女の強さ(2003年版『白い巨塔』感想)

2003年放送、フジテレビ開局45周年記念ドラマ「白い巨塔」。言わずと知れた名作。山崎豊子による原作小説、1978年放送の田宮二郎主演版の評価の高さを耳にしつつも、92年生まれの私にとって最も身近で強烈にのめりこんだのは唐沢寿明主演版ドラマ。軒並み20%を超える高視聴率を記録し、名作ドラマとして人々の記憶に残ったこの作品の素晴らしさをあぶりだすべく、全21話に通底する「良さ」を数回に分けてあぶりだしたいと思います。

「白い巨塔」は男性中心どころか、男性オンリーの世界だ。第一章の教授選、第二章の裁判というメインストーリーに関わる女性は看護師である亀山君子(西田尚美)たった一人。財前の愛人、ケイ子(黒木瞳)も妻の杏子(若村麻由美)もメインストーリーと関わることはない。にも関わらず、「男の嫉妬」「男の友情」「男の権力欲」と肩を並べる本作品のメインテーマに間違いなく挙げられるのが「女の強さ」だ。男性オンリーの世界で繰り広げられる、あらゆるいざこざの外側にいつも女がいる。外側から彼らを見つめる女性たちは男性とは比べようもないほどに、果てしなく強い。そして「女の強さ」のクライマックスもまた最終話に向けて爆発する。

女性蔑視、女性差別、という言葉が高らかに謳われることのない時代設定の中で、本ドラマの女性は愛人のケイ子を除いてためらいなく「夫(もしくは父親)の所有物」として描かれる。中でも教授夫人会である「くれない会」の描かれ方は格別。ある種徹底した嘲笑視点から描かれる「くれない会」は大いに笑いながら観るべきコメディ的シーン。しかし、結局は全ての力関係が夫の権力に左右される、現代の私達から見ると狭く物悲しい場所でもある。とはいえ、東(石坂浩二)の権力降下により妻である政子(高畑淳子)が徹底的にいじめられるゴルフのシーンなどは圧巻。真面目に描けば陰湿すぎて到底明るい気持ちになれないこのシーンを、からりと面白く仕上げてしまう演出、そして何より高畑淳子の演技が素晴らしい。彼女でなければもっと水分を含んでねっとりとした場面になってしまっただろう。

『白い巨塔』にまつわる女性の中で、最も存在として大きいのは言わずもがな、財前を「五郎chan」と呼ぶクラブのママ、ケイ子。物語序盤、黒木瞳と若村麻由美を比較すると、生真面目な印象も受ける黒木瞳よりも若村麻由美の方がよっぽど「愛人顔」に見える。しかし「女子医大中退」という設定を聞けば納得。経済新聞の株価一覧をプールサイドで眺める、知性強めのクラブのママ。

テレビドラマにおける妻と愛人のティピカル設定と大きく異なるのが「白い巨塔」における妻と愛人。妻じゃ癒やしてくれない傷を癒やすため、もしくは単に欲求を満たすためにいる愛人という構図が典型。しかしケイ子は決して財前五郎に温かく包み込むような優しい言葉をかけない。むしろ財前をいいように突き放し挑発しながら、財前五郎の生き様をまさに「ドラマのように」楽しく拝見するスタンス。この愛人設定が何とも粋極まりない。妻の差し金で話しかけてこないケイ子にやきもきするガキっぽい財前が可愛らしい。時には苛々を真っ直ぐに愛人にぶつけてくる財前を嫌うこともなく、権力をちらつかせる財前に「上から下を見下ろす趣味なんてないわ」と跳ね除ける関係性。確かに、恋人・夫婦以上に気を許した相手でなければ見せないような姿を見せる財前が可愛らしくてたまらない、というケイ子の気持ちも分からないでもない。

いわゆる「修羅場」と言われるであろう、妻vs.愛人もいつだって素晴らしい出来栄え。1つ目は、妻の杏子が愛人ケイ子の自宅を訪れるシーン。着飾った妻と、普段着の愛人という対比が絶妙に色っぽい。ケイ子が言う「(財前を)お借りした覚えはありませんもの」「そんな財前五郎が、好きなんです」が毒と素直さが入り混じっていて最高に良い。言ったあとに二人で大いに笑う姿がどうにも美しい。この瞬間、対比されるのは女の嫉妬と男の嫉妬。「白い巨塔」の世界に限っては、女の嫉妬と男の嫉妬は完璧に美醜に分けられる。オブラートとマウンティングにまみれた会話という意味では財前ー東も、妻ー愛人も同じだが、前者はどこまでもどす黒い一方で、後者はあっけらかんとした明るささえも感じる。

そして二つ目は教授選に勝利した直後、財前を家に帰して女二人で祝杯をあげる強烈な闘いシーン。あまりにもダイレクトなマウンティング台詞の数々に、自分たちが可笑しくなって笑い出してしまう、この女達の強さと美しさに脱帽。そして「できれば…財前先生のお葬式まで、お会いしたくありませんわ」自らが発した言葉の不吉な予感に共鳴してしまう女二人の描写に鳥肌が立つ。「女の勘」と書けば途端に安っぽくなるが、それをこの一瞬に閉じ込める描写に瞬間最高賞を贈りたい。ワルシャワでの財前との別れシーンでも、上り詰めたあとは落ちていくだけ、それが怖いのだと正確な「勘」を働かせるケイ子。この作品における女性の徹底した「女らしさ」が浮き彫りになるのが「女の勘」の描写だ。

愛人だけではない。回を重ねるごとに女の勘の正確さは顕著になる。悪夢にうなされる姿を見た妻の一言、「あ、何か悪いことしてるでしょ」。屈託のない杏子の言葉はまさに図星で、これって夫にとって何よりも恐ろしいのでは。母からの言葉、「上ばかり向いているとつまづいたときに危ないからね」。女達の勘は一つの外れもないけれど、彼の耳を右から左に抜けていく。せめて女の言葉に行動が左右されるような男であれば、と思うがそこはあくまでも男性社会。男性社会と女性社会の完全な分断がありながらも、常に俯瞰しているような女性視点が次第に顕著になっていくのが興味深い。逆立ちしても男に出来ないことを、女が自然に無意識にこなしていく表現が、自分勝手な男への復讐にさえも見えてくる。

「女は強いなー」と、具体的な台詞として出てくるのは一度だけ。声をかけられるのは看護師の亀山君子(西田尚美)である。佐々木庸平の一審直後、里見と同じタイミングで病院をあとにする彼女が眩しくて凛々しい。「僕のせいですか?僕が証言台で嘘をついたから…」と狼狽える柳原に対する返し、「うぬぼれないで」きっぱりとしたこの言葉が最高に良い。廊下を闊歩する財前から目を逸らして逃げる柳原、そして胸を張って毅然とすれ違う亀山君子。女は強い。そして最大の鍵を握って外の世界へ出ていく彼女は最終章でもその強さを発揮するのだ。

『白い巨塔』の中で最も「普通の」女性として描かれるのが里見の妻、三知代(水野真紀)である。女と男の住み分けがきっぱりと分かれているこの世界観の中で見えてくる女の本音が彼女の中で見え隠れする。くれない会に所属する妻たちと一線を画し、質素な生活を一心に支える水野真紀は「陰で夫を支える優しく良き妻」像に見える。しかし実直すぎる夫の姿勢が、少しずつその構図を壊し始める。息子の誕生日、笑顔で里見を見送る妻、その後の一瞬だけ曇る表情。

そして財前の妻、杏子。終始軽薄に描かれるキャラクターである。親譲りの権力欲を存分に発揮して、その美貌と若さを上手に利用しつつ「くれない会」での地位をものにする。夫が教授になること、偉くなること以外のこだわりは特に感じられず、夫に対する温かな思いが描かれることも特にない。一言で言えばちょっと「頭弱そう」な印象を終始振りまいて、延々と派手に着飾っている。そんな軽薄そうに見えた妻の、眼を見張るほどの強さが顕れるのは最後の最後。財前の死を前に、慌てふためき狼狽する男たちの中での、妻の毅然とした姿が驚異的に凛々しい。「そんな状態で生きていくことを求める人じゃないわ」と言い放つ杏子の、最期の瞬間への覚悟と、夫の尊厳に対する確固たる理解が詰まった台詞が超圧巻。「杏子は何も失ったことがないから心配だ」と語る父・五郎の言葉が馬鹿馬鹿しく思えてくる。電話で愛人を呼び出し、二人にさせるところまでやりきる。鵜飼夫人の言葉を超えて「妻として」の最後の務めを徹底的に果たす姿に息が止まるほどの威厳を感じるのだ。

ちなみにこの構図、夏目漱石「こころ」のラストとよく似ている。「何も知らない妻」像を勝手に作り上げた夫は、彼女を心配し真実を隠すよう、語り手である主人公に依頼する。でもどう考えたって妻は全てを分かっている。分かった上で知らない振りをして寄り添って生きている女の強さを男は知らない。財前の杏子への心配もまた、あまりにもナイーブな杞憂であり、彼女は誰よりも強かに彼の最期の瞬間を待つのだ。





この記事が参加している募集

コンテンツ会議

過去作品のDVD-Boxを買うための資金にいたします。レビューにしてお返しいたします!