アダムと木の実

□スピノザの裏口

■文献表
S:ジル・ドゥルーズ、鈴木雅大訳『スピノザ──実践の哲学』平凡社ライブラリー、2002
DT:小泉義之『ドゥルーズの哲学──生命・自然・未来のために』講談社学術文庫、2015
SS:スピノザ、吉田量彦訳『神学・政治論(上)』光文社古典新訳文庫、2014

■無知こそ不幸、認識こそ治療

スピノザは〈完全で幸福なアダム〉なる神話に対して、ドゥルーズは〈完全で幸福な子供時代〉なる神話に対して、決然と反旗を翻す。(DT:p.141)

[……]幼な児は幸福であるとか、最初の人[アダム]は完全だったなどとは私たちにはまず考えられない。彼らはものごとの原因も本性も知らず[=無知]、ただ起きてくる出来事を意識するばかりで、その法則をつかめないままひたすら結果をこうむることを余儀なくされているために、なにごとにも一喜一憂を強いられ[=奴隷状態]、その不完全さに応じた不安と不幸のうちに生きている。(S:p.37)

木の実に関して神はアダムに何と言っていたか。

園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。(創世記:2.16-17)

アダムはこれを法[=道徳的な禁止命令]として受け取ったのだとスピノザは言う。

[……]神はアダムに、その木の実を食べたら必ずふりかかるはずの災いは啓示したけれども、災いがふりかかること自体の必然性は啓示しなかったのだ。その結果、アダムの方はその啓示を必然的な永遠の真理ではなく法として、つまり賞罰をともなう決まりとして受け取ることになった。賞罰は、行われたことそのものの必然性や本性からふりかかってくるものではなく、もっぱら支配者の好みや勝手な命令に基づいて与えられるものである。こういうわけで、その啓示はアダムから見た限りで、もっぱら彼の認識不足のために法となったのだ。そして神はそのようなアダムにとって、いわば立法者あるいは支配者だったのである。(SS:pp.204-205)

神が立法者や支配者として描かれたり、正しいもの、哀れみ深いもの等々と呼ばれたりするのは、民衆の[不十分な]理解力のせい、ただの認識不足のせいである。(SS:pp.209-210)

ドゥルーズは次のように言う。

「おまえはこの木の実を食べてはいけない……」。不安でもあり無知でもあるアダムは、このことばを禁止命令として受けとる。だが、何がここで問題となっているのだろう。ある木の実のことであり、そのかぎりでこの木の実はアダムがそれを食べれば毒となるだろうということである。まさにこれは、二つの体[物体・身体]が出会い、そのそれぞれに特有の構成関係がひとつに組み合わさらないケースである。その木の実は毒としてはたらくだろう。いいかえれば、それはアダムの身体を構成している諸部分[パーツ]を、(またそれと並行して、この木の実の観念は、アダムの心を構成している諸部分[パーツ]を)、アダム固有の本質にはもはや対応しない、あらたな構成関係のもとにはいるように決定するだろう。ところがアダムは原因について無知なために、神はただたんにその木の実を摂取すればどういう結果となるかを彼に啓示しているのにすぎないのに、神が道徳的になにかを禁じているものと思いこんでしまうのだ。スピノザが何度でもくりかえしこれを例としてあげるのは、一般に私たちが〈悪〉[悪しきこと]としてとらえている現象は、病いや死も含めて、すべてがこのタイプの現象、いいかえれば悪しき出会い、一種の消化不良、食あたり、中毒であり、つまり構成関係の分解にほかならないからである。(S:pp.41-42)

ところで、小泉義之は精神の力、身体の力を認識するためにこそ「心を重んじないこと、心を軽んじることが必要だ」と言う。なぜか。心は原因を知らず、効果を引き取るだけだからである。心には情報価値しかない。健康なときには晴れ晴れとし、病気のときには冷え冷えとする。これは心の状態であり、多くの原因から生じる心的効果として与えられる情報である。しかし、この心的効果としての情報からは、決して原因を知ること、すなわち認識には至れない。なぜか。

第一に、心の状態が生じる際には、多くの原因が作動している。身体のパーツはきわめて複雑に関係して作動する。精神のパーツに当る諸観念も、きわめて複雑に関係して作動する。パーツは、複雑な法則に従って合成や分解を繰り返す。人間の意識の精度はあまりに粗いために、パーツを識別することすら叶わない。第二に、心の状態は、複雑きわまりないパーツの組合せから現出する光学的な効果にすぎないからである。鬱屈状態とは、多くの原因の組合せが発するシーニュ(サイン)である。だから、鬱屈状態を精査したところで、原因の認識は少しも進まない。虹をいくら見つめても、虹の出現の原因は分からないように、心のシーニュにいくら意を注いでも、何も分かりはしない。(DT:p.139)


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