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2代目 桂枝雀師匠のこと

からふねです。
今回は落語について書いてみようと思います。

昨今、何度目かの「落語ブーム」が到来しております。
最近ならアニメ「昭和元禄落語心中」が人気を博しましたし、それまでも映画やドラマで落語を題材にしたものが放映されました。何年か周期の「ブーム」なのでしょう。
不肖からふね、昔から落語はよく聞いていました。生まれも育ちも大阪なもので、もっぱら「上方落語」が大半です。
しかし私が「落語めっちゃおもろいやん!」と思うきっかけになったのは、桂枝雀(かつら・しじゃく)の存在を知ってからでした。
亡くなって今年でちょうど20年。今も枝雀師匠をリスペクトする人は数多く、たとえば松本人志さんや千原ジュニアさんが師匠からの影響を公言しています。
今回はそんな枝雀師匠のことを書いていこうと思います。

1.出生、10代目桂小米の頃

本名は前田達(まえだ・とおる)。1939年8月13日、神戸市灘区中郷町にブリキ工を営む父の長男として生まれました。5人きょうだいの4番目でした。
中学卒業後、電機メーカーの工場の養成工として勤めながら定時制高校に進学。そのさなか、在阪ラジオ局の演芸コンテスト番組に出演してその才能を認められるようになりました。その後も数々の演芸番組に出演し賞を獲得する中で、後の師となる3代目桂米朝(かつら・べいちょう)師匠の目に留まり、1961年に弟子入りを認められます。住み込み弟子として名乗ったのは「10代目桂小米(かつら・こよね)」。
入門当初から稽古には熱心で、寝る間を惜しんで落語に没頭していたといいます。その努力が認められ、通常3年かかるという「年季明け」を2年で完了。
才能の一端は見せていたわけですが、当時の小米時代の芸風は繊細で鋭角的といわれ、「分かる人には分かる」というマニアックなものだったらしいです。また米朝師匠から「後ろのお客さんまで届かない」と注意されるほど繊細な声色だったともいいます。
順調にキャリアを重ねて結婚をし、最初の子供も授かったさなかの1973年、道頓堀角座に出演するため妻の止めたタクシーに乗った小米は、すぐにタクシーを降りてしゃがみ込んでしまいます。困り果てた妻は米朝師匠に連絡し、小米を病院に連れていきます。
診断は、重度のうつ病。家庭や弟子を持った責任からくるプレッシャーや自身の芸への不満に加え、当時社会問題化していたPCBに自分も蝕まれているのではないかという不安があったといいます。小米は部屋に閉じこもり、食事や風呂もしなくなり、妻に離婚まで切り出したとか。最後に行った阪大病院での診断と辛抱強い治療により、症状は2ヶ月ほどで回復し、4月には高座に復帰を果たしました。
回復した小米は妻に「あんなしんどい病気にはもうなりたくない。これからは笑いの仮面をかぶる」と話していたそうです。「その仮面を何十年もかぶり続ければ、仮面が顔か、顔が仮面か、わからなくなる」と。
末路を知っている今となっては複雑な気持ちになる言葉ではあります。

2.2代目桂枝雀襲名、唯一の高座の思い出

翌年1973年、小米は2代目桂枝雀を襲名しました。
襲名を機に芸風は大きく変わりました。激しい所作と大きく声を張り上げることで多くの観客を笑いに巻き込み、「爆笑王」として大衆的な人気を得ました。

私が枝雀師匠の高座を最初に、そして最後に見たのはこの頃でした。
ここで、しばし思い出話にお付き合いの程を。

当時小学生だった私。近所のおばちゃんから「枝雀さんの落語めっちゃおもろいで」と教えてもらったのがはじまりでした。テレビやラジオで放送された師匠の高座を……当時はまだビデオなんて代物は無かったので、ラジカセでテープに録音したものを繰り返し聞いていました。
そのおばちゃんから、「近々家の近くの大学に、枝雀さん来るみたいやで。来てみる?」と誘われ、二つ返事で承諾しました。
母と姉を伴い、やって来た場所は桃山学院大学の登美丘キャンパス(現在は初芝立命館中学校・高等学校)。どうやら同学の落語研究会が枝雀師匠を招聘した模様です。
通されたのは大学の教室。超人気落語家の独演会ということで既に満席。学生は勿論、近所のおっちゃんやおばちゃんらしき人もいました。子供は私ぐらいだったかと思います。
逸る気持ちを抑えて待っていると、教室の前方に設けられた見台と膝隠に、スキンヘッドの男性がふらっと現れました。
「えー……しばらくの間お付き合いを願うのであります」
最初にそう告げてからはじめた最初の噺……あっという間に教室じゅう爆笑の渦と化し、私も正直笑いすぎて何の噺だったのかよく覚えていないぐらいです。
でも、2つ目の噺が「時うどん」だったのは覚えています。詳細は下の動画をご覧あれ。江戸落語だと「時そば」になるんでしょうか。

そのマクラで、「今どきは随分少なくなりましたが、昔は豆腐売りやら金魚売りの、威勢の良い声がよお響いたもんです」というくだりを話しはじめました。
私はいつの間にか教室の通路をするすると降りていって、舞台の最前列の、階段の上で座り込んでいました。
「金魚ー、えー、金魚ー」とオーバーアクションで声を張り上げる師匠を間近で見ました。秋なのに顔を真赤にし、汗をかいての熱演でした。
師匠を見上げていたら、不意に目が合いました……といってもイジられることはなかったのですが、一瞬こちらに笑いかけてくれたような気がしたのです。気のせいかも知れませんが。

高座自体大満足の出来で、たっぷり笑い転げました。
そして当時の私は「いつか師匠の高座を見に行きたい」と思いました。サンケイホールで定期的に開いていた独演会なんて、小学生が気軽に買える値段のチケットではありませんでした。だからバイトが出来る高校生や大学生になって、自分のお金で見に行きたい、と思ったのです。

3.うつ病再発、そして

その後、枝雀師匠は桂三枝(現在の6代目桂文枝)師匠と「三枝と枝雀」という番組や、「笑いころげてたっぷり枝雀」という単独冠番組に出演し、その人気を不動のものにしました。
「なにわの源蔵捕物帖」や「ふたりっ子」といったテレビドラマや、映画「ドグラ・マグラ」にも出演。そして師匠オリジナル作の「英語落語」にも積極的に挑戦し、ホノルル・ロサンゼルス・バンクーバーにて英語落語の独演会を行いました。

精力的に落語三昧の生活を続けた師匠でしたが、段々と精神的に追い込まれていきます。自分の芸への不安、自分のミスが周囲の迷惑になっていないかという強迫観念……少人の観客を招いて行われた独演会「枝雀ばなしの会」の後、枝雀師匠は再び闘病生活に入ります。うつ病の症状は前回よりも重く、内臓にも異常がありました。夏頃にいったん復帰し、何度か寄席小屋やテレビ収録で客席が沸いた様子を目の当たりにしても、師匠は満足する反応を見せないままでした。
還暦を前に様々な企画が構想され、『枝雀落語全集』や『桂枝雀写真集』の刊行も計画されていた矢先の1999年3月13日夜。
枝雀師匠は、大阪府吹田市の自宅で首吊り自殺を図ったところを発見され、意識不明の状態で病院に搬送されました。懸命の看護も虚しく、一ヶ月後の4月19日、意識が戻らないまま心不全のため息を引き取りました。享年61。
遺書らしきものは一切なかったため動機は今に至るまで不明です。

何で大学の時に独演会に行かなかったんだろう、せめて社会人になってどうしてすぐに独演会に行かなかったんだろう……
訃報を知った晩、私は部屋で泣きながら、ひとりで落ち込んでいました。

枝雀師匠が生前繰り返し仰っていた格言に「笑いとは緊張の緩和である」というものがあります。

師匠が唱えたこの理論は、現在においても様々な芸人さん、構成作家さんが「基本」として受け継いでいます。この理論がある限り、枝雀師匠のことを人が忘れることはあり得ないでしょう。
そして私も忘れません。2代目桂枝雀という偉大な落語家がいたことを、ずっとずっと語り継いでいきたいと願っています。
一度しか生の高座を観られなかった弱いファンでも、そのぐらいなら出来ると思いますので。

4.私がおすすめする噺を4つほど

昨今はYouTubeで師匠の映像がすぐに観られるようになり、本当に便利になりましたね。
最後に、私おすすめの、枝雀師匠のお噺を4つ紹介します。ほんま選ぶのに苦労しましたよ! 異論はたくさん受け付けます。

・代書(だいしょ)
私が多分最初に聞いた師匠のお噺です。「代書」というのは物書きが出来ない人に代わって、履歴書などの書類を代筆する職業のことで、「代書屋」とも言います。現在でいう司法書士や行政書士のことですね。
代書屋と、彼の元を訪れた無筆の男とが繰り広げる、ピントのズレまくったやり取りがおっかしくて……

・くっしゃみ講釈(こうしゃく)
主人公の男が彼女と夜半逢い引き中に、犬の糞を踏んだ講釈師によって逢い引きを台無しにされ、彼女から別れを告げられてしまいました。恨みを晴らすべく、講釈師の講釈をめちゃめちゃにしてやろうと画策するお噺。
ラスト近く、唐辛子の粉を大量に吸った講釈師が、こらえきれずにくしゃみを繰り返しながら講談を続けようとする様が本当、ジャズのセッションにも似て、私は大笑いしながらいつも見入ってしまいます。

・鷺(さぎ)とり
金銭目的で鳥を捕まえようとして失敗した男の起こす騒動を描いたお噺。
このお噺は徹頭徹尾荒唐無稽です。「鷺よー!」と鷺を呼ぶ声を小さくしつつこっそり近づいていって鷺が安心しきった所を後ろから捕まえる、とか、大量の鷺を捕まえようとして逆に鷺の群れに引っ張られて空を飛ぶ、とか……それが面白おかしくも飽きることなく聞かせてしまえるのは、さすが師匠だなと。

・崇徳院(すとくいん)
最後はこれ。私が一番好きなお噺です。
商家の若旦那が重い「気の病」にかかりました。親旦那は店に出入りする職人・熊五郎に「気の病の原因を若旦那から聞き出して欲しい」と頼みます。
聞き出すと、高津の茶店で出会った美しい娘に一目惚れしたとのこと。熊五郎は親旦那からその娘を探し出すよう頼まれるのです。
名前も何も分からないその娘の唯一の手がかりが、若旦那が娘との別れ際に手渡された料紙にある「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の」の句。これは百人一首で崇徳院が詠んだという句の、上の句だけが書かれたものです。
熊五郎は大阪の町中でこの句を大声で叫びながら、娘を探し回るのですが……
大笑いしながらも、ちょっとよく出来たストーリーで、まるで恋愛ものの映画を観たような爽快感すらありますよ。

この他、師匠の落語の映像はたくさんYouTubeにあります。
もっと深く知りたければDVDやCDで。

昨今のブームで落語を知った方、「おもろい落語を知りたい!」のなら、断然桂枝雀師匠ですよ!

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