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『放浪息子』 志村貴子

もう忘れてしまっているかもしれないけれど、じつは僕たちは子どもだった。僕たちは子どもだてらに悩んだり、擦り傷をつくったり、つま先立ちをしたり、布団のなかで丸くなったりしていた。父親にテレビの前を横切られたし、ほこりっぽいカーテンの保健室でひと時を過ごしたりした。あたり前だけど、そこには夕焼けがあったし、夏があったし、電車もあった。そんな子ども時代の、小学校の高学年から高校生になるまでの、ひとりの少年(似鳥くん)と、その周りの子たちの物語が『放浪息子』で、その少年は「男の子」として生まれたけれど「女の子」になりたくて、転校した小学校にはたまたま「女の子」として生まれたけれど「男の子」になりたい少女(高槻さん)がいた。

子どものころを描くというのは、なかなかに難しいと僕は考えている。
というのも、それは一色ではないからだ。
確かに反抗期はあった。確かに辛かったことがあった。確かに大人よりも世界を見通せているような自信があった。でも、それだけではなかったはずだ。振り返ったときにみえる、ひとつの「子ども時代」なんてなくて、僕たちは親と喧嘩したあとにも、テレビをみて笑っていたし、かと思えば死をとても身近に感じたりもした。シーツの冷たさに泣きそうになった翌朝に、ばかみたいにアロエのヨーグルトを食べたりした。ひとつの「思想」に貫かれた生き方なんてしてはいなかった。そうした傷つきやすさやシニカルさや、もちろん純真さだけが子ども時代では、ない。今ならそうしたことを、こうやっていくつかの言葉を連ねて、表現することができる。けれど当の子どものころ、肝心の僕らには言葉が足りていなかった。『放浪息子』はそうした「言葉」の足りていなかった僕たちが、言葉を得ていく、という話でもある。例えば似鳥くんのお姉ちゃんはフラれた弟に、かわいそうだと思いつつもホっとしてその時の感情を言葉にできないように。例えば似鳥くんが中学校の文化祭の催し物でファッションショーを行った際に、高槻さんといっしょに並んでランウェイに登場し、そのときの場内の静まりを「せいひつ でよかったんだっけ なんかそんな言葉 たぶん」と感じたように。そうして最後、似鳥くんは自身の子ども時代を総括するように、小説の執筆を行う。安那ちゃんがその小説を読んで、似鳥くんが死んでしまうように感じたのは、似鳥くんが小説の執筆という作業を通して、みずから自身と決別していくからだ。言葉を得ていくというのは、同時に、言葉の足りていなかった世界を失っていくということでもあるから。

そのとき似鳥くんは、ただ自分を主人公に小説を書くのではない。
彼は周りの、共に同じように言葉の足りなかった世界から大人になっていった友人たちの視点を交えた小説を描く。それは似鳥くんと同じように「女の子」になりたくて男の人が好きなマコちゃんであったり、大人びていて気高い千葉さんであったり、クラスメイトで高校に入ってから坊主にした土居くんであったりもする。いま振り返れば子どもの頃の交友関係とは不思議なものだ。あんなやつ、と思えるような子と平気で遊んでいたし、喧嘩もしたけど仲直りもしていた。僕たちは互いの脆さをあまりしらなくて、だから平気で人を傷つけたし、傷つけられたりもした。例えば『放浪息子』で幾たびか登場する「取り上げる」なんて行動は、大人の世界では考えられない。書いているもの、読んでいるものを取り上げて、挙句の果てにはパスしてみんなの前で読むなんて、もってのほかだ。でも、それはあの校舎のなかに確かにあった。お姉ちゃんのまほ(ぼくが『放浪息子』に出てくるキャラクターのなかで一番愛着のあるキャラクターで、『放浪息子』を読むとそうした子がひとりは見つかるのだ)の日常的な弟への暴力もまた然りだ。

そうした関係のなかで、僕たちは互いに何者かに出来上がっていった。
選択肢は自分の手のひらにはなくて、常に与えられるばかりだ。
似鳥くんが最初に女装するきっかけを高槻さんから貰ったように。逆に高槻さんに似鳥くんが自分らしくいきる選択肢を与えたように。
髪を伸ばす、思い切って切ってみる。ちょっといつもと違った格好をしてみる、アクセサリーを身に着けてみる。どれひとつをとっても、それはその選択肢を他人から与えられる以前には、予想だにしなかったことだ。(ほんの些細なことなのになぜか。)そして僕たちは選んできた。自分の心や体と折り合いをつけながら。自身の体に違和感を感じ、大きめのパーカーにそのラインを隠すばかりだったなか、「もっと見せればいいのに 体」と赤の他人にいわれ、女性らしいとされる格好をし始める高槻さんのように。

僕たちは子どもだった、はずだ。
でももう思いだせない。仮に思い起こしたとしてもそれは断片で、その断片だけで1日が成り立っていたわけではない。書き込みの抑制された柔らかな描画のなかで作者の志村さんが表して見せたのは、一色では染まりきらない1日だ。そしてその積み重ねだった子ども時代だ。『放浪息子』のなかには、そうした子ども時代が、ある。



最後に。
『放浪息子』という作品が、子どもだけで成り立っているわけではもちろんない。そこには親がいるし、先生がいるし、似鳥くんや高槻さんにはユキさんとしーちゃんという大人や、物語の後半には海老名さんという銀行員もでてくる。ただそこに言及するためには社会を語らなかればならないし、いま僕ができることではなかったので、割愛した。彼らのエピソードに言及しなかったことが、彼らのように生きることを無視したことではないことだけは、最後に記しておく。

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