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日記(2022/6/5)

今日は朝に起きていつも通りYoutTubeでマリオカートのゲーム実況を再生してからは、数ヶ月ぶりに人間らしい生活をした。ギリギリ「人間の居住環境」と認められるまで部屋の片付けをしてから、軽く化粧をして最近買ったサングラスをかけて昼前に家を出て、近所のカフェに入ってコーヒーを飲みながら宮沢賢治『ポラーノの広場』からいくつかの短編を読んで無事にうち負かされ、カフェを出て薬局とスーパーで諸々の買い出しを済ませて家に帰ってNetflixで『オーシャンズ8』を見ながら半年ぶりに鍋と炊飯器を引っ張り出してカレーライスをこさえて冷凍庫にぶちこんで、go!go!vanillasのプレイリストを流しながら昨日買ってきたドリップコーヒーをフィルターで落として、すこし前に構想だけふわりとメモしたきりだったお話を練り直してから、早い時間に風呂に入ってメンテナンスのフルコースを済ませ、いまこの日記を書いている。汚泥のような休日にしかならない日もあれば、今日のような「かんぺきな休日」を満喫できる日もある。

今日の気づきは「休YouTube日」にできる日は積極的にした方がいいということである。好きなYouTuberの笑い声からしか得られないエネルギーというのは確かに存在するが、ここ最近はYoutubeを再生しながらうっかり1日中ぼんやりとしてしまい、他の諸々のことを考える時間が取れないうちに寝る時間になって「今日もなんもできんかったわ」としょんぼりすることが多かった。
今日はふとgo!go!vanillasが聴きたい気がして再生してからは溜め込んでいた家事に手をつけられたり、本を読んだりPCを叩く時間が取れたりして「今日はなんか色々できたな」と久しぶりに満足している。禁止するものでもないけれども、意識して用法用量は守った方が結果的に良いこともある。

それはさておき、宮沢賢治である。宮沢賢治はいったい何者なんだ。小学校の時に教科書に収録されていた「やまなし」について、万物に命が宿るという考え方の”アニミズム”で説明されているのをだいぶ前に読んだことがある気がする。いまでもその解釈に対して異論はないが、もうそういうレベルの話じゃない気がするなとも思った。「無機物に命が宿っていたら」というファンタジーで宗教じみた考え方を宮沢賢治は持っていたんですね、みたいな「オモシロめずらしさ」で片付けてはいけない(だれも片付けてないかもしれないけど)。驚くべきは「彼ら(ネズミや花や風や鳥籠)が宮沢賢治と同じ時代に生きていて、宮沢賢治は彼らの生活を直接見聞きしていたのだ」と信じてしまうほどの、その世界の立体感と色鮮やかさと有無を言わせぬ説得力だと思う。
わたしは宮沢賢治の書くお話のカラフルさと世界の広さが好きだ。こんなお話が書けたら絶対楽しいだろう。羨ましい限りである。

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