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アルベール・カミュは1940年代から出てくるように。

他人にお願いすることは大切です。分業することができる。結果、自給自足より複雑なことができる。船を出して漁業をして、田畑を耕して収穫しなくても、スーパーに行けば食材を買うことができる。対価は、頑張ってきたことと頑張ったことで支払える。

けれど、分業が進み、例えばデータ入力も変化しました。2000年ならデータセンターに人を集めて、内容を把握しにくく加工したOCR情報を原文と照らして確認したけれど、2020年代はクラウドで働き手を集めることが出来ます。多くの仕事で同じことが進み、「自分が何の仕事の一部をしているのか」「これは誰の役に立つのか」を理解しにくくなっています。
2020年代の『モダン・タイムス』!

さらに、インターネットの情報洪水や検索技術、スマホの通知、ネット広告なども、我々が考えることを妨げる場合があります。脳の神経科学的な理由で、刺激が多すぎれば自衛が必要です。クリック報酬型アフィリエイトなどは、どんな訴求の仕方でもクリックさせればいい人々集めてしまいます。それに、考える前に検索する習慣は、仮説を立てて試して理解する過程と相性が悪いです。

抽象化すると、高度に分業が進んだ現代において、命と誇りや尊厳と並んで、絶対に分業を頼んではいけないことは、考えることです。

誤解がないように補足すると、お金持ちが車を選択する過程を省略するためにベンツのクラスSを買ったり、最新のiPhoneを買い続けることは、自分の時間を分業により増やしているので、問題にしていません。便利さを追求しても、思考の過程を含めて自立性は手放さない方がいい。考えれば分かることを投げ捨ててしまうのは、得策では無いです。

困難なことは理解しますが、それでも考えることを諦めないで取り組むことが、カミュの言う実存主義ではないでしょうか?

もし、現代で中学生をしていたら、私は背伸びをしてカミュの著作を読まず、TikTokや Instagramを眺めて、色んな気持ちを楽しんだでしょう。けれど、短ければ10秒で動画が切り替わりますから反射は上手くなっても、自分の心地よいグルーブのTLにして、好きな動画をサビのように繰り返す編集センスは育ったとしても、そのことが自分の人生にとって何かを言葉で説明するのは苦手な状態に陥ると予想できます。本を読んで、考える時間を持てないから。

もし、14歳の子と話す機会があれば、我々はそれでも人間に留まろうと、励まして慰めるかもしれません。

起きていること、覚醒することは苦しく、中島らもは「自失への希求」と表現しました。らもさんは極端すぎるとしても、少し緩みたい気持ちは、多くの大人にあるはずです。それは当たり前のことだから、プライベートなお部屋で楽しむことを薦めます。

問題は、ネットの空間は公共の場だと説明する必要がある方は、多分価値観が異なることです。「『それでも人間を諦めない』と、あなたは言えますか」と、カミュを連れてきて現代を見せたいです。筆を折るカミュを想像したくは無いけれど、彼の活動した古き良き時代と、現代は前提が異なるとは思います。

それでも、だからこそ、考えることを投げ出さないことは尊いと思うのです。


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