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「全裸監督」から学ぶ『ありのままの価値』

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◯◯から学ぶ●●
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『◯◯から学ぶ●●』と題して、毎週水曜日に更新しています。

僕が好きな本やマンガ、映画、音楽などから学んだことを綴っていくような感じです!

さて!今回取り上げるのは、

Netflixで話題沸騰の【全裸監督】です!

さっそく深堀りしていきましょー!

■裏表だけでは奥を見ることができない

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この作品では、AV業界の裏表、警察とヤクザの癒着を主とした社会の裏表、そして人間の欲望の裏表が描かれている。

「表があるから裏が売れる(裏ビデオのこと)」

「最後に勝つのは表と裏を牛耳った奴だ」

こういったことが、作中で語られている。

・・・ここでふと、『裏と表』について考えてみたいと思う。

裏を見たがる人がいるのは、「表からはその姿を見ることができないから」だ。

その裏にこそ、ありのままの姿があるはずだと、普段は隠されている部分を知ろうとする人が出てくる。

それは一方で、「表ではありのままの自分でいることができない」ということでもあるはず。

表では生きやすいように自分を取り繕い、ありのままの自分を、裏に隠そうとするのだ。

しかし、裏と表は持ちつ持たれつの関係で、表裏一体。

表で自らを取り繕っているのならば、裏でも自分を取り繕わなければ表裏の関係性を良好に保つことはできないから、いずれ痛い目に遭ってしまう。

例えば

警察が裏ではヤクザと手を組んでいるのならば、警察としての本来の姿である「反社会勢力の検挙」に励んでいるように自らを取り繕って、表では見せしめの逮捕をしなければならない。

裏ビデオをより多く売るためには、表では規制を厳しくして、秩序を保っているように取り繕わなければならない。

裏社会が生まれるのは、表の社会で行き場を失った人がいるからだ。

いわゆる社会のレールに外れたり、表の社会に自らの居場所を見い出せない人だっている。

表では自分の存在を受容してもらえず、自分のありのままの姿、本当の自分でいられる場所を求め、裏へと彷徨う。

だが、裏には裏社会のルールや秩序があり、そこで生きていくためにも、実は自分を取り繕わなければいけないことも多い。

・・・そういった世迷い人の真の願いとは、 ありのままの姿を受け入れてもらい、本当の自分を知ることだったはずでは?

表でも裏でもなく『自分の奥』を知りたかったり、ありのままの自分を受容してほしいだけなのでは?

裏や表をひっくり返しているだけでは決して見えることのない、その奥を知るための鍵は、きっと”受容”にあるはずだ。

■男性社会と女性の渇き

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全裸監督の作中には、2つのAV制作会社が登場する。

業界最大手のポセイドンと、弱小ベンチャーのサファイアだ。

ポセイドンは、とにかく綺麗な女優を起用したり、作品の過激さを強調する。

その分高いお金を支払うし、世の中の男性がそういった作品を求めているという面も、大いにあるだろう。

しかし、その作品に出演し続ける女優たちにこの先待ち受けるのは、おそらく”受容”とは程遠いものだ。

綺麗であり続けるため、世の男性のニーズに応え続けるために、自分を磨き続けなければならないから。

ポセイドンという会社や、それに追随する業界の意向、そして男社会から自分を受容してもらうための努力をしなければ、生き残っていくことができない。

そして男性たちからの要求は、よりハードなものになっていくだろう。

男性は綺麗だね、可愛いねと女性をおだてて相手を受容しているつもりでいたり、女性自身も、自らの存在価値をお金に換えることはできるから、受容されている気持ちになっていく。

しかしその社会では、綺麗でなければ受容されないし、男が求めることをできなければお金を貰えず、その構造は『支配』そのものだ。

男が望む姿を目指し自分を高め続けても、それはあくまで「世の男性が描く理想の女性像」であり、『自分が望んだ姿』ではない。

たとえその努力が世間や業界から高い評価を得たとしても、自分のありのままの姿が受容されたわけではないから、どこか心は渇いていく。

表の社会からも裏の社会からも受容されず、自分を取り繕い続けた結果、自分で自分のことを受容することもできなくなっていくのは、とても悲劇的だ。

こういった男社会のニーズや業界のしくみに翻弄されてしまった女性の姿が、作中でも「南みく」という女優を通して描かれている。

・・・作中で、ポセイドンは「女優を守らなければ」と表では言うが、その実は「会社を守ること」が第一。

表では規制を強化し、その反面、裏ビデオを世間に流し不当な利益を得て、会社が潤っていた。

そんな男社会の欲望が満たされる一方で、女性たちは渇いていく…という構図が生まれてしまう。

お金で人を受容することはできないし、お金をたくさん持って金銭的に満たされていても、自分で自分を受容することはできない。

■【さいごに】自分で自分を受容できる瞬間

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山田孝之演じるサファイアの村西監督は、女優の心を開かせること、ありのままの姿を撮影することを大切にしていた。

それは、相手のありのままの姿を受容することで、その価値を輝かせ、自由へと解き放つことが目的になっていたからだ。

それは取り繕った表ではなく、隠された裏でもない、未だ誰も知らなかった『奥の魅力』といえるだろう。

そこには、どんな人が存在してもいいんだという多様性と、相手の望みを受け入れて自由にしたいという『愛する姿勢』がある。

・・・きっと誰にでも、奥の部分はあるのだろう。

その奥を探求し、知ろうとして、それを受容するということに価値がある。

「私はここにいるんだ!」という、自分の実存を確認することができるのは、自分を肯定してくれる人と一緒にいる時だからだ。

『本当の自分』なんて、いくら探しても見つからないのかもしれない。

だけれども、ありのままの自分を受容してもらっている間は、その人との間に、間違いなく自分が存在している。

それを確認することができれば、自分と他者、そして社会との間に接点が生まれる。

・・・ありのままの存在をさらけ出せた瞬間の自分は、とても自由だ。

それでもいずれは、社会の秩序とぶつかり、不自由を感じることもあるかもしれない。

だけれど、自分を取り繕うことなく、ありのままの姿でいられるという安心感を抱くことのできる場所があれば、不自由な社会とも折り合いをつけることもできる。

不自由な中から自由で居られる瞬間を、自ら切り開くこともできる。

社会に流されるのではなく、社会を受容していくことができるのだ。

・・・だからこそ、自らが大切に想う人の、ありのままの姿を受容していく。

この姿勢を大切にしていきたいと、切に思う。

・・・読んで頂きありがとうございました(*^^*)

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