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掌編小説『恋の始まりは晴れたり曇ったりの四月のようだ』

 不倫なんてまっぴらごめんだ。今だってまだ、そう思っている。
 けれども、好きになってしまったのだから仕方がない。燃え始めた恋の火を消す方法なんて、ワタシは知らない。障害が大きいほどに強く燃え上がるのが、恋の炎というものらしい。パッサパサに乾いていたワタシの恋心はきっと、音を立てて盛大に燃え上がることだろう。

 仕事から帰り、ジャケットも脱がずにベッドに倒れ込む。前のオトコと暮らしていた時は手狭に感じていた部屋も、独りになってしまえば何とも広く感じる。
 バッグからスマートフォンを探り出して時間を確認すると、九時を過ぎたところだった。カレはもう家に帰り着いて、奥さんの作った夕食を食べているのだろうか。それとも目尻を下げて、子供たちの頭を撫でているのだろうか。メッセージアプリを開き、カレからの着信を確認する……こんな時間に、着信なんてあるはずもないのに。
 会社の上司と恋に落ちるだなんて、自分のことながら信じがたい。今の部署に異動になって三年、思えばカレはワタシの面倒をよく見てくれた。でも上司部下の関係からはみ出る気配なんかなかったし、どうして今頃になってカレに惚れてしまったのか解らない。気がついたら、好きになっていた……そうとしか言いようがないのだ。
 ときおり見せる淋しげな笑顔に心撃ち抜かれたのか、新人たちにセクハラと揶揄される艶のある会話にひかれてしまったのか……もしかすると、単にワタシが寂しかっただけなのかも知れない。半年前に同棲していたオトコを追い出したばかりだし、代わりにネコでも飼おうかなんて思ってたところだし。

 カレはけっこうオジサンだし、お腹は出てないけどイケメンでもないし、それどころか前髪が薄くなりかけてるし、でも本人はそれよりも白髪を気にしてたりするのだけれど、そんなところも含めて可愛いなって思ってしまう。オジサン相手に可愛いもないものだけど、そう感じてしまうのだから仕方がない。
 ベッドの中で、気取らないところも好ましい。耳元で愛の言葉なんて囁かれた日には、白けるどころか吹き出してしまうのだけれど、カレははそんなことはしないし「気持ちいい?」なんて無粋な質問だってしない。ただただ貪るようにして、ワタシの体を味わうばかりだ。そんな風に求められた方がワタシも気が乗るし、体だって応えるというものなのだ。
 歳が離れているのに、不思議なことに話が合う。もしかすると、カレが話を合わせてくれているだけなのかもしれないけれど。でも、感じ方や考え方が似てるんだろうな……とは思う。ワタシが良いなって思うものはカレも良いって思うみたいだし、カレが好きなものはワタシも好きだ。感性が近いってのは、大事なことじゃないかと思う。同じものを見て、同じように感動して、同じ気持ちをシェアできるだなんて、とても素敵なことじゃないだろうか。お互いを見つめ合うよりも、二人して同じ方向を見つめる恋愛の方が素敵だと思うのだ。

 恋の始まりは晴れたり曇ったりの四月のようだ。
 そう言ったのは、シェイクスピアだっただろうか。ワタシの心もカレを想って、イングランドの四月の空のように晴れたり曇ったりと忙しい。
 コチラからは電話もできず、メールやメッセのやり取りもできず、オフィスで顔を合わせちゃいるけど逢引すらままならず、恋の始まりだと言うのに時間だけはたっぷりとあるものだから、カレのことばかり考えている。
 恋は盲目とばかりに、カレを想って浮かれていたい。でも悲しきかな、浮かれてばかりはいられないのだ。カレには奥さんが居るし、子供だって居る。現代日本の社会的ジョウシキから考えれば、決して褒められた関係ではないのだから。
 でも、ジョウシキってヤツを無視して述べるのなら、カレは決して誰かの所有物ではないし、奥さん以外の誰かを好きになることだって自由なはずだ。そして職場の部下が、うっかり惚れちゃうことだってあるだろう。恋心をいだいたからと言って、その恋心を受け入れたからと言って、誰からもとがめられるべきではないのだ。まぁ、身勝手な論だってことは解っているのだけれど……。

 ベッドから這い出し、ジャケットをハンガーにかける。ブラウスを洗濯機に放り込んで、洗面台の前に立つ。鏡の中のワタシ、疲れた顔をしている……。
 クレンジングを手に取り顔の上で弧を描くと、マスカラやルージュが芸術的なマーブル模様となってオイルに溶け出す。化粧を洗い流してスッピンの顔をタオルにうずめると、気持ちが少しだけ軽くなる気がした。
 おそらくワタシは、「奥さんと別れて」なんてセリフは吐かない。奥さんからカレを奪いたい訳ではないし、ましてや子どもたちからパパを取り上げたい訳では絶対にない。少しだけ……ただ少しだけ、カレの人生の少しの部分だけで良いから、心重ねることを許してほしいだけなのだ。
 許してほしい? ワタシは、誰に対して許しを請うているのだろうか。奥さんに? 子どもたちに? それとも、カレに対して?
 きっと、自分に対して……。
 とがめられるべきではないなんて言ってはいるものの、芽生えたばかりの恋心をとがめようとしているのは、きっと自分自身だ。ワタシだって長い時間を、ジョウシキの中で育ってきたのだ。フリンハヨクナイって想ってしまうし、カレの家族に対する後ろめたさだってある。意外とジョウシキに囚われているワタシは、きっと無意識の内に恋心を消そうとあがいているのだ。

 恋心がここに在ることを許してください……
 お願いします。ワタシの恋心を殺さないで……。

 タオルに顔を埋めたまま、泣き出しそうになる。ダメだ、逢えないとやっぱり、気持ちが不安定になってしまう。タオルで目を擦り、鏡を見つめる。鏡の中のワタシ。化粧を落としたワタシ……。相変わらず、気の強そうな目をしている。本当はそんなに、勝ち気ではないのだけれど。
 この先もきっと、自らの気持ちとジョウシキの間で翻弄されていくのだろう。でも、あまりジョウシキにばかり囚われるのはやめておこう。しょせん、多数派の共通認識でしかないのだから。ワタシとしては、受け入れがたい価値観だってあるのだから。
 そうなのだ。そんなことに構っている余裕なんてないのだ。なんたって、恋の始まりなのだから。カレのことを想って、晴れたり曇ったりと忙しいのだから。

(了)

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