かっぱ太郎
どうしても治らなかった「れん」の耳の疾患(原因不明の炎症)が、相棒ちぃの闘病が始まったころから、不思議と治っていくお話です。
ちぃの発病から看取りまでの毎日、ちぃが家族に教えてくれた大切なことを忘れないように…。
わが家のやんちゃ坊主、フレンチブルドッグのれんに突然おこった耳のトラブルの始まりのお話です。
ちぃが夜中に突然、大変なことになりました。
秋のある土曜日、ちぃとれんを連れて動物病院へ行ったときのお話です。
ちぃはその秋のある日、真夜中に家族とのお別れをしました。 あまりに静かな最期だったため、そばでぐっすり眠っていたれんは、ちぃの旅立ちに気付かず、そのまま朝を迎えました。 居間の日当たりのよい場所で静かに眠っているちぃが、朝なのにちっとも起きようとしないことに気付いたれんは、 「ちぃちゃん、ちぃちゃん起きて、起きて!」 と、ちぃに向かって吠えました。 私はれんに、ちぃはもう起きないんだよ、と言い聞かせ、れんは吠えるのをやめて静かにちぃを見つめていました。
2017年の夏、ちぃが大学病院で末期ガンの宣告を受け、ちぃの闘いが始まりました。れんはいつも、そばで見守っていました。 ちぃは、週に一度大学病院でガンの写真を撮り、ピンポイントで放射線をあててもらいました。先生は末期なので積極的な治療はできない、と言いましたが、私の希望を聞いてくださり、最後まで放射線治療を続けてくださいました。 お腹と胸の中、そして心臓を包む袋(心嚢)の中にも水がたまり続け、心臓や肺を圧迫します。これを抜いて呼吸を楽にしてもらうとちぃは、手からなら
このとき初めて、大学病院の腫瘍科で、あとで思い返すとれんの相棒であるちぃの心臓のガンを見つけてくださった先生にお会いしました。 検査用の麻酔から覚めたれんは元気に戻ってきましたし、検査の結果もすぐに知らされました。 れんの耳の奥に腫瘍は見つからず、繰り返す炎症の原因は特定できませんでしたが、ガンではなかったことがただ嬉しくて、かかりつけの病院に戻りました。 2016年の初夏のことでした。 この年の末、甲状腺の検査でも以上は見つからず、翌年の夏にちぃの闘病が始
何年経っても一進一退を繰り返し、完治しないれんの耳を診たあと先生は、 「外科療法をしてみませんか?全身麻酔をかけて鼓膜を切開し、中のほうまできれいにする方法です。」 と言いました。 人間の話ですが、娘が小さいころ、慢性の中耳炎を繰り返し、内科療法から外科療法に切り替えたらすっきりと治ったことがありました。 人の場合、全身麻酔も使いませんし、一瞬で鼓膜に穴をあけて中の膿を出してもらいました。娘は乳児だったのでまったく覚えていないと思いますが、ぎゃっと泣いて、すぐに
れんは4歳のときの耳の疾患以来、いつも耳の中が少し赤くなっていました。季節によっては、赤みがひどくなり、ジクジクと液体が出てくることもあり、そのたびに薬が必要になりました。 薬で少し良くなっても、週に一度は必ず耳の洗浄のために通院し、家でも朝晩の耳掃除は欠かせませんでした。 初めのうちは耳に触られるのをとても嫌がって、手に噛み付こうとしました。噛み付くといっても、れんの場合、歯を立てずに「ぱくっ」と唇ではさむようなやりかたなので、私が手を怪我することはありませんでし
2017年の初夏、れんの相棒でひとつ年上のちぃが、急にごはんを食べなくなりました。 緊急入院と手術の必要な病気にかかってしまっていたのです。 入院した日にちぃは10歳になりましたが、れんと私たち家族は、ちぃの誕生日を祝うこともできませんでした。 翌日の手術のことを考えると、お祝いどころではありません。 ちぃは貧血で危険な状態で、手術のあとも何日か入院し、少し元気になって退院しました。 退院したといっても、お腹を切ったあとなので、傷をなめないようプラスチッ
もうすぐあれから一年、いつのまにかちぃは家の中の探索も、仕事についてくるのもやめたようでした。 毎日もらうごはんのお茶碗やお水の入れ物がすごく小さかったり、自分の写真の横に花が飾ってあるのを見て、何か気付いてしまったのかもしれません。 れんとの喧嘩も、みんなで散歩もできなくなったし、それでは、と思い立って旅に出たのかもしれません。何か楽しいことを見つける旅に…。 ちぃ、どうか良い旅を!
その夜のうちに、ちぃは亡くなりました。 ちょうど夜の12時に、家族が見守る中で、ちぃは静かに倒れてそのまま息を引き取りました。ちぃのがんが見つかってから、一か月と20日間の命でした。 真夜中だったので、すぐそばで眠っていたれんは、ちぃとのお別れに気づきませんでした。それほどちぃは、静かに亡くなったのです。 翌日れんは、ちぃの様子がいつもと違うことに気づき、ちぃの亡骸に向かってわんわん吠えました。 ちぃねえちゃん!ちぃねえちゃん!…と、動かなくなったちぃを呼び
ちぃが初めて抗がん剤を使ったその日の夜、仕事を終えて帰宅すると、ちぃは酸素ハウスの中で休んでいました。扉を閉められていたので開けてやると夫が、 「開けちゃいけないよ。ちぃはもう歩けないし危ないからね。」 というのでした。 でも、おしっこやお水をがまんしているかもしれないので、開けてちぃを出してみました。 夫の話では、ちぃはおしっこのときに後ろ脚をうまくたためなくなってしまって、困っていたというのです。私は、歩かせなければますます脚の筋肉が弱ってしまうと思い、ちぃ
手術のできないがんを抱えてしまったちぃが、その最期をむかえるまでの間の痛みや苦しみを、少しでも軽くすることはできないものかと、毎日考えました。 特に、週に一度の大学病院での検査の日には、いつも苦しい選択をせまらせることになりました。抗がん剤を使って、奇跡が起こることに望みをかけるのかどうかです。 奇跡が起こらなければ、ちぃの体に負担がかかり、死期を早めるにちがいありません。 人といぬでは、がん治療に違いがあるのかもしれませんが、抗がん剤を使わなった義父は手術後一
ちぃの胸とお腹にたまる水の量はとても多く、病院で抜いてもらっても3日後には呼吸が苦しくなるほどたまりました。 大学病院での検査と抜水は週に一度で、その間に一度、かかりつけの先生のところで抜水してもらいました。水を抜いてもらうたびにちぃは痩せてしまいましたが、呼吸が少し楽になり、ごはんも人の手からならば少し食べられるようになるのです。 ちぃはいつも、用意されたごはんの半分を食べるのがやっとだったので、れんが自分のごはんを食べ終わるとすぐに、ごはんをもらっているちぃのと
ちぃは、大学病院の動物医療センターに行き、腫瘍科の精密検査を受けました。予約の時間は午前11時で、結果が出るまでの長い長い時間を、夫と待合室で過ごしました。 やがて午後になり、センター長を務める腫瘍科の先生の口から、 「残念ですが、心臓に腫瘍があります。」 という言葉を聞いたときには、いろいろな覚悟をしていたはずなのに、動揺しました。 心臓という、私が想像もしなかった場所に、腫瘍があるのです。 先生は、心臓の中の壁に腫瘍があり、それが原因で全身の循環が悪くな
誕生日の翌日に手術し、数日病院に泊まったちぃは、帰宅したあと日に日に元気になってゆきました。首のまわりには傷をなめないよう、大きな襟状の防具をつけられ、パラボラアンテナの中から頭を出しているような状態で気の毒でしたが、ごはんもよく食べ、家の中を走り回りました。 ちぃがパラボラで闊歩するたび、れんは轢かれるのを恐れて道をゆずりました。ソファにも飛び乗ったりするので、お腹の傷がソファのへりでこすれて、床の敷物が血だらけになってしまいました。その日家にいた夫と娘がびっくりして
れんがかなり元気になったころ、動物病院の先生が 「れんちゃんのご飯を増やして、ちゃんと体重が増えるかどうか確認しましょう。」 と言うので、ちぃの2倍の量のフードを食べさせることにしました。 耳を患う前は、ちぃの1.5倍の量のフードを、わき目もふらずにほんの数秒で飲み込み、どんぶりをきれいになめて、まだ一生懸命食べているちぃの傍へ行き、ちぃが食べ終わるのを待って、どんぶりの底にこびり付いたフードを丁寧になめるのが、れんの日課でした。 でも、今のれんは、目の前に置か
そして6月1日、れんは無事に4歳になりました。 3月の末から5月の末まで、動物病院に通い、ようやく元気になりましたが、れんは以前よりも、ご飯を食べるスピードが少しだけゆっくりになりました。 3月末に突然発症した顔面神経の麻痺と、耳の奥の炎症は、飲み薬と点耳薬で、日に日に良くなり、耳から赤っぽい汁が出る症状も、数週間後にはおさまりました。 病院に通い始めてから数日の間は元気がなく、ひとつ年上の「ちぃ」とも遊べず、ご飯を食べて寝るだけの生活でした。 ごはんを残
わたしの実家の母は、幼いころの中耳炎が原因で左耳が聞こえなくなり、今でも、疲れがたまると、耳の奥の「三半規管」の不調からくるめまいに悩まされています。 母が初めてこの病(メニエール病)で倒れたとき、私は小学生でした。 突然入院してしまった母は、ひどいめまいと吐き気で病室のベッドから体を起こすことさえできないのに、ベッドのわきでいまにも泣きだしそうな私を見て、 「メニエールは、死ぬような病気じゃないから、大丈夫だって、先生が言ってたよ。」 と言いました。そのときの