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僕のこと知ってもらうために。〈ワーママ プレゼント 整体〉

コレは時間がある人だけが読めば良いと思います。
つまりは、内容は空っぽです。

僕のことをただただ書いていきます。

僕はサッカーを高校卒業までやっていました。
卒業後に柔道整復師国家資格を取るために帝京短期大学に入学しました。

母子家庭、男3兄弟。
資金の援助をしてくれていた祖父と祖母にはサッカーしている時からとても感謝していました。

しかし祖父は僕が高校3年生、部活が忙しい時に具合が悪化。
入院してからもなかなか会いに行けず。
僕はサッカー部の親友の家にお世話になり、他の家族は皆で母の実家の尼崎に暫く行く。
そんな時期が何度かありました。

それでも隙間を見つけ、祖父には1度だけ
亡くなる前に顔を合わせることができました。
中学の時から、兄弟の中でも僕だけクラブチームで忙しく、なかなか会えていませんでした。
なので本当に、とても久しぶりの再会。
あの時の時間は今でも忘れません。
でも、その時はすでに祖父はベッドから体も起こせず、言葉も発せないほど衰弱していました。
そして、その後会うこともできず祖父は亡くなってしまいました。

学校と部活があり、特に部活は大会期間中で御葬式や諸々全て行くことはできませんでした。

祖母を大切にしよう。

僕は胸に誓いました。

そして大学生活が始まるのですが
1年生の頃から僕は接骨院に勤めていました。
休みも少なく、朝から学校のギリギリまで働いて夜に学校に行く。

そんな生活は充実していましたが、忙しくもありました。
国家資格をとったら胸を張って感謝を伝えて、祖母に恩返しをしたい。
そう胸に誓い、日々勉学に励んでいました。
国家試験前の最後の1年は、本当に寝る間も惜しんで勉強していました。
本当は効率が悪いのかもしれませんが当時は我武者羅で、寝落ちするまで勉強して、寝落ちしても体が痛くて出来るだけ目がさめるように。
誘惑で寝床に行かないように寝具も全て片せる物は片して使えない状態にして。
目が覚めたらまた寝落ちするまで勉強。

出勤して、学校に着いたら少しの時間でも勉強して、移動も人目も気にせず邪魔にならないように、寝落ちしないように広めのスペースに行って立って教科書を開き、ノートを開き、帰ってもまた寝落ちするまで…
というサイクルをずっと過ごしていました。

国家試験を受ける前段階の試験にも無事通り、あと少しで国家試験。
無事に国家資格を取れたら、今までの感謝を伝えて、体のケアとか出来ることをしてあげたい!
そんなことを考えていました。

そんなある日でした。

家に帰ると母が深刻な感じで電話をしていました。
ぼくも部屋に戻り、物音立てないように勉強の準備を始めつつ
耳を澄ましていました。

ガタン

という音と同時に
母のすすり泣く声が。

動揺した様子で名前を呼ばれ、事情を聞き
ぼくは唖然としました。

『ーーーおばあちゃんが亡くなった。』


ぼくは出来るだけ落ち着こうとしました。
外に出て空を見上げました。
母が気になり5分もせずに家に帰りました。

翌日には実家の兵庫県へ向かいました。

事情を聞くと
祖母は急死でした。

脳の動脈が破けてしまったようでした。

一応医療系を勉強してたぼくは、そこが好発部位であることもスグわかりました。

でも…

納得できるわけがなかった。

それは母も同じで、亡くなる2日前に祖母と電話していて
それが尚の事、現実を受け止められていない要因になっていました。

ご近所さんも、発見される3日前まで買い物に行く元気な姿を見たり、おしゃべりをしていたようだった。
いつもちゃんと回収していた新聞がたまっていたことを不審に思った配達の人が連絡してくれて、今回判明したようだった。
3日でそう思ってもらえたのは、日頃からきちんとしていた祖母のおかげだろうと思う。

脳動脈瘤の破裂は前兆が無いケースも多い。

分かっている。
けど、僕自身も納得出来なかった。

なにより、悔しかった。

祖母は少し視力に問題を以前から抱えていた。
それが前兆の内の1つだったのかもしれない。

目が悪かったので、極力2階には上がらないように頻繁に注意していた。
母の実家の階段は急で結構危ない。

なのに、亡くなっていたのは2階だった。

僕はそれもすごく悔しかった。

なかなか会いに行けてなかった。

もう少しで国家試験も終わって、胸を張って会いに行って感謝を伝えたかった。

おじいちゃんが亡くなってしまった分、おばあちゃんにはできるだけ体のケアとか出来ることをしてあげたかった。

何も出来なかった。

感謝すらきちんと伝えられなかった。

亡くなり方も、1番嫌だった。

だって、孤独死じゃないか。

会えてなかった僕にはすごく胸に突き刺さった。

亡くなったのも2階。
おじいちゃんの仏壇があるのは1階だよ…

亡くなる時も1人だっただなんて。

そこに3日もいたなんて…

頭を何度も何度も何度も
様々な思いが無限にループした。

涙は止まらなくて
2階の亡くなった場所から僕はずっと動けなかった。

葬儀中も移動中も、人目を憚らずに
人生で1番涙が流れた。
おばあちゃんの側から、最後の最後まで離れられずに
膝をついて泣くぼくを親族に抱えられて会場を後にしたのを覚えている。

〜〜〜

母を大切にしよう。
せめて母よりは長生きしよう。
最大の親不孝は先に死ぬことだ。
大したことはできなくても、これだけは絶対。

ぼくはこの事を胸に刻み込みました。

〜〜〜

しかしぼくは
これすら守れなかった。

プロフィール書いてあるけど、ぼくは心を壊しました。

人によっては弱いだけと言われるかもしれませんが、それはそれで構いません。

当時で5年ぐらい、一人暮らしをしていました。
するとある時期からなんだかおかしいなと感じ始めました。

結論を言うとぼくは重度のうつ病になりました。
要因は挙げればきりがないのと、長くなるのでだいぶ割愛しますが。
あの時のぼくはおかしかったと、今なら思う。

仕事前、働きたいのに出勤に気が向かない時期が続きました。
もちろん、それでも働きます。
自分に気のせいだと言い続けました。
職場で頼られていたと言うのも嬉しかったし、人に必要とされるのがとても好きだから。
自分の好きな周りの人のために頑張りたいと思っていました。

しかし、夜に何でかわからないけど泣き出す日が続いたり
とうとう外出も嫌になり
出来なくなりました。

病院嫌いなぼくでしたが、流石に病院に行きました。
診察結果はうつ病。

その時にはぼくは
人が怖くなり
外出も怖くなり1人では出来なくなりました。

パートナーも必死に支えてくれました。

でも、ぼくは自分自身を
周りを
裏切りました。

ぼくは自殺未遂をしました。

運良くパートナーが帰宅して救ってくれました。
その日はいつもの時間を過ぎても帰宅しなかった事と、朝のやりとり的にも実家に帰ったのかなと思っていた。
そのタイミングで起こしたのですが、偶然その日は帰りが遅くなっただけでした。

緊急搬送されたぼくは、本当に運良く後遺症も残らなかった。
あと少し遅ければ命もそうだけど後遺症は避けられなかったと。
本当に運が良かったみたいだ。

そこからはパートナーと一緒に住んでた家から引っ越し
医者から入院を強く勧められたけど家族の願いもあって、実家での自宅療法に。
引きこもりを経て、今も通院しながら
少しずつ活動を進めている。

周りのサポートのおかげで
1人での外出もできるようになり
人への恐怖心もなくなり
人と会うこともできるようになった。

ぼくの好きなことで
ぼくのやりたいことで
心身ともに無理のないように
自分自身注意しながら

ぼくは今を生きています。

本当にいろんなことがあった。
けど、

ぼくはやっぱり人が好きで
人の身体を良くすることが好きなんだと
自分を見つめ直して確信しました。

今までずっと学び続けてきました。
回復してから買った最初の本も、治療関係の参考書でした笑

ぼくは周りの人に救われた
笑顔ももらった
今も助けられている。

自分の手の届く範囲だけでいい。
誰かの笑顔のきっかけになれたら。
誰かの力になれたら。
ぼくは嬉しい。
そうなりたいと思ってる。

ぼくのできることで
ぼくのすきなことで。


もしここまで読んでくださった方
長文駄文を最後までありがとうございます。

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愛され小顔

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