂のバーが駄目なら、神楽坂の居酒屋はどうしているか調べておこう。⁣⁣

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