書かれざる小説のための序文

七年くらい前に(鬱状態のなか)書いた小説のための序文を公開します。この序文に続く小説は別の形で書いていますが、序文自体は破棄します。当時、ナボコフの影響を受けていたと思われる(笑)
 
 
 

 
 
 
この《小説》はまず作者であるわたし自身のために書かれている。
欲望がゼロになることへの恐怖が、わたしにこの《小説》を書かせている。
 
かつてジョルジュ・バタイユはこう書いた。
 
「何ものかが私に書かせている。思うに、恐怖が、狂ってしまうことへの恐怖が、私を書く行為へと駆り立てている。」(『ニーチェについて』)
 
わたしは、もはや恐れていない。つまり狂ってしまうことを
 
狂ってしまう可能性はある。現に狂ってしまったのかもしれない。恐怖はない。狂ってしまっても書けるからだ。もし欲望ゼロの鬱がある種の狂気であるなら、「狂ってしまうことへの恐怖」はこの《小説》もまた駆動している。とはいえ、バタイユの念頭にある狂気は自他未分化の融即状態であり、その意味で狂気、躁状態に伴うような狂気をわたしはもはや恐れてはいない。だから、やはり欲望がゼロになることへの恐怖がわたしにこの《小説》を書かせている。欲望がゼロになる恐怖は死の恐怖よりも遥かに大きい。このことについてはまた別の箇所で触れる。
この《小説》は、また読者であるあなたに向けて書かれている。わたしは今後、友情とはテクストを挟んだところにしか成立しないのではないかと絶望しかけている。絶望は悪いことではない。何かが始まるゼロ地点だからだ。そして、もしかしたら、わたしが狂っているのかどうか、最後の審判を下すのはあなたかもしれない。正確に言うと狂っていてなおわたしに価値があるのかどうか判断して頂きたい。(わたしの書く文章に価値があるのかどうかは問題ではない)。
 
あなた。最後の友達。
 
「友達とか皆 そりゃとっくに死んださ」と歌われるあとの友情にわたしは存在を賭ける。わたしが狂っているのかどうか狂っているとはそもそも何か。
 
わたしは、わたしが狂っていると思うが、狂っている限りにおいて、わたしの判断が正しいのかどうかわからない。マトモな連中は自らの正気を信じこんでいるから、こんなことは思わないのかもしれない。
 
正気であるあなたは、この《小説》を「わかる」必要は微塵もない。「わかる」部分に大した価値はないし、価値がある部分は狂っているからだ。「わけのわからなさ」を共有すること。そのことに友情は賭けられている。友情恋愛を打ち砕くために要請されている。わたしの考える友情はどこか狂っている。わたしとあなたの関係、すなわち友情もどこか狂っている。こんなテクストをあいだに挟んだ関係がマトモであるはずがない。そしてそれでいい。あなたは狂っても大丈夫だ。社会は必要以上に狂気への恐怖を煽り立てている。安心して頂くために補助線を引こう。千葉雅也によるとドゥルーズは超越論性をカントとはまったく違うものとして考えた。カントが人間は権利上理性的だが事実上狂うにすぎないと考えたのに対して、ドゥルーズは人間が権利上狂っていて事実上理性的であるにすぎないと考える。千葉のドゥルーズ論は「危険」であると評されてもいるが、この辺りの(ドゥルーズの)発想は確かに危うい。平たく言えば、人間は経験に先立って(超越論的に)皆どこか狂っているという話だ(『動きすぎてはいけない』参照)。少しは安心して頂けただろうか。
 
ここまでのレベルではこの《小説》は私信であると言ってもいい。
 
そして、またこの《小説》は今まさに監禁され続けているすべての狂人のために書かれている。彼・彼女らがこの《小説》を読むことはないだろうし、読む必要もないが。
さらに、恒常的な監禁を免れてなんとか生き延びているすべての狂人のために書かれている。なにほどか役に立つことが書かれるはずだ。
 

 
この《小説》を書きながらわたしは、冷静だ。どこまでも狂っているが、どこまでも冷静だ。この《小説》にはおそらく物語はない。わたしは物語を語る能力を失ってしまった。物語を語ることが出来るのは、正気な人間だけだ。そもそも、物語の終わりがこの《小説》の始まりだ。物語の終わりの自覚がわたしをこの《小説》を書く行為へと駆り立てている。恋愛は物語だ。「二人でなければ半人前」という物語だ。ここで恋愛と区別される友情は私たちの単独性に関わっている。ところで、「友情の物語」は無数に存在する。以下「友情の物語」が語る「友情」とわたしが称揚する友情を区別するために後者の友情星々の友情と呼ぶことにする。友情の価値を貶める意図はないし、実は恋愛の価値を貶める意図もない。ではとはなにか。
 
敵とは物語の専制である。
 
物語とは何か。(ところで、ここで要注意! 自らの「幸福」に自信のない読者はそろそろこの《小説》を読むのを止めるべきである。ここまで「あなた」と名指されてきたのはそうした読者ではない。「いつか幸せになりたいな」とつぶやきながら生きられる物語をこの《小説》は否定しようとしている。いま・ここにおいて「幸せ」である以外に「幸せ」になりようはないのだし、現にこの《小説》を書きつつあるわたしは幸せだ。「幸福」を遠い目的=終末に無限に先送りする永久運動を迫る物語からの自由を目指してこの《小説》は書かれている。簡単に言うと、この《小説》は中途半端な「幸福」の物語の装飾性を破壊する。ことが目指されている。)
 
物語とは歴史のことだ。物語っぽく言うと起承転結などの構造性である。例えば、結婚披露宴には恋愛の物語が溢れている。恋愛が完結しており、恋愛の歴史の構成要素つまり起承転結が出揃っているからだ。出合いから結婚まで。結婚する二人にはしかし、スライドショウには写らない何かが(複数)あるはずだし、場の空気を読んだ歓談からは零れ落ちるものがあるはずだ。ハレの制度とその諸装置が排除しているものもある。山内志郎によると絆というのは毒も薬も通す通路(『天使の記号学』参照)だが、そのような絆は歴史=物語を超えた関係性のうちにのみ宿る。絆というのは関係性の濃さ=強度によって強まったり弱まったりするものだと思うが、少なくとも積み重ねた時間の分だけ絆が深まるというのは大嘘で、重要なのは積み重ねの濃さ=強度なのである。絆はつながりの対義語だ。星々の友情においては、決定的な出来事や場面ですべてが決まると言っていい。文学理論っぽく言うと物語に対する出来事の優位。この立場はなかなか評判が悪く、表明する度に友達が減り、今ではわたしにはほとんど友達がいない。こういうことを伝えずにはいられないところがわたしの狂っている所以かもしれないが、ともかく多くの友達はこの立場は積み重ねの全否定だと誤解したのだと信じたい。
要するに友達になれるなら瞬間的になれるということ。それは無論出合いの瞬間とは限らないが。何年「付き合って」も友達になれない人とは永遠に友達にはなれないということ。コミュニケーションの事実性を重視する社会では少数派なのかもしれないが、少なくとも積み重ねを貶める立場ではないはずだ。あるいはこの社会に適応している友達の反感を買っているだけなのか。それはある。
 
この社会正常な人間のために出来ている。この社会に適応したわたしの友達だった人間たちのような。
社会学者の宮台真司に倣うなら社会とはありとあらゆるコミュニケーションの総体である(『〈世界〉はそもそもデタラメである』参照)。コミュニケーションにはモノや物語も含まれる。モノとは物に纏わりついた物語のことであるから、結局、社会のなかにはありとあらゆる物語がある。ほとんどありとあらゆるモノや物語は正常な人間のためにある。ほとんどの映画や音楽や小説、それらが載っているメディア、インフラ、コミュニケーションツール、酒やたばこ、などなどほとんどのモノや物語は正常な人のために作られている。狂人のためのモノとしてパッと思い浮かぶモノと言えば精神病院や監獄(に代表されるモノ)と薬=毒くらいだろう。片手を失った人のためのピアノソナタなら知っているが、狂人のためのピアノソナタなど聞いたことがない。
文学に話を限ったとしても、狂った人のための物語も小説もほとんど存在しない。狂気が審美化されて主題として消費されることはわりとよくある。ある種の狂いが娯楽として享受されることもある。だが本当の意味で狂った物語は存在しない。どのような物語も物語として読める程度にしか狂っていない。どこか、狂った小説ならある。本当に狂った小説は売れないので、ほとんどわたしたちの目に触れないが、それでも思い浮かぶものはある。境界例的な作品だろう。境界を遥かに超えた作品、例えば精神病院に何十年も入院している分裂病者が毎日書き続けている膨大なノートの一部をわたしは読ませてもらったことがある、は市場に流通することは、症例として以外はほとんどない。そもそも読まれるために書かれていないのかもしれない。流通している小説に目を向ける。わたしが読んだことのある狂った小説および文書とはどんなものだろうか。
列挙してみよう。高橋源一郎の初期三部作(『ジョン・レノン対火星人』・『虹の彼方に』・『さようなら、ギャングたち』)、フィリップ・K・ディックのヴァリス三部作およびEXEGESIS(『釈義』未邦訳)、メルヴィルの『書写人バートルビー』、アルトーの諸テキスト(「神の裁きと訣別するために」「トゥグリドゥグリ」など)、バタイユの無神学大全。ニーチェの晩年の書簡は狂っていることで有名でわたしも興味はあるのだが未読なので除外する。マゾッホやサド、プルーストやカフカ、フロベールやウルフ、ピンチョンなど他にもビッグネームが思いつくが、ここでは流しておく。
高橋源一郎の初期三部作はどのような小説たちだろうか。かなりバカバカしく、ポエティックで哀愁がある。物語は辛うじて存在する。死や暴力、狂気が主題となっている。内容と形式が激しく軋んでいる。ポスト・モダン文学など知らず初めて高橋源一郎の小説を読んだものは、激しい違和を覚え、思わず「なんか狂ってない?」と呟かずにはいられないに違いない。浅はかな読者は、その言葉たちがテキトーに書かれていると勘違いするかもしれない。しかし、その言葉たちは入念に選ばれ、配置されている。あるブックガイドは『さようなら、ギャングたち』について「80年代の正しい狂い方小説」とコメントしていた(『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』)。的確なコメントだ。この《小説》はそれらとは異なると信じたい。あなたの目で確かめてください。
 
 
 

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