うねりを打つ感情と移ろい行く風景
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【軟水のたそがれ】
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毎週日曜日の夜に更新しています!
この【軟水のたそがれ】は、
僕がTwitterでほぼ毎日更新している「#軟水のつぶやき」を、深掘りするエッセイ。
新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています(*^^*)
・・・本日取り上げるツイートは、⇓コチラ!
さっそく深掘りしていきましょー!
■子どもの頃に観ていた風景
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子どもの頃に見た、生まれ育った町の夕焼け小焼け、キャンプ場の星空や、遊び疲れた海や川の大自然。
大人になった今でも記憶に残っている、大切な風景たち。
僕らは昔から、身近な「風景」を胸に刻み、目に焼き付けてきたはずだ。
・・・それらの風景たちは、一瞬一瞬の『情景』を捉えた1枚の絵画のような像として、記憶に残っていく。
「情景」とは、人の心を動かす風景のこと。
その当時に「心から楽しんでいたから」こそ、記憶として深く残る風景だ。
子どもの頃は、風景の一瞬一瞬を、心から楽しんでいただろう。
自然の中にいる自分を楽しんで、もしかしたら、自らがその風景の一部となっていたのかもしれない。
・・・その一方で、雲の流れや星の動き、波のうねり等の『風景の移ろい』を感じていた記憶は、はたしてどれほど残っているだろうか?
■感情がうねりを打つ時
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僕らは歳を重ねる毎に、春夏秋冬や四季折々といった言葉に表されるような『風情』に、楽しみを見出だしていく。
幼き頃は、自らの感情の高ぶりによって、その風景を楽しんでいることが多かったように思う。
それが次第に、自然の移ろいに親しみつつ、そこへ「もののあはれ」を見出だし、風景の中から"情"を感じとっていくようになるのだ。
「もののあはれ」とは、不自然な心を捨て、自然な心情に従ってそのものの美しさに感動すること。
・・・これは決して、子どもと大人、どちらの方が高貴か?ということを言いたいわけではない。
自分自身がどれだけ変わることができるか?という、残された「変化の幅」によって、自然や風景の楽しみ方が違うということだ。
常識に染まっていない子ども時代は、自身が真っ白なキャンパスとなり、どんな色をも受け入れていく素養がある。
しかし、次第に新しく色を塗るべき「余白」は無くなっていく。
すでに塗られた色と混ぜ合わせて新しい色を描いてみたり、何色なのかもよくわからない、グレーな色へと滲んでいくこともあるだろう。
幼き頃は、あらゆる色を塗ることのできる「余白」が広く、自分に似合う色もまだよく分っていない。
そこで、独自の特徴を持つ、それぞれの”色”をまとった「風景」に一喜一憂し、情が躍動した一瞬一瞬を『自分らしい色』として、まとっていくのだろう。
・・・そういった過程を経てパーソナルな色が分かってくると、風景の楽しみ方が、今までとは全く違った捉え方になってくるはずだ。
かつては、夕焼けの赤色や海の青さを観て、「あの風景は自分らしい色だ」と感動していた。
心が踊ったことで、「あの風景を観ていた時の自分には”自分らしさ”があった」と、確信を深めることもある。
それが次第に、
「あの夕焼けはオレンジから赤に変わって、紫のように変化するのか」
「晴れている時と雨の日、昼間と夕暮れで海の色がこれほど違うのか」
というような、『色の移ろい』を感じるようになっていく。
・・・これはきっと、自分の色はある程度分かったからこそ、得られた視点である。
自分はどういう時に心が暗くなって、どういう時に明るくなるのかという、『感情のうねり』に、興味が移っていくということだ。
さらに、自然と移ろいで行く風景に対して、自分がどう感じ、どう動くのかということを考えるようになっていく。
これはまさに、対人関係における自分そのものだと言えるだろう。
あらゆる色を有する他者と接する中で、自らの色を出しながら、どう立ち回るのか。
他者の持つ色を、どう引き立てていくのか。
その変化を、どう受け入れていくのか。
移ろい行く風景から”情”を感じ、自分なりの答えを出していく。
・・・幼き頃は、「自分が何者なのか」「自分は何色なのか」にこだわっていた。
それが、大人になって「自分の色をどう活かすか」「相手の色とどう親しんでいくか」へと、関心が移ろいで行くのではないか。
■【さいごに】物事は全て移ろいで行く
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子どもと大人で、風景の楽しみ方が異なるという話を、ここまでしてきた。
これは結局のところ、
「風景を通して自分にどんな色をつけていくのか」
「風景を通して、自分や他者にどんな色があったのかを思い起こす」
という違いなのかもしれない。
例えば、子どもと一緒に花火を観に行くと、大人と子どもの感性の違いが顕著に表れる。
子どもは、花火が上がる際の一瞬の高揚感や、花火を眺めながら食べるかき氷に、心を踊らせている。
「自分はこの瞬間が好きなんだ!」と、一瞬一瞬の喜びを自らの色として塗り重ねていく。
その一方で大人は、花火が打ち上がって消えるまでの儚さや、色の移り変わりに、自らを重ねていく。
・・・これは「どう観るのが正しいか」ということではなく、「今の自分はどんな変化を欲しているのか」というだけの違いだ。
ただ、一瞬一瞬を感じ続けるだけでは見えてこない光景は、間違いなく存在する。
例えば、僕が写真を撮り始めた頃、綺麗な空を撮るためには、電柱や鉄塔が邪魔だと思っていた。
けれど、今はそれらを一緒に撮った方が、風情があると感じるようになってきた。
これは、電柱や鉄塔があるからこそ、空が綺麗になるという光景が見えるようになったからだ。
はたまた、夕焼けを撮るにはひたすら晴れていればいいわけではない。
雲の厚さや、その量がとても重要になってくる。
その変化を感じることができるようになってからは、撮影当日の天気だけでなく、前日や翌日の天気を気にするようになった
こういった感性は、一瞬を捉えているだけでは、決して育まれず、物事を点ではなく『線』で捉えなければ分からない。
・・・幼き頃のように、一瞬一瞬を好きに楽しんで、自分の色を探すことはとても大切だ。
しかし、その自分らしい色は、時と共に移ろうこともある。
対峙する相手の色と混ざって新たな色を描いたり、相手の色に染まってしまうこともある。
それと同様に、他者にもその人らしい色があり、その色も移ろいで行くものだ。
不変の色など存在しない。
・・・そういった『移ろい』に対して、自らがどう移ろいで行くのか、色褪せない色は何なのかという想いを、巡らしていく。
そのために、綺麗な風景の一瞬を楽しむだけでなく、その『移ろい』に趣を見出していくことも、大切なのではないか。
そんなことを、つらつらと思うのである。
・・・本日は以上です。
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