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【対談】烏丸ストロークロックの道草 第1回 次元を超える「神楽」なるもの (八卷寿文×柳沼昭徳)《後編》

京都の劇団・烏丸ストロークロックが、創作・上演とは角度を変え、メンバーと劇団の「今」を発信していくための新企画「烏丸ストロークロックの道草」。ジャンルを超えた方々との対話を介し、自らの思索や課題、めざすべきところを見出し、発信するという新たなチャレンジです。第一回目のゲストは宮城県仙台市を拠点に、多彩な活動を展開するアーティスト・八卷寿文さん。劇団代表・柳沼昭徳を「神楽」と結び合わせた、深い視座と経験知から湧き出る言葉に耳を傾ける時間をシリーズの始まりとします。
《前編》現代演劇を補完する神楽の成り立ちと表現
"烏丸ストロークロックの道草"について

《後編》「つくる」ことを見直すための対話

「告発」ではなく「鎮魂」するための表現

柳沼 例えば、ある集落の直接的にたどってきた歴史はわからないけれど、神楽を観ていると、八卷さんの仰るような飢饉や災害があっただろうと思えて来る。それだけの出来事がなければ、こんなに強い表現は生まれないと思うんです。強い願い、それを祈ることが信仰の始まりですし、それがあることで表現の強度も上がる。その礎には地域の人々の痛みや哀しみ、喜びがあるんですよね。
 広島での創作(広島アクターズラボ)は、若い参加者も体験こそしていないけれど、原爆について他の地域の人々よりはるかに多くのことを見聞きする時間を重ねている。だから「原爆は残酷なものだ」という想いの先にある、復興から取りこぼされた痛みや哀しみ、それらへの鎮魂を作品にすくい取っていこうと思えたんですが、それは3年に亘る創作の、後半になってからでした。
 それを形にする際に、神楽を知っていたことが大きな支えになりました。実社会の問題を扱うような演劇はともすると、作品の題材を「告発」する手つきになってしまう。そうではなく、痛み哀しみをすくい取って浄化していくという指針は、僕が神楽から学んだことです。

舞台上に「おばけ」を呼び込むためには

八卷 しかも、その鎮魂や祈りが凝縮した先には、ユーモアまで生まれるんですよね。早池峰神社の狛犬の表情、神楽の進行役の口上、舞の振りや所作などにもユーモアは見られ、哀しい出来事を悼み、祈ることが極まった先には笑うしかないという精神性が感じられる。それは、現代演劇にも通じるところじゃないかな。
柳沼 神楽が向き合い、祀る「神」を僕らは演劇でつくり出すことはできないけれど、「神」の居るであろう「向こう側」を舞台に呼び込み、作品や俳優と混ざり、さらには観客や劇場までも混ざり合うというようなことを、作品を介して意識的にやり始めたのは神楽を知ってから。
 僕、常々舞台に「おばけ」を出したいと思っているんです。心霊現象的なことではなく、作品と創作過程に込めた想いが募りに募った先に、居ないはずの誰かを舞台袖に感じたりするなど、気の満ちた状態を上演中につくり出したい、と。言葉にすると胡散臭いことこの上ないんですが(笑)、集団が同時に同じイメージを強烈に思い浮かべると、それが物理現象となる、というような意味合いで。「良い劇場には小屋付きの幽霊が居る」と、日本だけでなくイギリスなどでも言うそうですが、それも同じことで、劇場は想いやエネルギーが堆積していく場所ですから当然とも言える。
八卷 それは僕も経験したことがありますよ。つくはずのない照明がバーッとついた、とか。
柳沼 ですよね。科学的には証明できないことを、舞台上でいかに起こすか演出をしながらよく考えるんです。
八卷 それは、軽―く命を懸けないとできないことだよね。表現を100%にしなければいけないので、そのためには表現者が命懸けにならないと。
柳沼 結果僕の現場、本番間近に俳優やスタッフが入院したり事故に遭うことが多くて。創作に集中しすぎると、日常生活のエネルギーを作品に持っていかれて、生身のほうが弱るのかも知れませんね。劇団にとって広報上、全くプラスの情報ではないのですが(苦笑)。

「つくる」のではなく「つくらされる」体感

八卷 僕の場合は美術だけれど、「おばけ」と似たようなことはありますよ。絵はね、ある日突然“描かせられる”ものなんです。どんなに疲れていても明日の予定などお構いなしに、描く状態になったら自分の意志で止めることはできない。その間は暑さや寒さはもちろん、空腹や排泄など生理現象からも切り離された状態で、手が止まって慌ててトイレに行くなんてことになる(笑)。そうして描いた絵は、後からはどこにも筆が入れられないくらい出来上がっている。そういう時の僕を見ていた人が、「何かに憑りつかれているようだった」と言っていました。
柳沼 凄まじいですね。
八卷 確実に命が懸かっているというか、そういう状態にならないと、作品をつくらせてもらえないんでしょうね。
柳沼 仰ること、とてもよくわかります。良い神楽からは、舞手や囃子方から常人離れした集中力や身体機能が見て取れるし、シャーマン(巫子)のように神がかりの状態になって、見る者と祀られる者を繋いでくれていると感じられる。思考や概念を形にするだけの場でない舞台、普段は手の届かない・目に見えない高みへと通じる表現として、神楽は非常に理にかなった、今の僕にとって創作の手本になる芸能なんです。
 それに、ただ舞台で行われることを見るというのではなく、昨日の宵宮(対談の前日7月31日に早池峰神社の例大祭宵宮に八巻氏と訪れている)もそうですが夕方まだ日のあるうちに本宮で神事を行い、ゾロゾロ移動して神楽舞台の周囲に集まり、ご馳走を食べ酒も飲みながら、深夜まで続く神楽と向き合い続けるという、見る側も演る側も「行為」としてあの場で共存している状態が、演劇の世界ではまずないんです。
 結果、神楽を自分たちなりに模倣した『祝・祝日』(2018)という作品をつくることになったんですが、単に作品を鑑賞してもらうのではなく、作品を介した時間や空間を共に体験してもらうことにこそ、演劇が生き残るための可能性があると思い至った。烏丸ストロークロックの公演は、つくり手と観客を分けない、作品を真ん中にした一つのコミュニティでありたいと今は考えています。

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烏丸ストロークロック『祝・祝日』(作・演出:柳沼昭徳)
2019年11月@仙台市、2019年1月@広島市
撮影:相沢由介

創作の核心は頭の中にこびりついたゴマ粒

柳沼 そういう発想で作品をつくっていると、一作ごとのエンドポイントを設けようと思えなくなってくる。これまでも僕らは、短編を複数紡いで回を重ねてそれを練り上げ、一つの長編にするというつくり方が多かったんですが、これまで以上に“つくり続ける”ことに自覚的になっている感覚があるんです。
八卷 それ、わかるなぁ。僕も、衝動に従うような創作を是としていると、「いついつまでに何点つくって展覧会をしましょう」という話に乗れなくなっていったんですよ。「(展覧会を)やるべき日が来るまでやらない」みたいな(柳沼笑)。最初に思いついたアイデア、頭の片隅にゴマの粒みたいにこびりついて気になる状態が一年以上続いたある日、ようやく「これが核になるものだ。よくぞ吹き飛ばされず残っていてくれた!」という気づきに至るという、そんなテンポになっているのでね、今は。
柳沼 演劇は劇場の手配などを筆頭に、作品の中身以前に手配しなければならないことが多いので、決めずにつくり続けることは、なかなかの困難。公演間近になって、ようやく核心に近づけたと思った時には、それまで場を繋ぐために言っていたことと整合性が取れなくなったりもして(苦笑)。だからこそ再創作の機会を、積極的につくろうとしてはいるんですが。
八卷 演劇の場合一人で密室でつくる訳ではないから、周囲と歩調を合わせていく部分と、それを押しても作らなければいけない部分、両方があるよね。
柳沼 「言っていたことと違う」と、よく怒られてます(笑)。

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八卷さんの作品の一つ。仙台市広瀬川の河原に400個の一斗
缶が円状に並べられている。直径約100メートル。夕方にな
ったと八卷さんが思ったら、一斗缶に仕込んであるろうそく
に火をつける。夜になったらそれを消す。

大雨があり家が土砂崩れで崖から落ちた、住人である男性は
不在のため無事、帰ってきたら家がなかった。というニュー
スがあった。この家が「あった」と「無くなった」のその間
がどうなっているのか考え始めた。少しずつ崩れ続けていく
過程に、この「粒」を取ったら崩れるという「瞬間」がある
のではないか。巻き戻すことが出来れば、その粒はまた違う
粒なのではないか、やればやるほどその粒は無限にあり、膨
大な情報がその間にあるように感じた。「昼」と「夜」、
「国土」と「海」、その間にある「水際」をイメージするこ
とから生まれた作品。

日本の文化芸術を捉え直す「タプタプ理論」

八卷 僕ね、日本の文化行政を考える時に「タプタプ論」という独自の理論を持っていて。
柳沼 どういう話ですか?
八卷 日本の全国各地で「文化のすそ野を広げましょう」といったことが、まことしやかに議論されているじゃないですか。それは、僕は幻想だと思っているけれど、行政官や識者の中には文化のベースを示す一本の基準線があって。そこから垂直方向に、上に向かって「上質で優れたアートを立ち上げましょう」と様々な創作事業をしかける。するとその頂点から緩やかな山型の曲線を描いて、すそ野にあたる見る側までを含めた文化を巡る環境を図示できる、という発想がそもそもあるんですよ。
 でも実際は、稜線にあたる部分に世間からの圧力がかかり、噴水のように出っ張った中心部と、低く広がったすそ野しかない図になってしまう。本当は基準線などないし、むしろその地下にあたる部分に芸術的な、豊かな鉱脈や素地があるというのが僕の持論で、その地下部分を指して“タプタプ”と言うんです。

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柳沼 面白いですね。
八卷
 早池峰神楽を見に来る集落の人々は、こんな噴水部分は求めていない。むしろ地下に溜まったマグマのような部分に神楽はあり、神楽の観客もそれを直感的に知っているから当たり前のように楽しみ、夢中になれるし、同様の芸能・芸術は広く民間を見渡せばいくらでもあると思うんです。
 アーティストでも表現者でもない普通の人たちが求めているものを、普通に受け入れ、普通に価値づけていけば、あまねく広く人々に求め受け入れられる芸術があるのに、西欧から移入した価値観だけで文化芸術を計ろうとすると、折角日本独自の芸能や表現があるのに、そのポテンシャルにすら気づくことができない。私たちが本来持っている価値観、心のよりどころに沿って無理せず芸術や文化を考えられるよう、少しずつでもシフトしていかなければと個人的には考えていて、機会があるごとに発言したいと思っているんだけどね。
柳沼 実践的な創作から、芸術のための理念まで、自分でやりたい・やろうと思っていることに関して、八卷さんと話していると理論的にも裏付けてもらえる感覚があるんです。それは僕にとって非常に心強い支えなので、これからもこういう対話の機会を、折々につくっていただけたらと思います。この場で次の約束をしたいくらいですが(笑)。
 今日は長時間おつき合いありがとうございました。

取材・文 大堀久美子
トップ写真 相沢由介

烏丸ストロークロックの道草 次回予定(10月末)
第2回 宇髙竜成(金剛流能楽師)× 阪本麻紀(烏丸ストロークロック)

第2回は、金剛流能楽師の宇髙竜成氏と烏丸ストロークロックの俳優・阪本麻紀との対談を予定。烏丸ストロークロックの創作の中で、能楽に惹かれていった阪本は、現在宇髙氏に謡の手ほどきを受けています。今年7月に上演されたばかりの竜成の会『道成寺』の話を起点に、舞台上に立つ「演じる者」がつかもうとする言葉にできない感覚を、たっぷりと語っていただきます。こうご期待。

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