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椎名林檎という名の壁

僕は以前「椎名林檎という名の壁」という日記を書いた事がある。
ちょうど一時的に音楽活動を辞めていた時期だった。
いろんな想いがそこにあるので、全文を引用しておく。

2002年2月21日
椎名林檎という名の壁

1998年。
俺が殆ど音楽活動をしていなかった年、
その隙を突いたように椎名林檎さんはデビューした。
実は、その年の2月に千尋さんのシングル
「ストロベリーフィールズ(←俺の曲だ!)」が発売されていて
そのアレンジが亀田さんだったりするのだが
そんな共通点にもまったく気付くことなく、日々過ごしていた。
気が付くと林檎さんは大ブレイク、
知らない人がいないような存在になっていた。
TVや雑誌で見る姿は、俺の好みのように思われ
曲も個性的かつエモーショナルで聴いてみたいなと思わせるものだった。
だが、知らないうちにとてつもなく大きくなってしまったんだよ。彼女。
なんだか後追いのような、流行り物好きの若ぶってるオヤジみたいな。
そんなことになるのも、なんだか嫌で
ただ、彼女の活躍ぶりをボ~っと眺めていた。

彼女の登場以後
彼女のような詩や文を書く人
彼女のように歌う人が増えた。
まぁ以前から居たのだろうが、目立つようになったんだね。
そんな世間を眺め、自分は
時代に取り残されたような無力感に包まれた。

翌年、個人的に変動があり
音楽活動を一部再開することにした。
同時に、以前のような「世間の動きチェック」も再開した。
様々な人や音楽と出会い、そうして今がある。

椎名林檎というものを浚い直すこと。
それは俺にとっては、最後の大きな壁に
ぶつかって行くということのような気がする。
いつか彼女の音楽を「すごく良いね」なんて言いながら
聴ける日が来る、そう思っているんだ。

この日記を書いた翌年、林檎さんは「加爾基 精液 栗ノ花」をリリースし、九段会館で復活、初の武道館公演を含む「雙六エクスタシー」を行うことになる。復活再結成するバンドの多くがそうであったように、5年前の全盛期の椎名林檎を知らずに過ごした人々にとっては、初のこれが生林檎経験だったはずだし、それ以外でも、例えば、知ってはいたが当時は子供だったので聴けなかった、観られなかった、という人にとっても、初経験となったわけだよね。それこそ「伝説」を実際の目で確認する最初の機会となったわけだ。

そして僕自身も、遂に椎名林檎と出会うことになる。
ただしそれは壁越しであった…。2003年9月27日。「雙六エクスタシー」終演間近。武道館の外に僕は居た。微かに漏れ聞こえる音。コントラストの激しい曲調。そして長い空白。それはアンコールの拍手であったのだろう。そして始まるアンコール。それは「正しい街」という曲であった。当時の僕はこの曲を知らない。知らなかったが、この曲は、それまで演奏されていた曲と違い、壁の外からでもコード進行がはっきりと聴こえた。いきなり始まった定番のカノン進行に僕は鳥肌が立った。
それまで僕は、椎名林檎のことをエキセントリックでわけのわからないオルタナJPOPだと思い込んでおり、そんなものが大ブレイクするなど、僕の時代も終わりだ…、と勝手に落ち込んでいた。だから前述のようなブログを書いたのだ。しかし、壁越しに聴こえた「正しい街」に在ったものは、極めて正当なポップ進行だったのである。僕はその瞬間「これでいいのか!!」と。すべての闇がす~~~っと消えていくような感覚になった。勝手に「近寄りがたい」と遠ざけていたはずの椎名林檎の音楽が「アナタのやっていることは正しいのですよ」と僕に言っていた。そこにあったものは「圧倒的な肯定」だった。

この出会いがきっかけで僕は再び音楽活動を始めることが出来た。

そして今は2015年。相変わらず壁は存在している。そしてこれからも壁は永遠に存在し続け、僕は永遠に超えられないかもしれない。でもきっとそれは幸せなことである。

PS
この出会いのことを歌った僕の曲が「kitanomaru」です。

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